第八章 職場での消失
翌朝、直樹はいつも通りスーツに袖を通し、会社へ向かった。
桜荘の不穏な気配から一歩でも遠ざかりたい、その一心だった。
けれど、駅から会社までの道のりで、いくつものショーウィンドウに映る“自分”が、どれも微笑んでいることに気づき、足が震える。
直樹自身は無表情で歩いているのに、ガラスの向こうの直樹たちはみな笑っている。
――あいつが、すぐ後ろに迫ってきている。
胸の奥に、言いようのない焦りが膨らんでいった。
会社に着くと、違和感はさらに濃厚になった。
入館ゲートに社員証をかざすと、無機質な音声が告げた。
《登録されていません》
何度やっても同じエラー。
「おかしいな……」と呟き、守衛に事情を話すと、訝しげに首をかしげられる。
「君……村瀬くんだよね? でもこの社員証、どう見ても偽造じゃないの?」
「偽造!? ちょっと待ってください、俺は本物の――」
言い募ろうとした瞬間、背後から軽快な声がした。
「おはようございます!」
振り返ると、そこに“もう一人の直樹”がいた。
明るい笑顔を浮かべ、同僚たちに軽やかに手を振っている。
守衛は表情を緩め、その直樹に笑いかけた。
「おはよう、村瀬くん。今日も早いね」
「はい、ちょっと資料まとめたくて」
自然なやり取り。そこには“偽造”などという疑念は一切なかった。
直樹は愕然と立ち尽くした。
――俺は、本当に存在しているのか?
なんとかオフィスのフロアに入ると、衝撃はさらに大きなものとなった。
自分のはずのデスクは空っぽになっていた。
パソコンも書類も、写真立ても。
まるで最初からそこに誰も座っていなかったかのように、デスクは新品同然に整えられている。
代わりに、斜め向かいの席で明るい直樹が同僚に囲まれ、笑いながら話をしていた。
「村瀬くん、昨日のプレゼンすごかったな!」
「本当だよ、あれで部長も納得したんだから」
「いやいや、皆さんのサポートがあってこそです!」
拍手と笑い声。
それは直樹が何日も悩み、夜遅くまで準備してきた資料のはずだった。
だが、そこにあったのは自分ではなく“もう一人”が努力の成果を手にしている光景。
直樹は柴田先輩に駆け寄った。
「先輩! 俺です、村瀬です。昨日のプレゼン、俺がやったんですよね!?」
柴田は怪訝そうに目を細めた。
「……どちら様ですか?」
「は?」
「うちの部署に、あなたみたいな人はいませんよ」
声が震えた。
「そんな……だって、俺は二か月前からここで……!」
「守衛さん!」柴田が声を張り上げた。「不審者がフロアに紛れ込んでます!」
途端に周囲の視線が突き刺さった。
ざわめきの中で、誰もが直樹を知らない顔として扱っている。
田島も木原も、同じだった。
田島に縋りつき、「俺だよ、直樹だよ!」と叫んでも、彼は怯えた目で押し返すだけだった。
「やめてください、知りませんよ……!」
その瞬間、フロアの奥で明るい直樹がこちらを見た。
目が合った。
奴はにっこりと笑い、軽く手を振った。
まるで「やっと入れ替われたね」とでも言いたげに。
守衛に両腕を掴まれ、直樹はフロアから引きずり出された。
同僚たちの冷たい視線を背に受けながら、声を張り上げても誰一人として応じない。
エレベーターの扉が閉じる直前、明るい直樹の笑顔だけが視界に焼き付いた。
外に放り出された直樹は、しばらく立ち尽くしていた。
ポケットの中をまさぐると、あるはずの社員証も、名刺も、すべて消えている。
財布の免許証を見ても、そこに記されている名前は「村瀬直樹」ではなかった。
――知らない男の名。
頭の奥が真っ白になった。
叫び声も出ない。
自分の存在が、一枚一枚剥がれるように消えていく感覚。
空を見上げると、ビルの窓ガラスに映る“直樹”があった。
そこには、明るい笑顔の男がいた。
そしてガラスの中でだけ、唇が動いていた。
「――お前の番は、もう終わりだ」