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第四章 記憶のズレ

 金曜日の夜、直樹はどうしようもない不安を抱えて、スマホを手に取った。


 助けを求めるなら、美咲しかいない。大学時代から付き合って五年。転勤が決まったときも「遠距離でも大丈夫」と背中を押してくれた彼女の声が、何よりも心を落ち着けてくれるはずだった。


 着信音のあと、聞き慣れた明るい声が耳に届いた。


 「はい、美咲です」


 安堵に胸を撫で下ろし、直樹は思わず声を張った。


 「美咲、俺だよ。直樹。ちょっと聞いてほしいことがあって――」

 しかし、返ってきた声は予想外だった。


 「……あの、どちら様ですか?」


 「え?」


 「直樹? すみません、人違いじゃないですか? 私、そんな人知りません」


 スマホを握る指が震えた。声は確かに美咲だ。息づかいもイントネーションも、全部知っている彼女そのものだった。


 「美咲、やめろよ。冗談だろ? 俺だよ、村瀬直樹。大学で出会って……もう五年付き合ってるじゃないか」


 「……気味が悪いこと言わないでください」


 冷たく吐き捨てるような声。次の瞬間、通話は切れた。


 直樹は呆然とスマホを見つめた。通話履歴には確かに「美咲」の名前が残っている。番号も変わっていない。


 だが、声の主は彼を知らなかった。


 翌日、半ば取り乱すように実家へ電話をかけた。母の声が出る。懐かしいはずの響きに救われる気がして、必死に呼びかけた。


 「母さん、俺だ。直樹だよ」


 受話器の向こうで、しばらくの沈黙があった。やがて硬い声が返ってくる。


 「……どちらにおかけですか? うちは夫婦二人暮らしです。息子なんていません」


 「なに言ってんだよ! 俺は村瀬直樹だ、あんたの息子だろ!」


 叫んでも、母の声は冷え切っていた。


 「悪ふざけならやめてください」


 それきり通話は切られた。


 直樹は膝から力が抜け、受話器を握ったまま床に座り込んだ。胸の奥から何かが崩れ落ちていく。家族にすら否定された現実を、どうやって受け止めればいいのか。


 週明け、出社するとさらに奇妙なことが起こった。いつもどおり出勤して席についたはずなのに、課長の木原が険しい顔で睨みつけてきた。


 「村瀬、昨日はなんで無断欠勤した?」


 「え……? 昨日も普通に来てましたけど」


 「ふざけるな。名簿にも印鑑が押されてない。田島、お前見ただろ?」


 突然振られた田島は気まずそうに目をそらした。


 「いや……俺も昨日は見てないです」


 背筋が冷えた。昨日は確かにここで仕事をしていた。書類も提出した。柴田先輩と雑談まで交わした記憶がある。


 「柴田さん、昨日話しましたよね?」


 必死に縋るように問いかけたが、柴田は困ったように首をかしげただけだった。


 「いや……俺も記憶にないな。お前、ほんとに来てたのか?」


 周囲の視線が一斉に突き刺さる。


 自分がここにいたことを覚えているのは、どうやら自分だけらしい。


 デスクに腰を下ろすと、心臓が早鐘を打った。パソコンの黒い画面にぼんやりと映る顔は、どこか薄れて見える。色も輪郭も曖昧で、自分自身の存在感すら削がれているようだった。


 昼休み、屋上で一人弁当を食べながら、直樹はスマホを開いた。美咲への履歴も、母への履歴も残っている。それなのに、二人の記憶から「直樹」という名前が消えていた。


 胸の奥から、言いようのない寒気が広がっていく。


 ――俺は、本当にここに存在しているのか?


 昨日の俺は、もうどこにもいないのか?


 夕暮れの光に照らされ、ビルの窓ガラスが赤く染まっていた。そこに映った直樹の姿は、なぜか鮮明だった。


 まるでこちら側よりも“向こう”の方が確かに存在している、とでも言うように。

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