序章『ヴァスト・ル・ク』
趣味の投稿です。
なんちゃってファンタジーです。
更新頻度は稀になります。宜しければどうぞ。
因果応報は世の常だ。
誰かが死の間際に見る光景は、その人物の価値と意味を計るモノであるとも云う。
そして、真っ暗な闇の中に降りてくる細く頼りない命綱は少なくとも彼の望んだモノでは無い。
「ねぇ……」
鼓膜を弱々しくノックしたのは、不意に響いた幽かな少女の声だった。
「……ねぇ、死んじゃってるの……?」
そんな些細では覚醒にはまるで足りない。強い意志の篭らない言葉等、僅かな意味さえ持ち得ない。
「ねぇ、おじさん……」
それでも。
ヴァスト・ル・クが頭上から降る雑音に薄っすらと目を開けたのは、その言葉が『気に入らなかった』からか。それとも彼がどうしようもなく弱っていたからなのか。
ぼんやりと滲んだ彼の視界の中には自分の顔を見下ろす少女の姿。当然のように知らない顔だった。年の頃は十に届くか届かないか位であろうか。降りしきる雨に濡れた短く黒い髪に大粒のルビーのような双眸。
面立ちこそ美しいが、そのなりは別だった。酷く疲れている。服はあちこちが破れ、顔と言わず手足と言わず泥に塗れている。半開きの目では判別が付かなかったが、少女が全身に傷を刻んでいるのも想像には難くなかった。
「生きてた……」
痛ましくしゃがれた、潰れたような声がそう云った。少女の言葉には殆ど抑揚が無い。呼び起こしておいて無責任な、そんな彼女の声に応えるのも億劫でヴァストはその眼球だけを動かした。
森に居る。
何処の森かは分からない。
そも、如何にして敵を振り切り、打ち倒し。ここまでたどり着いたのかも――その全てを覚えても居ない。
肌を何度も打ち付ける水の感触さえ、何処か他人事にさえ感じられた。濡れて冷え切った手足は鉛のように重い。体は自分のモノでは無いかのように固まってしまっている。雨粒を払う一動作を取るのにさえ面倒が勝る悲惨な脱力感は、粘度の強い沼を思わせる疲労に全身を絡め取られている証明だ。
――未だ胡乱としたままではあったが、彼は早々に理解した。丁度血が流れ出る様と同じように今この瞬間にも『自らという存在』が失われ続けている事を自覚した。辛うじて姿勢を保っていられるのは偶に木に寄りかかっていたからというだけ。つまる所、経緯は兎も角、結論は一つも変わらない。状況はこの上も無く最悪のままという事だ。
ざあざあ、ざあざあ。
耳を侵すのはまるで羽虫が飛び込んだかのような小煩さである。垂直に落ちる滂沱の涙さえヴァストには天の向けた嫌がらせにしか思えない。
鬱蒼と茂る黒い木立が踊る雨粒に応えるように傷みを煽る。灰色の空から影が降る光景は高みから伸びた同色のカーテンが揺れているかのようだった。
「大丈夫?」
しかし、幾ら雨が煩いからと言っても、それ以外全てを許せる理由も無い。
(……メスガキめ……)
重い瞼をぴくりぴくりと小さく震わせ、ヴァストは雨音に混ざって何度も降ってくる少女の声に内心だけで毒吐いた。
腹に穴が開いて平然としている人間は居ない。居たとしたならば、それはもう人間では無い。実を言えばヴァストは最初から人間では無かったが、肉体を得るという事は肉体の不便に囚われ、肉体の枷を得る事とも等しいのだ。
彼は気まぐれで受肉した自身の迂闊さを後悔したが、同時に思い直しもした。問題は肉体そのものの損傷では無かった。問題にするとすれば『何故、損傷するような事態に到ってしまったか』――其方であろうと。
(確かに。連中にヤられりゃ、体の有無は同じ事)
腹に開いた大穴は単にヴァストの肉体が傷付いたという意味に留まらない。彼を彼として構成するもっと上位の本質が傷付いた証明に他ならない。元より単に穴を開けられた位ならば些事なのだ。『腹に穴が開いた』なんてモノは彼にとってはそう見えるだけの問題でしかない。
「……ねぇ、大丈夫?」
幾度目かの繰り返しである。
もし、ヴァストが万全だったならば少女の頭はとうに割れていた事だろう。さりとて、それは甘美ながらに殆ど意味の無い妄想に過ぎなかった。唯そこに在るだけでも億劫な――瀕死の彼に余計な何かをする余力は無く。繰り返される不快な雑音を止めるべく、彼は全身全霊の努力を払う事を余儀なくされた。
「……黙れ」
ヴァストが漸く絞り出した一言に少女は微かな反応を見せた。
「……」
「うるせぇ、よ。メスガキが……」
「……良かった……」
「……あぁ……?」
相変わらず殆ど感情の篭らない一言だった。ヴァストは少女に剣呑とした視線を向けた。
(……何が、いいのか)
彼は呟いた自身の声の頼りなさに無意識の苦笑いを浮かべていた。
生まれてこの方、これ程に痛んだ事はない。永い記憶に残る何れの闘争も、危機も彼をこれだけ追い込む事は出来なかったのである。半死半生という次元ではない。世の道理を捻じ曲げるのは彼の生業にも等しいが、その彼をしても時に避け得ないのが現実だ。
『ヴァスト・ル・クの破滅』がすぐ傍まで忍び寄っているのは確実だった。この期に及んでまだ口を利く事が出来る事には――利く気がある事には――彼自身少なからず驚いている位である。
「……貴方は誰?」
「……誰、ね」
今一つ噛み合わないやり取りに素直に応える事はせず、ヴァストは冷笑した。
目の前の少女は確かに人間だ。人間が人のなりをした誰かを見たならば当然の問いであるとも言える。だが、その問いへの答えで彼を正しく表す事は実は不可能であった。
「メスガキめ。聞く時は、先に、名乗れよ」
「……わたしは、ロゼット。ダレスの村のロゼット・シャトレー」
当を得ない答えはすぐに戻ってきた。
その返答が意味を為していなかったが故に少しだけ興味を引かれたヴァストはぜえぜえと喉を鳴らし、もう一度ロゼットと名乗った少女を眺めた。
「……どうして、此処に。こんな所にいる……」
「逃げて、来たの」
この奇妙なシチュエーションに似合いの暗い瞳をした少女だった。少なくとも子供が持っている溌剌さのようなモノは微塵も感じられない。
良く見れば幼い美貌は突っ張るように引きつっていた。赤い大きな瞳はその白目の部分まで充血し、目の周りは特に酷く腫れていた。
恐怖、焦燥、絶望、虚脱――綯い交ぜになった『負』の臭いは他ならぬ彼には隠せない。
(成る程、惨めな俺に相応しい)
ヴァストは少しだけ唇を歪めた。元より此の世等に大した未練がある訳では無かったが、朽ち行く自分には丁度良い相手だと思ったからだった。
「そうか。俺は……そうだな……」
男は逡巡して言葉を探した。
「……そうだな、魔法使い。そう、魔法使いだ」
ヴァストの言葉は正解であり、不正解でもあった。
一語は端的に彼の一部分を表し、同時にその本質を隠している。そう表現した事に大きな意味があった訳では無かった。唯、皮肉な洒落は利いていた。
「魔法使い……」
「……ああ……俺は大がつく魔法使いサマさ」
極められた魔法は確かに万能だ。森羅万象を捻じ曲げ、有り得ざる奇跡を顕現する。
その行使者がヴァスト・ル・クであったならば――『単純な条件』さえ満たせば『殆ど』不可能は無いに等しいのだ。瀕死の際にある今の彼ですら『殆ど』不可能は無いのだ。
自分の面倒も見れない癖に、とヴァストは自嘲した。それでも言葉に嘘は無い。
「本当に」
「……?」
「本当に、えらい魔法使いなの……?」
しかしこの一言は皮肉な事にロゼットに劇的な変化を与えていた。
少女が『大魔法』なる深淵の幻想を正しく理解している可能性は無きに等しい。だが、言葉を境に暗く澱んでいた瞳に光が戻っていた。硬く強張っていた頬に僅かな赤みが差し、乾いた唇が今までよりも強い言葉を紡いでいた。
人間とはかくも現金な生き物なのか――
「ああ……」
ヴァストは頷いてから咳き込んだ。彼は自身が長くない事を嫌気が差す程に知っている。此の世に最後の名残を惜しむ時間に――こんな子供を相手にするのも馬鹿馬鹿しいと考えたが、袖擦り合うも何とやらとも言う。多少なりとも興味が沸いてきた事もあり、一人で目的も無く消えるよりは幾らかはマシかと考えてこの最後の時間をロゼットに付き合ってやる事に決めた。
勿論それは目の前の少女への好意という訳では無く、唯の気まぐれに過ぎなかったのだが――
「……願いでもあるのか? 叶えてやるぜ」
「――――」
ロゼットは大きく目を見開いていた。
まるで夢の中にでも、その言葉を待っていたかのような顔だった。
「どうした……? メスガキ。随分といい顔をするじゃネェか……」
俺はケーキか何かなのか、と。ロゼットの子供らしい底の浅さをせせら笑う。
「本当にっ……!」
「ああ?」
「本当に? 本当に――叶うの?」
声が初めて熱っぽい。
終わりに在る自分に熱烈たる希望を見出したロゼットをヴァストは冷ややかに眺めていた。
世の中に無償の善意等無い。増してや『神』ならぬ『悪魔』の所業ならば尚の事。彼に言わせれば、美味過ぎる話を聞いた時にまず疑ってかかれないのでは、知的生物として些か愚かが過ぎるというモノだ。
「……お代は、貰うぜ」
「お代……?」
「例えば……ああ、お前の血肉、その魂までも」
ざわざわと梢が揺れた。大粒の水滴をふるい落とし、ぬかるんだ地面を余計に穿つ。
いがらっぽい笑い声を上げ、生臭い息を吐き出す。目を見開き、歯を剥いたヴァストに息を呑むロゼット。沈黙と視線の交錯はまさに永い一瞬である。
ヴァスト・ル・クは魂を侵す呪いである。恍惚なる毒そのものである。
幾ら死の際に立たされていようとも、彼の抱く魔性は並の人間に受け止め切れるそれでは無い。ひとかどの大魔術士とて、まともに対峙すれば無事にはいられぬ存在だ。ましてや、年端も行かぬ少女ならば――その結末は分かり切っている筈だった。
――それなのに。
「構わない」
一秒と置かずに戻ってきた返事は凛としていて一分の迷いすらも感じさせなかった。
匂う程の魔気に射抜かれてもロゼットは平然とした顔で立っていた。意識を手放す事は無く、怯える事すらせずに。彼女は真っ直ぐにヴァストの瞳を見つめていた。正視すれば狂気が見える恍惚の魔眼、その奥までを覗き込もうとするかのように、ただじっと。
「……は」
恐るべきまでの偶然、この出会いにヴァストは大きく目を見開いた。
「は――」
意識すらしない間に喉の奥から声が滑り落ちた。
「は――はははははは――!」
悪魔はそれ以上堪え切れない。堪え切れずに場違いなまでの大笑をした。
久しく交わしていかなかった契約。交わす事さえ出来なかった契約の機会が、契約に足る魂が、最期の今になって訪れたのはやはり奇妙な配剤だ。ロゼットを貰い受けたとしてもヴァストに先は無い。彼女を喰らった所で、間近の破滅を逃れる事までは叶わないのだから。この出会いは余りにも無意味で、同時に滑稽ですらある。
「いいぜ、気に入った」
此の世の最後に訪れた『機会』にヴァストは機嫌良くそう言った。笑ったから――笑える位の出来事があったからか、彼の全身には僅かに活力が戻っていた。ならば一度の奇跡を行使する位は容易い。ヴァスト・ル・クと契約に足る魂が願うならば――十分過ぎる。
「喜べ、メスガキ。お前の願いを叶えてやる――」
彼はつい先程、彼自身が笑い飛ばした美味過ぎる話を微塵の悪意も無く目の前の少女に持ち掛けていた。これから滅びる彼がロゼットの血肉魂を得る意味は無い。取立ての無い悪魔等、三千世界に例の無い馬鹿なお人よしに過ぎないでは無いか。
(だが、それも悪くねぇ――)
ヴァストは永き生の中で初めて掛け値無く善意だけでそう言った。考えてみれば『此の世でしていない事』等殆ど無い。最後に残した『例外』を消化するのも悪くは無いと思ったのだ。
「じゃあ……」
唇が震える。緊張か、不安か、期待か、それ以外の何かに。
泣き疲れたような顔をほんの僅かだけ緩ませて――
――ロゼット・シャトレーは『殆ど』叶う願いの中から大凡唯一の不可能を口にした。
良ければコメント下さい><。