第七章 桜荘の謎
翌朝、直樹は眠れぬまま布団を出た。
昨夜の出来事――高橋が“もう一人の直樹”を本物と認め、自分を「知らない人」と呼んだ光景――が頭に焼きついて離れない。
このままでは、本当に世界から自分が消えてしまう。
直樹は思い立ち、桜荘の住人や大家に話を聞くことにした。
どこかに、この異常を知っている人間がいるのではないか。
午前十時。
階段下でちょうど掃き掃除をしていたのは、管理人兼大家の老女・森下だった。小柄で腰が曲がり、無口な印象の女性。
直樹は勇気を振り絞り、声をかけた。
「あの、森下さん。前にここに住んでいた人って、どんな方だったんでしょうか?」
老女はほうきを止め、目を細める。
「……あんた、気づいたのかい?」
低い声に、背筋が冷たくなる。
「え?」
「前に住んでたのは、若い女の子さ。ひとり暮らしで、よく明るく挨拶してた。けど、ある日から様子が変わってねえ……」
森下は視線を落とし、しばし口を閉ざした。
「……同じ顔の女が二人、部屋にいるんだって、泣きながら言ってたよ。隣や上の階の住人にまで訴えて、みんな困惑してた」
直樹の心臓が大きく跳ねる。
――やはり、自分だけじゃなかったのか。
「それで、その人は……」
「急にいなくなったよ。夜中に叫び声を上げたのを最後に、ぱったりと。荷物は残されたままね。警察沙汰にもなったけど、結局見つかってない」
淡々と語る声には恐怖も同情もなく、ただ事実を述べているだけだった。
直樹は喉がひりつくように乾き、言葉を失った。
その時、背後から近所の主婦二人が談笑しながら通りかかった。
一人が直樹に目をやり、急に口をつぐむ。
「あ……」
小声で何かを囁き、視線をそらす。
「ねえ、あの部屋……また、なのかしら」
もう一人の主婦の囁きが、耳に届いた。
直樹は慌てて近づいた。
「すみません! その“また”って、どういう意味ですか!?」
だが主婦たちは顔を強張らせ、手を振って去っていった。
残された直樹の耳には、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
昼過ぎ、直樹はさらに周囲を探った。
二階に住む中年男性に世間話を装って訊ねてみると、やはり同じ答えが返ってきた。
「前の住人? ああ……なんか“自分が二人いる”って騒いでたな。俺も深夜に廊下で見たんだよ。そっくりな奴が二人、口論してるのを」
男は眉をひそめた。
「でも次の日には片方しかいなくてさ。そっちが本物かどうかなんて、俺には分からないよ」
直樹は凍りついた。
――それは、まるで今の自分そのものじゃないか。
その夜。
布団の中で眠れずにいると、部屋の隅からかすかな声がした。
「……ここは、境界なんだよ」
ぞわりと鳥肌が立つ。跳ね起きて辺りを見渡すが、誰もいない。
ただ、窓ガラスに映る“自分”だけが、口を動かしていた。
声はそこから、直接耳に届いていた。
「桜荘は……向こうとこっちが、混ざる場所なんだ」
ガラスの中の“直樹”がにたりと笑った。
「だから二人になる。だから、消える」
喉から声にならない悲鳴がもれた。
ガラスに映る笑顔の直樹は、こちらの動きを一瞬遅れて真似しながら、同じ言葉を繰り返す。
「――だから、消える」
直樹は窓に背を向け、布団を頭からかぶった。
暗闇の中、鼓動が耳を塞ぐほどに高鳴り、二度と眠りは訪れなかった。