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第三章 最初の異変

 その日、直樹は仕事帰りに駅前のコンビニへ立ち寄った。ビールと弁当を手にレジへ向かう途中、ふと正面のガラス窓に目がとまった。夜の外灯に照らされ、店内の自分が映っている――はずだった。


 だが、その「自分」は、わずかに遅れて動いていた。


 商品を持ち替えるとき、反射した像の手はワンテンポ遅れる。しかも口元がわずかに吊り上がっている。直樹自身は真顔のままなのに、ガラスの中の自分は薄く笑っていた。


 「……」


 思わず目をこすり、再びガラスを覗き込む。今度は普通に、自分と同じ動作を返してきた。


 ――疲れているだけだろう。


 そう思い込もうとしたが、心臓は小刻みに速く打ち始めていた。


 アパートへ帰る途中、銀行の自動ドアに映った姿も同じだった。すれ違いざま、一瞬こちらを見返した「自分」の目線が、直樹の動作よりも遅れて追ってきたのだ。


 部屋に戻ると、無性に落ち着かなくなり、買ったばかりのビールを一気にあおった。アルコールでごまかそうとしても、窓ガラスに映る夜の自分が、じっと部屋の奥を見つめているような錯覚が消えなかった。


 翌日、仕事中にも妙なことが起きた。会議室のガラス板に反射した自分の横顔が、ほんの一瞬、口を動かした。声は聞こえない。ただ「何かを言おうとしている」ように見えた。


 驚いて振り返ったが、同僚の田島は何事もなかったかのように資料を見つめている。


 昼休み、田島と二人で外に出た。人気のない路地裏の定食屋で定食を食べながら、直樹はつい口を開いた。


 「なあ田島、この街って……なんか変な噂とかある?」


 唐突な質問に田島は目を瞬かせたが、少し考えてから声を潜めた。


 「……ああ。もしかして“鏡の話”のこと?」


 直樹の背筋にぞわりと冷たいものが走った。


 田島は声を落とし、机に肘をついた。


 「この街ではさ、昔から『鏡の中に取り込まれる』って噂があるんだ。正確には、“戻れなくなる人”がいるって。姿は映るんだけど、ある日突然、映った自分が“違う”ものになるんだってさ」

 直樹は箸を止めた。心臓の鼓動が耳に響く。


 「違う、って?」


 「笑ってなかったのに笑ってたり、目が合うのが遅れたり……最初は小さな違和感。でも、だんだん自分と映り込みの“差”が大きくなって、あるとき入れ替わるんだって」

 田島は冗談めかして笑った。


 「まあ、都市伝説みたいなもんだよ。俺も誰かが消えたなんて実際には聞いたことないし」


 しかし直樹の頭には、昨夜コンビニで見た「笑う自分」の像が鮮明によみがえっていた。


 午後の業務に戻っても集中できなかった。パソコンの黒いモニターにふと映る顔が、どこか生気を欠いて見える。コピー機のガラス板に伏せた紙の横で、映った自分の瞳が一瞬だけこちらを追いかけた気がする。


 「……」


 背筋が冷え、慌ててコピー用紙を回収する。


 夜、帰宅途中。ビルの窓に並ぶ無数の反射が街灯に照らされていた。その中に、自分の姿が幾重にも重なっている。


 一瞬、その全ての像が「一斉に遅れて笑った」ように見えた。


 直樹は足を止め、汗ばむ掌で額を押さえた。


 ――俺は、なにかに見られているのか。


 それとも、俺の方が“映り込み”に引きずられているのか。


 帰宅して明かりをつけると、部屋の中は相変わらず空虚だった。鏡のない空間は、ますます自分の存在があやふやになるように思える。


 窓ガラスに反射する自分が、少しだけ口元を動かした。


 その形が、言葉を紡いでいるのに音が届かない――そんな風に見えた。


 直樹は思わず窓を覆い隠すようにカーテンを閉め、布団に潜り込んだ。だが目を閉じると、闇の中で遅れて笑う「もう一人の自分」の姿がまぶたの裏に浮かび上がり、眠りは遠のいていった。

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