婚約破棄の契約書を三か月前から用意していた令嬢、辺境で温泉と鉱脈を掘り当てる
舞踏会の壇上で、ユリウス殿下が私の名前を呼んだ時、正直に言えば心臓が跳ねた。
ただし期待で、ではない。予感が当たったことへの高揚だ。
「クレア・フォン・ヴェルグ。本日をもって、貴女との婚約を破棄する」
ユリウスの隣には、銀髪の少女が所在なさげに立っていた。先月の聖女召喚で異世界から現れたリーリエ。泣きそうな顔で両手を胸の前に組んでいる。彼女自身に罪はない。突然この世界に放り込まれて、たまたま隣にいた王子に縋っただけだ。問題はユリウスの方にある。召喚から三週間で正妃候補を切り捨てるあたり、この男の判断力の底が知れる。
七年間の婚約生活で、ユリウスが私の研究に興味を示したことは一度もなかった。鉱物の結晶構造について話せば欠伸をし、地層調査の報告書を見せれば「令嬢らしくない」と眉をひそめた。そのくせ私の実家の爵位と領地には執着していた。つまり、この婚約は最初から帳簿の上だけの取引だった。それを解消してくれるというなら、感謝しかない。
広間が静まり返った。三百人の貴族が私の反応を待っている。泣き崩れるか、怒り狂うか。どちらかを期待しているのだろう。
私は深呼吸をひとつして、口を開いた。
「本当ですか。ああ、本当ですか。願ってもないお申し出です」
ユリウスの顔が固まった。台本にない反応だったらしい。
「殿下、お言葉ですが、婚約破棄には王家礼法典第七十二条に基づく正式な手続きが必要です。破棄申立書、慰謝料の算定、領地権益の再配分。ご準備はお済みですか」
「な……そのようなことは後で」
「後では困ります。口頭での破棄宣言は法的拘束力を持ちませんので」
私は懐から折り畳んだ羊皮紙を取り出した。三か月前から携帯していた。ユリウスが聖女に入れ込み始めた頃に、念のため作っておいた婚約破棄の同意書だ。条項は私が書いた。
「こちらに署名をお願いします。慰謝料として金貨十二万枚、ならびにヴェルグ辺境領の完全自治権の譲渡。あ、第五条の免責事項もご確認ください。破棄後の名誉毀損は双方禁止となっております」
ユリウスは目を白黒させた。リーリエが不安そうに彼の袖を引いている。周囲の貴族たちは、予想外の展開に口を半開きにしていた。
「金貨十二万だと? ふざけるな!」
「ふざけておりません。七年間の婚約期間中に私が辞退した縁談の機会損失、王宮行事への出席に費やした時間と費用、ヴェルグ家から王家へ納めた婚約準備金の返還。すべて明細がございます。むしろお値引きしております」
宰相のグラハム公爵が渋い顔で割って入った。「殿下、この書面は法的に妥当です。拒否なさるなら、枢密院での審理が必要になりますが」
ユリウスは唇を噛み、震える手で羽根ペンを掴んだ。署名する瞬間、彼の目には怒りと屈辱が混じっていた。私は微笑んだ。感謝の気持ちは本物だった。この男のおかげで、ようやく自由になれる。
署名済みの書面を丁寧に折り畳み、懐にしまった。三百人の貴族の前で一礼する。
「長年のご厚誼に感謝いたします。それでは皆様、ごきげんよう」
踵を返した。背後でざわめきが広がったが、振り返らなかった。
翌朝、私は荷造りを終えていた。王都の屋敷に未練はない。書斎の蔵書と実験器具、それからヴェルグ家に伝わる鉱物標本の箱。必要なものはそれだけだ。
護衛騎士のダリオが馬車の前で待っていた。元は父の部下で、私がヴェルグ領に戻ると言った時、黙って付いてきた。口数の少ない男だが、剣の腕は確かだ。
「お嬢様、本当によろしいのですか」
「何が」
「辺境ですよ。魔獣の森に隣接した、王都から馬車で十日の僻地です」
「だから行くんです」
馬車が走り出した。石畳の振動が座席に伝わる。窓の外を王都の街並みが流れていく。宝石店、仕立屋、高級菓子店。どれも私には無縁だった。七年間の婚約生活で学んだことがある。王都の社交界ほど退屈な場所はこの世に存在しない。
ヴェルグ辺境領に着いたのは、十一日目の昼過ぎだった。
館の管理人であるベアトリスが出迎えてくれた。五十代の恰幅のいい女性で、私が幼い頃に乳母を務めていた人だ。
「お嬢様、おかえりなさいまし。お部屋は整えてございます」
「ベアトリス、お嬢様はやめて。領主になったから」
「まあ」
ベアトリスの目が丸くなった。事情を説明すると、彼女は腹を抱えて笑った。「殿下が聖女に惚れて、お嬢様が手切れ金をもぎ取ったと」
「正確には合法的な契約履行です」
館は古いが頑丈な造りだった。石壁は厚く、暖炉は各部屋に備え付けてある。問題は人手だ。使用人はベアトリスを含めて三人。領民は六百人ほどで、大半が農業と牧畜で暮らしている。
私が最初にやったのは、裏山の地質調査だった。
ヴェルグ領の裏山には、幼い頃から気になっていたことがある。冬でも雪が解ける一帯があり、地表から微かに硫黄の匂いが立ち上っている。温泉だ。火山性の地熱源が地下にある。
三日間かけて地層の露頭を観察し、水脈の方向を推定した。前世の私は地質学を専攻していた。卒業論文は火山性温泉の湧出メカニズム。温泉の掘削に必要な知識は、頭の中にすべて残っている。露頭の縞模様を指でなぞりながら、前世の研究室を思い出した。蛍光灯の下で岩石の薄片を顕微鏡で覗いていた日々。あの頃は、知識が実際に役立つ日が来るとは思っていなかった。
「ダリオ、ここを掘って」
「……はい?」
「五メートルほど掘ったら、お湯が出ます」
ダリオは困惑した顔で鶴嘴を振るった。四メートル半で、地面の底から熱い水が噴き上がった。
「出ましたね」
「出ましたが、なぜ分かったんですか」
「地層の傾斜と硫黄の分布を見れば分かります」
温泉の湧出量は毎分八十リットル。泉質は硫酸塩泉で、関節痛と冷え性に効く。これだけの量が安定して出れば、湯治場を作れる。
ベアトリスに湯を見せた時、彼女の目が光った。
「お嬢様、これは商売になります。近隣の領民も、街道を行き来する商人も、みんな体のどこかが痛いんです」
「分かってます。ここに露天の湯屋を作ります。入湯料は銅貨三枚。まずは領民に無料で開放して、評判を作りましょう」
湯屋の建設と並行して、もう一つ取りかかったことがある。裏山の地層から採れる青白い鉱石だ。前世の知識と照合すると、これは魔力伝導率の高い希少鉱石に似ている。磨けば魔導具の芯材になる。
一か月後、湯屋が完成した。簡素な板張りの小屋に石を積んだ湯船だが、湯加減は申し分ない。口コミで噂が広がり、近隣の領地から商人や旅人が訪れ始めた。
宿が足りない。ベアトリスが領内の空き家を借り上げて民宿にした。農家の女たちが漬物や燻製肉を出すようになり、パン焼き窯を持つ老夫婦が焼きたてのライ麦パンを朝市で売り始めた。街道沿いに手書きの看板が立ち、「ヴェルグの湯」という名前が周辺の領地に知れ渡った。収入が生まれ、領民の顔つきが変わってきた。
夜、湯屋の営業が終わった後、私は一人で湯に浸かった。肩まで沈めると、一日の疲れが湯に溶けていく。見上げると、星が近い。王都では建物の灯りに遮られて見えなかった星座が、湯気の向こうに手を伸ばせば届きそうなほど鮮明だ。湯の熱と夜気の冷たさが肌の上でぶつかって、硫黄の匂いがほんのりと鼻をくすぐる。深呼吸をすると、肺の奥まで洗われるような気がした。これだ。この感覚が欲しかった。
その頃、王都から一通の書状が届いた。差出人は宰相府。内容は簡潔だった。聖女リーリエの「奇跡」に疑義が生じており、調査が行われている、と。
私は書状を畳んで引き出しにしまった。興味はあるが、今は忙しい。魔鉱石の精製実験が佳境だ。
二か月後、続報が届いた。今度はダリオの元同僚からの私信だった。
聖女の「浄化の奇跡」は、実は王家の秘宝である聖杯の力を横流ししていたことが発覚した。リーリエ本人に悪意はなかったが、彼女を利用して聖杯の力を私物化していた神官長が逮捕された。ユリウスは聖女の後ろ盾を失い、王位継承順位が第三位から第五位に転落。婚約破棄の際に支払った慰謝料も、王家の財政を圧迫する要因として枢密院で問題視されているという。
ダリオが書状を読み終えた私の顔を見て、「笑っていますよ」と言った。
「笑ってません。口角が上がっているだけです」
その翌週、予想もしなかった客が来た。
館の門を叩いたのは、黒い外套を纏った長身の男だった。ダリオが警戒して剣に手をかけたが、男は静かに名乗った。
「ヴァルター・フォン・シュヴァルツ。北方黒騎士公爵です」
北方の暴君。血塗れの公爵。辺境諸侯から恐れられている男だ。私は知っていた。この男の領地は鉄鉱と軍馬の産地で、王都とは独立した経済圏を持っている。
「何の御用ですか」
「お嬢さんが掘り当てた温泉の噂を聞いた。それと、裏山から出る青い鉱石」
「鉱石をご存じなんですか」
ヴァルターの目が細くなった。灰色の瞳に、鋭い知性の光がある。
「あれはアズライト。魔力伝導率が鋼鉄の四十倍ある。北方では百年前に鉱脈が枯渇した。あんたの裏山に眠っているなら、王都の連中が嗅ぎつける前に精製技術を確立しろ。でなければ横取りされる」
忠告だった。そして、おそらく取引の申し出でもある。
「精製に必要な触媒をお持ちですか」
「北方にしかない。交換条件がある」
「温泉ですか」
ヴァルターの表情が一瞬だけ崩れた。口元がわずかに緩んだように見えた。
「実は……腰が痛い」
暴君は、腰痛持ちだった。
私は声を出して笑った。前世でも、今世でも、初めて腹の底から笑った気がする。
「どうぞ。湯屋は裏手です。タオルはベアトリスに言えば出します」
ヴァルターは黙って頷き、裏手へ向かった。ダリオが「本当にいいんですか」と囁いたが、私は手を振った。
「腰痛の人間に悪い人はいません」
根拠はないが、確信はある。
夕暮れ時、湯から上がったヴァルターと、館の食堂でチーズと黒パンをつまみながら話した。触媒の取引条件、鉱石の精製工程、北方の鍛冶技術。話は尽きなかった。この男は有能だ。そして、王都の権力闘争に興味がないという点で、私と似ている。暖炉の火がはぜる音だけが、二人の会話の合間を埋めていた。
ダリオが食堂の入口に立っているのが見えた。護衛の任務だから当然だが、その表情がいつもより硬い。声をかけようとしたら、先に目を逸らされた。
「あんた、変わってるな」
「よく言われます」
「褒めてる」
「知ってます」
窓の外で、ヴェルグ領の山々が夕日に赤く染まっている。ここには宮廷の陰謀も、社交界の退屈も、興味のない婚約者もいない。あるのは掘れば湯が出る山と、磨けば光る鉱石と、腰痛持ちの暴君だけだ。
王都がどうなろうと知ったことではない。私は私の領地を耕す。それが、七年間の社交地獄から解放された令嬢の、ささやかで愉快な復讐だ。
さて、明日は鉱石の切削実験だ。忙しくなる。
朝、窓を開けると、湯屋の方角から湯気が立ち上っていた。街道沿いでは早起きの商人が荷を解き始め、老夫婦のパン焼き窯からライ麦の香ばしい匂いが風に乗ってくる。ベアトリスが中庭で洗濯物を干しながら、領民の子どもたちに「朝ご飯はまだかい」と声をかけている。ダリオは館の門前で素振りをしていた。こちらに気づくと、ぶっきらぼうに「おはようございます」と言って、また目を逸らした。耳が赤い。
裏山の方角を見ると、北方へ続く街道の遠くに砂煙が上がっていた。ヴァルターの二度目の荷馬車だろう。触媒の第一便。あの男、約束は守る。
掘るべき鉱脈がある。試すべき精製法がある。売り込むべき商人がいて、口説くべき鍛冶師がいて、守るべき領民がいる。退屈だけはしそうにない。
私は窓辺で髪を結い直し、作業着に袖を通した。今日もいい天気だ。




