第一章 入居
転勤の辞令は、いつも突然だ。
東京本社からの電話を受けたとき、村瀬直樹はただ「はい」と返事をした。驚きも落胆も、思ったよりは少なかった。同期の中で大きな実績を上げているわけでもなく、上司に特別目をかけられているわけでもない。だから地方支店への異動はむしろ自然な流れに思えた。
新幹線を降り、さらに在来線を乗り継いでたどり着いたのは、地図で見ても大きな特徴のない地方都市だった。駅前にはスーパーと喫茶店が並び、ロータリーを回るバスの本数も少ない。華やかさのかけらもない、けれど人が生活するには十分な規模の街。
タクシーに乗り込み、運転手に住所を告げると「ああ、桜荘ね」と軽く笑われた。
――桜荘。
薄汚れた白い壁と、ところどころ剥げた青いペンキの外階段。二階建ての小さな木造アパートだった。表札にはかろうじて「桜荘」と読める文字が残っている。建築は昭和の頃だろう。
鍵を開け、302号室のドアを押し開けた。
畳六畳一間。簡素な流し台。奥には風呂とトイレが分かれていて、それだけで少し救われる気がした。
ただ、一つだけ妙なことに気づく。
――鏡が、一つもない。
玄関脇の洗面所にあるはずの姿見も、浴室の壁に埋め込まれているはずの鏡も、全部取り外されている。釘の跡だけが空しく残っているのだ。
引っ越し用の荷物を運び込んでいた不動産屋に尋ねると、彼は少しだけ言葉を濁した。
「前の住人がね……全部、外して持っていっちゃったんですよ。変わった方で」
特に詳しい説明はなく、「まあ気になるなら自分で用意していただければ」とだけ言われた。
夜、布団を敷いて横になると、都会の喧騒に慣れた耳には虫の声が異様に大きく響いた。
電灯の光は弱く、天井の染みをぼんやりと浮かび上がらせている。
寝付けず、ふと起きて洗面所に立つ。
自分の顔を確かめようと無意識に視線を上げ――そこで、鏡がないことを思い出す。
歯を磨きながら、なぜか背筋に冷たいものが走った。
「鏡がない」というだけで、こんなにも不安になるとは思わなかった。
携帯のインカメラを起動し、口元を映して確認する。
画面には、疲れ切った自分の顔がある。目の下にはクマができ、口角は下がっていた。
――安心した。
そう思った瞬間、ふと背筋がぞわりとした。
いま映っていた自分の目線が、ほんの一瞬だけだが、確かに「こちらを見ていなかった」気がしたのだ。
画面を閉じ、暗い洗面所に戻る。静まり返った空気の中で、なぜか「視線を外に向けてはいけない」と直感した。
翌朝、早めに起きて出勤準備をする。スーツに袖を通すが、ネクタイがうまく結べているか確認できない。
仕方なく再びインカメラを起動し、結び目を確認する。
だが、画面の中の自分はどこか違和感があった。姿勢が僅かに遅れて追従しているような、不自然なぎこちなさ。
まばたきのリズムも、こちらと完全には一致していない。
「疲れてるだけだ」
そう自分に言い聞かせて携帯を閉じる。
通勤の途中、コンビニのガラス窓にふと視線をやる。
そこに映った自分は、確かに自分なのだが――口元がかすかに笑っていた。
本人は無表情のまま、ただぼんやりと視線を向けていただけなのに。
初出勤の朝。バスに揺られながら、直樹はため息をついた。
まだ荷解きもしていない。
だが妙なことに、心の中には「この部屋にはあまり長くいられない方がいい」という感覚が根を下ろし始めていた。