本命なのか、義理なのか。
私は、ごく普通のサラリーマンだ。名は犬山武史。中肉中背、細い銀のフレームの眼鏡をかけ、毎日スーツを着て出社している。
私が他の人と違うところは、頭部が犬であることだ。正確に言うと、ビーグル犬。
だが私は、犬ではない。かといって人間でもない。そう、強いて言うなら「人外」。去年の年末に人間ドックを受けた時、問診をした医師にそう言われた。
学生時代は「犬頭」などといじめられたりもしたが、今は「人外」として誇りを持って生きている。
* * *
『ホワイトデーが日本に定着した時期は、1980年代以降である。〇か×か』
二月最初の金曜日の昼休み。生姜焼き定食を食べ終えた私は、社員食堂でスマホをいじっていた。自販機の紙コップコーヒーを飲みながら、眉を寄せて画面を睨む。最近熱中しているクイズアプリ、もう少し頑張るとレベルが上がってキャラが追加されそう。
(1980年代か……もう少し古いんじゃないか?)
×をタップすると、画面に「ざんねん!」の文字が大写しになった。くそう、外れたか。
「何してるんです?犬山さん」
突然横から声を掛けられ、慌ててそちらを向いた。
「ああ、佐伯さん。今からお昼ですか。ここ空きますよ」
立ち上がろうとすると、
「いえいえ、いいんです。隣り座ってもいいですか」
佐伯さんはそう言って私の右の席に座った。テーブルに置いたトレイには、サラダとヨーグルトが置かれている。……それで足りるのか?
佐伯さんは総務課の女子社員だ。体つきは細くて小柄、くりっとした丸い瞳とふわっとした茶色の髪は、愛らしいポメラニアンを思わせる。
「すみません、ちらっと画面見えちゃいました。ゲームですか、かわいいですね」
彼女にそう笑顔を向けられ、私はちょっと調子に乗って、彼女に画面を向けて見せた。
「いいでしょう、『クイズでわんわん!』ですよ。レベルが上がると、可愛い犬キャラがもらえるんです。こんな仕様だけど、結構難しいんですよ」
「へぇ、クイズかぁ。私あんまり得意じゃないんですよね」
そう言って、佐伯さんは僕の隣で横髪を耳にかけ、「ふぅ」と小さくため息をついた。その姿には、普段はあまり感じない疲れのようなものが滲んでいる。私は軽く眉をひそめた。
「……どうしたんですか、佐伯さん。いつも元気なあなたが、ため息なんて。何か悩み事があるなら、聞きますよ?」
「あっ‼いえいえそんな、たいしたことじゃないんです。……ただ、バレンタインデーが近いな、と思って」
バレンタインデー⁉
あまりにも自分と馴染みのない単語に、思わず言葉を失った。
もしや佐伯さんには、バレンタインデーにチョコやらネクタイやらボクサーパンツやらを贈りたい意中の相手がいるのだろうか。
自慢できることではないが、私には、バレンタインのいい思い出はひとつもない。思い返せば高校一年の二月、一人のギャルっぽい女子がクラス全員の男子にチョコを配るという一大イベントがあった。だが、残念ながら私の分はなかった。
「あー……犬山はさ、チョコとか、食わなくね?だってほら、犬だし」
ギャルは首を傾げながら、申し訳なさそうに私に言った。
今なら、私でも言える。私は、犬ではない。人間でもないが、断じて、犬ではない。その証拠に、人間が食べるものは何でも食べられる。
だが、その当時のまだ青い私は、苦笑いしながらこう返した。
「そう、まぁ犬だからね。チョコは体に毒だから」
思い返して、愕然とした。バレンタインデーに関する記憶として、これしか持ち合わせていない私は、実はかなりかわいそうな部類に入るのでは。
「……バレンタインデーが、どうかしたんですか?」
できる限り冷静を装いながら、佐伯さんに尋ねた。佐伯さんは私の言葉に、小さく肩をすくめた。
「今時どうかと思うんですけどね。うちの課、まだ義理チョコ配る風習が残ってるんですよ」
「総務課、そうなんですね。コロナの時期にもう、全社的になくなったかと思ってましたが」
「いやほんとに、一度なくなったのにまた復活しちゃって。あれ、別にいいことないと思いません?うちらも面倒くさいし、男性社員だってお返し用意しないといけないでしょ。しかも少しお高めの」
佐伯さんは一気に吐き出すようにそう言うと「はー……っ」と今度こそ遠慮のない大きなため息をついた。
「今年の義理チョコ当番、私なんですよぅ。もう、ホントにいや」
「ちょっと大げさに考えすぎでは?佐伯さんからチョコもらったら、義理だろうがなんだろうが、たいていの男性は嬉しいと思いますよ」
適当なことを、と言われるかもしれないが、これは高校生の頃に義理チョコすらもらえなかった私からの率直な意見だった。それを聞いて佐伯さんは、ちらっと上目遣いに私のことを睨んだ。
「犬山さん、知ってるでしょ。うちの課長」
「阿川課長ですか?……あーそうか、阿川さんかー……」
私は脳内に総務課長を思い浮かべ、そしてその瞬間に、佐伯さんが何をこんなに嫌がっているのか理解した。
阿川課長は、悪い人ではない。穏やかで人当たりも良く、仕事もそつなくこなす。社員からの信頼も厚い。
ただ、この人は社内では、いわゆる「洒落者」として知られていた。スーツやネクタイはもちろん、革靴にネクタイピンやカフスボタンまで、本当に洗練されたものを身に付けている。腕時計にいたっては、いくらするものなのか私には見当もつかない。中企業の中間管理職には、簡単に手の届くものでもないだろう。一説によるとナントカくじが当たったとか、投資で儲けているのだとか。
阿川課長にプレゼントする義理チョコは、どんなものがふさわしいのか。佐伯さんの悩みは、まさにこの一点に尽きるのだ。私も思わず腕を組んで考え込んでしまった。
「なるほどー……難しいですねぇ」
「でしょ?そうでなくても、男の人へのプレゼントって難しいんですよ。まして阿川課長」
佐伯さんはもう一度ため息をつくと、小さな口でぱりぱりとサラダを食べた。
「でも、犬山さんも結構おしゃれですよね。その眼鏡も、さりげないけどいい感じ」
「は?私ですか?いやいや、安物ばかりですよ」
慌てて首を振った。確かに、眼鏡は特注品なのでそれなりの値段になってしまったが、それは私の頭部が特殊(というか犬)だからだ。おしゃれ云々は関係ない。普段着だって、かなり適当だ。
「安物だっていいんですよ、素敵に見えれば。……っと、そうだ!」
彼女はふいに何かを思いついたように、たんっ!と手に持っていたフォークを勢いよくトレーに置いた。
「犬山さん、明日ってお時間とかあったりしますか⁉良かったら、一緒にチョコレート、選んでいただけません?」
急な話に、私は目を白黒させた。明日は土曜日、予定はない。いやでも、その役目は本当に私でいいのか。
「私なんかより、もっと違う人の方が……あ、そうだ、うちの課の石山くんとかどうですか?佐伯さん、確か同期でしたよね」
咄嗟に石山君の名前が出たのは、彼がことあるごとに「彼女欲し~~」と騒いでいるのを知っていたからだ。しかしそれを聞いたとたん、佐伯さんはぎゅっと眉を寄せ、険しい表情になった。
「私に、石山のバカと一緒に買い物に行けと⁉」
かわいそうに。石山くん、少しチャラいところはあるが、悪いヤツではないのだが。とにかく佐伯さんにとって、その選択肢は欠片もないことだけは分かった。
「ええと、でも私が一緒に行っても、あまりお役には立たないかと思いますよ?」
「いいんです、とにかく自分一人のセンスを信じたくないんです。……それとも、私とは一緒に出掛けたくないですか?」
「いや、そんなことは!」
思わず大声で否定したとたん、にっこり笑う彼女と目が合った。しまった、と思ったがもう遅い。
「違うの?良かった。じゃあ明日、よろしくお願いします!」
これは、……困ったことになった。
* * *
翌日、土曜日の待ち合わせ時間、午後二時。私はこれ以上はないほど落ち着かない気持ちで、佐伯さんを待っていた。
私は基本、毎日のルーティンを決めていて、その通りに動く生活をしている。それはこんな頭部を持っているが故の、生活の知恵だ。
いつもと同じバス、いつもと同じスーパー、いつもと同じコインランドリー。同じ場所に居合わせるのは、基本的に同じ人たちだ。例え初対面で腰が抜けるほど驚いた人でも、何日か顔を合わせるとだいたい慣れる。なんなら、挨拶まで交わすようになる。慣れってすごい。
そんな私が、佐伯さんとの待ち合わせのため、普段は滅多に立ち寄らない駅前のコーヒーショップのカウンター席に座っていた。
意識過剰かも知れないが、ものすごい好奇の目に晒されている気がする。カメラのシャッター音のようなものも、時折聞こえる。おや、肖像権というものをご存じない?
そんな感じで非常にそわそわしながら待ち人を待っていたが、彼女は時間ギリギリにやっと、コーヒーショップに飛び込んできた。
「あ、いたいた犬山さん!ごめんなさい、お待たせしました!」
入ってきた佐伯さんの姿を見て、思わず手にしていたコーヒーをこぼしそうになった。
明るい茶色のコートは、フード部分にぺろんと犬耳が付いている。そして斜め掛けにしたポシェットはダルメシアン柄。ゆるくハーフアップにした髪は、犬の足跡柄のシュシュでまとめられている。佐伯さん、いくら私と出かけるからって、そこまで犬に寄せなくていい。
だが、そんな犬寄りの佐伯さんは、思った以上に可愛かった。普段の素っ気ないスーツ姿もいいが、今日の彼女はなんというかこう……特別感がある。
「大丈夫ですよ、私も少し前に来たところです。佐伯さん、私服も素敵ですね」
用意してきたセリフが、少しうわずってしまった。慌てて、軽く咳をしてごまかす。
「ありがとうございます、犬山さんも素敵ですよ。そのクラシックなセーター、すごく似合ってます」
にっこり笑う佐伯さんを見て、ちょっと今日の目的を見失いそうになった。気を取り直し、彼女の分のコーヒーが届いたところで、この後の予定を確認する。
「えーと、まず駅ビルのショップAとショップB。それでも決まらなければ、こっちのデパートへ移動して、いくつか見て回る感じですね」
「了解です。できるだけ、駅ビルで決めちゃいましょう。犬山さんもお忙しいでしょうし」
コーヒーショップを出て、二人で並んで歩きながら、何だかちょっとふわふわした気持ちだった。
噂に聞くデートって、こんな感じなんだろうか?
* * *
しばらく駅ビルのショップを、二人であーでもないこーでもないと言いながら物色したが、なかなか「コレ!」というものが見つからなかった。
「予算、いくらくらいですか?」
「一人七百円くらい。でもお局様からは、できるだけ五百円くらいに抑えてって言われてるんです」
「総務課、お局様もいるんですか。大変ですねぇ」
空とぼけたが、小さな会社なので顔は浮かぶ。それにしても、すべてのものが値上がりしている昨今、五百円はかなり厳しい。
「五百円は無理だなぁ……消費税まで入れると、七百円でもぎりぎりだと思う……」
総務課は女性職員三名に対して男性職員五名、そのうち一人は阿川課長。真剣な表情でチョコを選ぶ彼女の横顔に、不謹慎ながら思わず見とれた。真面目な人だなぁ、と心の内側で感心する。いくら阿川課長がいるとは言え、適当なウケ狙いとかでも、誰も文句は言わないだろうに。
「ブランデーとかウイスキーが入ってるのって、どうでしょうね?」
「まぁ大人ですからダメじゃないとは思いますけど、まったくアルコール受け付けない人もいますからね。入ってない方が無難じゃないですか。私は結構好きですけど」
「ふーん……犬山さん、実はお酒強かったりします?」
「強くはないかなぁ、まぁ普通ですよ」
そんな話をしつつ、駅ビル内では決めかねて、やはりデパートまで足を延ばすことにした。
「すみません犬山さん、お時間取らせちゃって」
「いえいえ、私は基本休みはヒマですから。久しぶりにこんなところまできて、ちょっと楽しいです」
信号待ちをしながら、恐縮する佐伯さんに大人の余裕らしきものを見せていると、ふいに背後から声が降ってきた。
「なにあれ、ヤバくね?犬じゃん」
背中にチリッと、電流のようなものが走った。私たちに直接向けられた声ではない。決して大きくもないのに、なぜこういう声はこんなにもはっきりと聞き取れるのだろう。
「ほんとだー、かぶり物?なんかのコスプレ?リアル―!」
「え、うける、眼鏡かけてるんですけど。犬って近眼とかあんの?」
きゃはは、という遠慮のない笑い声も聞こえる。
私は一瞬、その場で固まった。背後からの明らかな好奇と軽い侮辱を含んだ言葉を耳にして、とっさにうまく反応できなかった。聞こえなかったフリすら、できなかった。
本当に情けない話だ。こんなこと、今までもいくらだってあったのに。
多分、少し調子に乗っていたのだ。可愛い佐伯さんと二人で買い物をして、なんだか人並みになれたような気がしていた。人並みってなんだ。犬頭のくせに。
「まーとりあえずこれは投稿っしょ。〇〇駅前に、犬頭出現―」
スマホを向けられるのが、目の端に映った。私はそれを、どこか他人事のように受け流そうとしていた。その時。
「撮るなぁッ!!!」
大声が、響き渡った。佐伯さんの声だった。
驚く私に、佐伯さんは強い眼差しを向けた。真っ赤な顔をしている。女性がこんな風に怒るのを見るのは初めてだ。ただただうろたえる私に向かって、佐伯さんは叫ぶように告げた。
「犬山さん、信号、青っ!走って‼」
えっ、と思いつつ、もつれる足を前へと走らせた。佐伯さんはそんな私の手を取り、隣りを全速力で走った。ポメラニアン、意外と速い。
ちらりと後ろを振り返ると、ぽかんとした若い女の子が二人、横断歩道の向こう側に取り残されているのが見えた。
そのまま二人でデパートへと駆け込み、人気のない階段下へと避難して、乱れた息を整えた。
「すみません、佐伯さん。私は慣れているからいいですけど、一緒に佐伯さんまで映ったら困りますよね」
ようやく息を鎮めてそう話しかけると、佐伯さんはまだ苦しそうに息をつきながら、強く首を左右に振った。
「そうじゃ、なくて。そんなの、どうでも、いいんです」
「いや、でも」
「いいんですっ!……だって、私はただ、くやしくて」
そう言った佐伯さんの足元に、ぽたりと水滴が落ちた。え、と戸惑っているうちに、ぽたぽたっ、とまた落ちた。
それ以上何も言えずに泣きじゃくる佐伯さんの前で、私はただ、ほんの少しだけ彼女の肩を支えるようにして、でくの坊のように突っ立っていた。
私は結構背が高い。肩幅もそれなりにあるし、がっちりというほどではないにしろ、比較的大柄な方だと思う。それに比べて、目の前の佐伯さんは細く、あまりにも小さく見えた。
こんな小さな身体で、あんな大きな声を上げてくれたのか。私のために。
「………」
ふいに、胸の内側に、今まで感じたことのないような気持ちが満ちてきた。何だろう。
初めて感じるこの気持ちは、いったい何という名前なんだろう。
* * *
そして、その日の夜のこと。
(……何だか、大変な一日だったなぁ)
目の前に、テーブルに乗せられた小さな紙袋がある。私は椅子に座ると、ぼんやりとした手つきで、その紙袋から赤い包みを取り出した。
これは、今日の買い物の最後に、無理やり佐伯さんから押し付けられたものだ。
「犬山さんのおかげで、いい義理チョコが買えました。これはお礼なので、受け取ってください」
確かに、デパートについてものの数分で「これがいい!」と二人で口を揃えるような品が見つかり、速攻でお買い上げとなった。だがそれはデパートの品ぞろえのおかげであり、私は特に何もしていない。一応辞退はしたものの、佐伯さんの勢いがすごくて、断るに断れなかった。
(まぁいいか。日本にはホワイトデーという独自の文化があって、ちゃんとお返しをする機会が用意されている。お菓子でもいいけど……食事に誘うのとか、アリなのか?)
自慢ではないが、こういう場面での振る舞いについて全く分からない。脳裏に、今日目にした佐伯さんのいろいろな表情が浮かんでは消えていく。
可愛かった。でも、もう泣かせたくはない。そんな気持ちで思わず拳を固めたが、ふとそんな自分の滑稽さに気付き、苦笑いをした。
(いやいやいや、別に向こうはなんとも思ってないから。これだってお礼というか、まぁ義理チョコだし)
パッケージを開けると、ふわっと豊潤なカカオの香りが鼻をくすぐった。高級そうな……これはブランデー入りだろうか、小さなボトルの形をしている。
せっかくだから、今日のうちに一つくらいいただこう。そう思ってチョコを口に入れた私は、ふと、紙袋の底にまだ何か入っていることに気付いた。
……メッセージカードだ。そこに書かれていたのは。
『問題。このチョコだけは、義理じゃない。〇か×か』
カリっと口の中でチョコが割れた。
ブランデーの甘い香りがあふれ、熱い塊となって、喉の奥を落ちていった。
end
いかがだったでしょうか。
犬山さんシリーズ第二弾、テーマは「バレンタイン」でお送りしました。
少しでも幸せな気持ちになってもらえたら嬉しいです。




