第五章 もう一人の直樹
その週、職場で妙な噂を耳にした。
「村瀬、最近なんか変わったよな」
昼休み、同僚の田島が笑いながらそう言った。
「前は大人しいやつだったのに、この前の飲み会、すげえ盛り上げ役だったって聞いたぜ。カラオケで立ちっぱなしだったとか」
「え?」
直樹は箸を止めた。そんな記憶はない。飲み会には確かに行ったが、場を回していたのは柴田先輩で、自分は隅でビールを飲むだけだったはずだ。
「……俺、そんなことしてないよ」
「またまた。木原課長だって褒めてたぜ。『村瀬もようやく明るくなった』ってな」
心臓が妙な音を立てる。周囲の誰もが、知らない“自分”の話を当たり前のようにしている。
それは、ただの勘違いでは済まされないほど具体的だった。
午後、席に戻るとさらに異様なことに気づいた。
会社のパソコンを立ち上げると、見覚えのないファイルがいくつも増えていた。営業資料や得意先への提案書。どれも自分のIDで作成され、昨日付けで保存されている。
「……俺は昨日、こんなの作ってない」
文面には、自分では到底書けないほど饒舌で自信に満ちた言葉が並んでいた。取引先の担当者への言葉遣いも自然で、実際に会話を交わした人間でなければ書けない内容だった。
画面に映る自分のユーザー名。その隣に刻まれたタイムスタンプ。
それは確かに“村瀬直樹”が存在していた証拠だった。
だが――書いた覚えはない。
その夜、重たい足取りでアパートに帰る。鍵を開けて中に入った瞬間、息が詰まった。
玄関に、自分のスニーカーとは別の靴が並んでいる。
形もサイズも、全く同じ。新品同様のそれは、まるで誰かが「もう一人の直樹」のために用意したように揃っていた。
慌てて洗面所に駆け込むと、コップには歯ブラシが二本刺さっていた。青と緑。緑は直樹が使っているものだが、青い歯ブラシは新品のように乾いていた。
「……誰が、置いた?」
鳥肌が立ち、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
その夜、眠れずにベッドでじっと天井を見つめていると、浴室の方から水滴の音が聞こえた。ぽた、ぽた、と一定の間隔で響く。
――水道は閉めたはずだ。
恐る恐るドアを開け、浴室に足を踏み入れる。
鏡のない洗面台。その奥、曇りガラスの向こうに、ぼんやりとした人影が映った。
直樹は息を呑んだ。
曇ったガラスに額を押し付けるようにして、こちらを覗いている人影。それは――自分自身だった。
髪型も服装も、全て同じ。だが、その顔はおぞましい笑みを浮かべていた。目だけが異様に大きく、楽しげに細められている。
「……なんだよ、これ……」
後ずさる直樹に合わせて、ガラスの中の“直樹”は動かない。ただ笑い続けている。
やがて、ガラスの内側から、手のひらが押し当てられた。
曇りをすべらせながら、まるで外へ出ようとするかのように。
直樹は叫び声を飲み込んだ。背筋に冷たいものが走り、呼吸が乱れる。
浴室の明かりを消し、ドアを閉め、鍵をかける。心臓の鼓動が耳の奥で爆音のように響く。
だが、眠りに落ちる寸前――耳元で、くぐもった笑い声が聞こえた。
それはまぎれもなく、自分自身の声だった。