第二章 新生活
翌朝、直樹は早めに部屋を出て、支店のあるオフィスへと向かった。バスを降りた先に建つ五階建ての雑居ビル、その三階に営業部が入っている。思ったよりも小規模で、東京本社と比べれば机の配置も窮屈に感じる。
「村瀬君だね、新しく来た」
迎えてくれたのは課の先輩、柴田だった。三十代前半、やや太り気味で、親しみやすい笑顔を絶やさない。
「うちの課は人少ないから、すぐ馴染めると思うよ。ああ、こっち田島。同期扱いになるかな」
紹介された田島は、眼鏡をかけた真面目そうな青年で、軽く会釈だけを返してきた。
そして奥の席に座っていたのが、木原課長だった。五十代半ば、口数が少なく、眉間の皺が常に寄っている。視線を向けられるだけで背筋が伸びるような圧を持っていた。
「……村瀬君ね。よろしく」
それだけ言うと、すぐにパソコン画面に目を戻してしまった。
初日は書類整理やシステムの説明を受けるだけで終わった。小さな支店だけに、同僚たちは和気あいあいとしているが、木原の存在が場を引き締めているようだった。
夕方になると、柴田が肩を叩いてきた。
「村瀬君、歓迎会やろうってさ。駅前の居酒屋で」
断れるはずもなく、直樹は頷いた。
その夜の飲み会は、田舎町らしい小ぢんまりとした居酒屋で開かれた。焼き鳥とビールが並び、同僚たちは思った以上に気さくで、特に柴田は世話焼き気質で何かと気を配ってくれる。
ただ、木原課長だけは終始無口で、酒もほとんど口にせず、時折じっと直樹を観察するような目を向けてきた。
「課長、昔からああだから気にすんな」
柴田が耳打ちするが、視線の冷たさは心に引っかかり続けた。
帰宅したのは夜の十一時過ぎ。アパートの外廊下を歩いていると、一階の部屋のドアが開き、中年の主婦がゴミ袋を出してきた。
「あ、新しく入った人?」
柔らかな笑顔で声をかけてきたが、部屋番号を答えると、少しだけ表情が曇った。
「三〇二……そう。あそこに入ったのね」
言葉を濁し、すぐに「まあ、よろしく」とだけ言って立ち去った。
挨拶の一瞬に漂った微妙な間。それは偶然にしては重く、胸の奥にざらつきを残した。
部屋に戻り、洗面所で歯を磨く。だが鏡がないため、相変わらず不便だった。インカメラで自分を映してみるが、やはり落ち着かない。
――やはり鏡を買おう。
週末、直樹は駅前のホームセンターに向かい、安物の手鏡を購入した。
その夜、さっそく使ってみる。
だが、鏡を洗面所に置いた途端、曇りガラスのように白くかすんでしまった。湯気もないのに、何度拭いてもすぐ曇る。
翌朝、バッグに入れて会社に持っていこうとしたら、ポケットの中で割れていた。細かいひびが放射状に広がり、使い物にならない。
――運が悪いだけだ。
そう思おうとしたが、買ったばかりの鏡が一日で壊れるのは、偶然にしては妙すぎた。
数日後、再び別の店で新しい鏡を買った。
しかしそれも、帰宅して袋から出した瞬間に、手を滑らせて床に落としてしまった。落下は小さかったのに、ガラスは蜘蛛の巣状にひび割れていた。
「……なんだよ、これ」
思わず声に出していた。まるでこの部屋そのものが「鏡を置くこと」を拒んでいるようだった。
夜、ベッドに横になっても眠れなかった。窓の外からは虫の声が絶え間なく響く。その合間に、どこからともなく「コツ、コツ」と壁を叩くような音が聞こえた気がした。
耳を澄ませると静寂に戻る。幻聴だろうか。
だが胸の奥では、確かに何かが少しずつ削れていくような不安が膨らみ始めていた。