2-12
終電が近かったため、電車はやや混んでいた。座れるところもなかった。発車ベルが短く鳴り、ドアの隙間から風が流れ込む。
ドア付近に並んで立つ。
途中の駅に着くたび、ドアが開閉する音だけが静かに響いた。
直陽は何かを話そうと思うが、何を話せばいいのか分からない。車輪が規則的な音を鳴らす。
先に口を開いたのはあまねだった。
「ごめんね」
「ううん」
『ううん』が何を意味しているのか、直陽にも分からない。けど、あまねと話せるだけで良かった。あまねの言うことに、否定も肯定もしたくなかった。それがいいと何となく思っていた。
窓ガラスに車内広告の光が重なり、二人の輪郭が薄く揺れる。
「不安になった、よね。琴葉ちゃんの申し出を軽い気持ちで受けちゃって、後悔してる。直陽くんからしたら、気持ちのいいものではないよね」
やっと言葉にしてくれたあまねの思いに何と応えればいいのだろう。嘘はつきたくない。精一杯の言葉を探す。
「俺はあまねさんと何か一緒にできることが、嬉しかったんだと思う。あまねさんは、ちょっと危なっかしいところもあるけど、予想がつかなくて、正直言うと、楽しかったんだ。だから――」
連結部を過ぎる風が低く鳴り、語尾がそこへ吸い込まれそうになる。
「言ってくれていいよ」
あまねの言葉に、直陽は意を決して口を開いた。
「ショックだったのは確か。でも、それは完全に俺のわがまま。あまねさんが謝ることじゃないよ。それに、もう大丈夫。成瀬さんとは和解できたし。そして、もしあまねさんに何か事情があるなら、待つから」
その言葉にあまねは何かをぐっと堪える。
「ごめん、直陽くん。本当にごめん」俯いて小刻みに震えているのが分かる。つり革を持つ指が白くなる。
「大丈夫だよ、きっと」
直陽がそう呟くと、あまねはハッと顔を上げ、うっすらと赤くなった目で、直陽を見た。
次の駅名だけを告げるアナウンスがかすれ、再び車輪の音が鳴る。
その目の奥に見えたのは何だったか。驚き、後悔、悲哀、決意、戸惑い――複雑に絡み合った感情が、直陽の心を通り抜けた。
*
地下鉄を降り、バス停へと向かう。夜気が少しだけ湿っている。
二人は何も言えなかった。歩幅だけが、自然と揃う。
「緋坂台団地行き」と書かれたバス停に並ぶ。
並んでいる時に、直陽の右手に温かい感触が触れた。驚いて見ると、直陽の右手をあまねの左手がそっと摑んでいた。街路樹の葉がこすれる音がする。
あまねが消え入るような声で呟く。
「⋯ちょっとこのままでいい?」
「⋯うん」
握られた指に互いの脈が重なり、言葉の必要が薄れていく。
*
バスに乗っている間、隣同士だったが、やはり言葉はなかった。薄い車内灯に照らされた窓に、街の灯が点のまま流れていく。あまねの左手は、直陽の右足の上に置かれた手を握っていた。
バス停を降りると、あまねは手を離し、少し離れて向かい合った。今度はあまねも、直陽の顔をしっかりと見据えていた。あまねの目をこんなにもゆっくり見たのは久しぶりな気がする。それほど時間がたったわけはないのに、何ヶ月も前だった気がしてしまう。バスのテールランプが角を曲がり、静けさが元の形に戻る。
「直陽くん!ありがとう!私、頑張る!」
「うん」
「また、連絡するね」
「うん」
そんな言葉を交わすと、あまねは歩き出した。
二人は今も、お互いどこに住んでいるのかは知らない。バス停から見て、あまねは西の方。直陽は東の方、ということが分かるだけだ。
時折あまねは振り返り、直陽に小さく手を振る。さらに遠くなると、大きく手を振った。街路灯の下で影が伸び、夏の虫が低く鳴く。
直陽はあまねが右側の小道に入って見えなくなるまで見送った。信号待ちの車のヘッドライトが一度だけ白く通り過ぎ、夜はまた静かになった。
**次回予告(3-1)**
第三章「夏合宿」編
電車とバスを乗り継いだ山あいの施設で夏合宿が行われる。合宿所には台風が近付いていて⋯。
**作者より**
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