第六章 友人の巻き込み
週末の午後、直樹のスマホに一通のメッセージが届いた。
差出人は大学時代の同期、高橋大輔。就職で東京に残った数少ない友人で、今でもたまに連絡を取り合っている相手だった。
《近くまで出張で来てるから、久しぶりに顔出すよ。夕方、部屋に寄ってもいい?》
直樹は心底ほっとした。
家族や恋人から自分を否定され、職場でも違和感が募るなか、唯一「過去を共有している人間」が来てくれる。その事実が救いのように思えた。
《もちろん! 302号室だから、駅から歩いて10分くらいだよ》
震える指で返信を打ち、部屋を少し片づけ始めた。
――だが、夕方。
インターホンが鳴り、ドアを開けると、高橋の顔はそこになかった。
代わりに聞こえたのは、隣からの笑い声だった。
不審に思って廊下へ出ると、302号室の前で高橋が談笑していた。
相手は――自分だった。
自分と同じ顔を持ち、同じ声で話し、けれど快活に笑っている“直樹”が、そこに立っていた。
「おー、久しぶりだな高橋! 本当に来てくれるとは思わなかったよ!」
“明るい直樹”が、当然のように友を招き入れる。
高橋は屈託のない笑みを返し、「いやあ、相変わらず元気そうで安心したよ」と応じている。
直樹の喉が渇ききり、声を出せなかった。
――俺が、本物なのに。
どうして高橋は、そっちを疑いもせずに「直樹」と呼ぶんだ?
勇気を振り絞って声を上げた。
「……高橋!」
高橋が振り向く。その目は、懐かしい笑顔の相手を認めたはず――だった。
だが、彼は眉をひそめた。
「……すみません、どなたですか?」
心臓が凍りつく。
「俺だよ、直樹だ! 村瀬直樹!」
必死に訴えるが、高橋は困惑したように笑い、手を振った。
「いやいや、冗談やめてくださいよ。直樹ならここにいるじゃないですか」
横で、“明るい直樹”がにやにやと口角を上げていた。
「この人、最近ちょっと怪しいんだよ。近所の人も困ってるみたいでさ。知らない人のふりして、ここに住もうとしてるんじゃないかな?」
「えっ、そうなのか?」
高橋が完全に自分から目を逸らした瞬間、直樹は絶望を味わった。
302号室のドアは軽やかに閉じられ、残されたのは廊下に立ち尽くす“本物”の直樹だけ。
部屋の中からは楽しげな会話と笑い声が響いてくる。
高橋は――もう、向こう側の直樹を本物としか思っていない。
胸の奥が焼けるように痛む。自分の記憶も、存在も、誰にも証明できない。
この世界から、静かに“本物”としての自分が剥がされていく。
夜遅く、ようやく廊下が静まり返った頃。
扉の隙間から、かすかな声が漏れ聞こえた。
「大丈夫、俺がここにいる限り……お前の居場所なんて、もうないんだ」
直樹は息を呑み、凍りついたままその声を聞き続けるしかなかった。