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一話

 東京って名前がブランドだったのは、もうずいぶん昔の話になった。頻発したバイオテロに怯えて、人は大都市から逃げ出した。居残るやつは命知らずと呼ばれた。文字通り命の価値などかけらほども感じないガキどもや悪党どもと、命の代わりになにかを得ようとする者と。やむにやまれぬ事情があると言うやつもいるが、家庭だ仕事だ行き場がないだ、どう考えたって生死の境目で考慮に値するものとは思えないが、どうだろうね?

「どうだろうねって、あたしに言われてもねぇ。ほい、大根」

 薄汚れた小さな掘っ立て小屋の軒先で、ばあさんは縄で吊った大根を一本突き出した。あちこちから、肉の焼ける匂いや香草香木の類、糞尿やら様々な動物のむせ返るような香りが漂ってくる。

 日本って名前もだいぶ価値を落としたもんだ。ここ数十年の政治の失敗、追い討ちをかける難民の大量入国、そして立て続けのサイバーテロがこの国にとどめをさした。大通りは閑散として威容を誇るビルはからっぽ、走るのは天然ガス車か信じられないような高級車だけ・・・貧富の格差ってやつは国の中身を映し出す鏡だね。それに、金持ちはたいてい悪党だ。

 一方、一歩裏通りへ入れば、狭い路地にこぢんまりした小屋建てて商売している不法滞在者。ばあさんたちくらいの甲斐性が日本人にもあれば、ちょっとは結果も違っていたはずだがね。

「甲斐性ってかい。商売しなきゃ生きてけないからね。だってのにこの前、都の職員が小屋の撤去だとか言ってやって来てさ。追い返すのが大変だった。なんでも都の景観利益がどうたらって。馬鹿言っちゃいけないよ。あんたら日本人より、ガイジンの方が多い町なんてゴマンとある。景観はどうだか知らないが、都民が生きてってられるのは誰のおかげか、よぉく考えてほしいもんだよ。え?日本語がうまくなったって?謝謝ー。さあ金払っとくれ。世辞言ったってまけないよ」

 財布がないのに気付いたのはその時だった。

 さっきまではあった。落とした、盗まれたか。心当たり?数え切れない。この人ごみでどうやって人とぶつからずに歩けっていうんだ?まあ、諸文化のごった煮みたいなこの通りで珍品探しに没頭していたのは、確かに迂闊だったかもしれない。

「またかい」

 またかいはないだろ?

「先生の財布狙うなんて、ここらじゃあの悪ガキどもくらいさね。五つでもうスリの手口覚えちまって、手当たり次第ってのには困ったもんだ。あとでテイシンちゃんに取り返してもらいな。お代はツケにしとくよ。それとも、一回タダでやってくれるかい、先生?」

 冗談じゃない。経営している針灸院は格安を売りにしているが、それでも大根一本の値段と比べれば桁が違う。一桁くらい。

「そういえば、テイシンちゃん元気かい?もう一週間も来てないんだ」

 ばあさんの顔に刻まれた数え切れないしわが、てれた表情を一層ひきたたせた。自分の孫娘のようにテイシンをかわいがるこの老婆は、その心情を人に知られることをひどく嫌うのだが、実際には筒抜けだ。

 この店先でテイシンと出会ったのだと、普段気にもしないことなのに。彼女の祖母のような表情をするばあさんを見ると、毎度のように思い出す。

 あの時はばあさん、動転してたな。

 小さな子供が持つには大金を手に、テイシンは店のすぐわきで、通行人に懇願していた。誰か、このお金をあげますから、あたしを拾ってください・・・

「もう十年くらい経つかねぇ。そう、テイシンちゃんもあの頃はあれくらいの歳で・・・」

 そう言ったまま絶句したばあさんの視線追って、同じくこちらも言葉を失った。

 人ごみをかきわけるというより、その波に翻弄されるかのようにとつとつと歩いてくる少女は、寒空には不似合いなワンピース一枚で・・・まあその格好はこの街では珍しいことではないが、その表情を見た瞬間、ただでさえ弱弱しい太陽の光が一挙にしぼんで萎えてしまったような気がしたのだ。

 表情を見た・・・というのは、正確には違う。少女は見るべき表情をなにもあらわしてはいなかったのだから。

 伏し目がちの瞳は底のない穴ぐらを連想させる深い闇色で、あるいはガラス細工を思わせる無機質な光かとも見えた。力なくゆるんだ口元が微かに動いているのがわからなければ、一目で死体が歩いていると勘違いしたに違いない。

 見たところまだ十にも満たない子供には相応しくない表情だ。・・・いや、違う。どこの誰にだって相応しくない表情だ。

「まあ、まあまあ」

 ばあさんは慌てたように店を飛び出して、誰からも相手にされない少女の頭を抱き抱えた。ちょいと、ちょいと、と、少女をほったらかしておく周囲の人間をまるで責めるように声をあげる。

 他の通りならいざ知らず。この世話好きでお人好しなお節介ばあさんのひととなりは有名で、それは好感をもって受け入れられているこの一角では、たちまちにして少女の周囲に人の輪ができあがった。

 こんなことも一度や二度ではないらしい慣れた話ぶりで、両親はどうしたかという議論はすぐに通り過ぎ、少女を落ち着かせる場所はどこか、という激論に達した。

 ばあさんは振り向いた。それはもう満面の笑顔で実に嬉しそうに。

「ちょうどいいところに来たね、先生」

 逃げたくなった。

ありがとうございました。

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