表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/11

第五章 もう一人の直樹

 その週、職場で妙な噂を耳にした。


 「村瀬、最近なんか変わったよな」


 昼休み、同僚の田島が笑いながらそう言った。


 「前は大人しいやつだったのに、この前の飲み会、すげえ盛り上げ役だったって聞いたぜ。カラオケで立ちっぱなしだったとか」


 「え?」


 直樹は箸を止めた。そんな記憶はない。飲み会には確かに行ったが、場を回していたのは柴田先輩で、自分は隅でビールを飲むだけだったはずだ。


 「……俺、そんなことしてないよ」


 「またまた。木原課長だって褒めてたぜ。『村瀬もようやく明るくなった』ってな」


 心臓が妙な音を立てる。周囲の誰もが、知らない“自分”の話を当たり前のようにしている。


 それは、ただの勘違いでは済まされないほど具体的だった。


 午後、席に戻るとさらに異様なことに気づいた。

 会社のパソコンを立ち上げると、見覚えのないファイルがいくつも増えていた。営業資料や得意先への提案書。どれも自分のIDで作成され、昨日付けで保存されている。


 「……俺は昨日、こんなの作ってない」


 文面には、自分では到底書けないほど饒舌で自信に満ちた言葉が並んでいた。取引先の担当者への言葉遣いも自然で、実際に会話を交わした人間でなければ書けない内容だった。


 画面に映る自分のユーザー名。その隣に刻まれたタイムスタンプ。


 それは確かに“村瀬直樹”が存在していた証拠だった。


 だが――書いた覚えはない。


 その夜、重たい足取りでアパートに帰る。鍵を開けて中に入った瞬間、息が詰まった。


 玄関に、自分のスニーカーとは別の靴が並んでいる。


 形もサイズも、全く同じ。新品同様のそれは、まるで誰かが「もう一人の直樹」のために用意したように揃っていた。


 慌てて洗面所に駆け込むと、コップには歯ブラシが二本刺さっていた。青と緑。緑は直樹が使っているものだが、青い歯ブラシは新品のように乾いていた。


 「……誰が、置いた?」


 鳥肌が立ち、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。


 その夜、眠れずにベッドでじっと天井を見つめていると、浴室の方から水滴の音が聞こえた。ぽた、ぽた、と一定の間隔で響く。


 ――水道は閉めたはずだ。


 恐る恐るドアを開け、浴室に足を踏み入れる。

 鏡のない洗面台。その奥、曇りガラスの向こうに、ぼんやりとした人影が映った。


 直樹は息を呑んだ。


 曇ったガラスに額を押し付けるようにして、こちらを覗いている人影。それは――自分自身だった。


 髪型も服装も、全て同じ。だが、その顔はおぞましい笑みを浮かべていた。目だけが異様に大きく、楽しげに細められている。


 「……なんだよ、これ……」


 後ずさる直樹に合わせて、ガラスの中の“直樹”は動かない。ただ笑い続けている。


 やがて、ガラスの内側から、手のひらが押し当てられた。


 曇りをすべらせながら、まるで外へ出ようとするかのように。


 直樹は叫び声を飲み込んだ。背筋に冷たいものが走り、呼吸が乱れる。


 浴室の明かりを消し、ドアを閉め、鍵をかける。心臓の鼓動が耳の奥で爆音のように響く。


 だが、眠りに落ちる寸前――耳元で、くぐもった笑い声が聞こえた。


 それはまぎれもなく、自分自身の声だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ