第1章 シューターと声の主
# 第1章 シューターと声の主
佐々木誠は西新宿メディカルタワー4階の自分のオフィスで、深夜の静寂に包まれていた。モニターの画面だけが青白い光を投げかけ、その反射が彼の眼鏡に小さな四角形を作っている。デッドラインに追われたウェブデザインの仕事を終え、彼は疲れた目をこすりながらコーヒーカップを手に取った。午前一時十三分。黒くなったウィンドウガラスに映る自分の姿が、まるで水槽の中の魚のように見えた。
「どうしてこうなった?」
壁の中から女性の声が聞こえてきた。佐々木は飛び上がるように驚き、コーヒーをこぼした。声の主は見えない。部屋には彼一人しかいないはずだ。幽霊か?幻聴か?彼は恐る恐る部屋を見回した。
声は古びたパイプシューターから聞こえていた。病院だった頃の名残で、建物内部を縦に貫くその管は、今では使われていない遺物のはずだった。そう、シューターとは検体や書類を送る筒状の搬送システムだ。彼はそれが機能していないことを知っていた―あるいは、そう思っていた。
「あの…誰かいますか?」佐々木は半信半疑でシューターに向かって声をかけた。
一瞬の沈黙の後、シューターの中から応答があった。
「あ、聞こえてる?7階の者ですが…うちのシューターから何か変な音がして…」
女性の声は金属質の筒を通して微かに歪んでいたが、明らかに人間のものだった。若い女性のようだ。きっと佐々木と同じように、締め切りに追われて残業している誰かなのだろう。
「はい、聞こえています。4階です」佐々木は答えた。自分の声が不思議なことにシューターの中に吸い込まれていくのを感じる。
「へぇ、本当に聞こえるんだ」女性の声が少し明るくなった。「面白いですね、このシューター。機能してるなんて思わなかった」
「僕もです」佐々木は言った。「送るものを入れる機能は壊れてますけど、何か…伝声管みたいになってるみたいですね」
「そうみたいですね」女性の声は少し反響して聞こえた。「残業ですか?」
「ええ」佐々木はシューターの開口部に少し近づいた。「納期が明日なので」
「私も同じです」女性が笑った。金属の筒の中で笑い声が反響して、何だか暖かな残響が残る。「こんな時間まで働いてるの、このビルでは私たちだけかもしれませんね」
その考えは何か親密なものを感じさせた。高層ビルの真ん中で、見知らぬ二人だけが深夜に仕事をしている。その二人を繋ぐのは、使われなくなったシューターという古い管。佐々木は不思議と安心感を覚えた。
「お互い頑張りましょう」彼は言った。
「はい、頑張りましょう」女性の声が返ってきた。「では、お邪魔しました」
「いえ、気にしないでください」
会話は終わり、シューターの中は再び静かになった。佐々木はコーヒーをこぼしたデスクを拭きながら、さっきまで会話していた相手のことを考えた。7階。このビルには小さな会社や個人事務所がいくつも入居している。7階には何があるのだろう?
彼は肩をすくめ、仕事に戻った。しかし、時折シューターの方を見る。あの声の主は、まだあそこにいるのだろうか。
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翌日、佐々木は昼食のために外出した。春の陽気が心地よく、背広の上着を脱いで歩く人もいる。近くのコンビニで弁当を買い、オフィスに戻る途中、彼は自分が西新宿メディカルタワーの7階を見上げていることに気づいた。どの窓の向こうに、昨夜の声の主がいるのだろう。
オフィスに戻ると、重要なクライアントからのメールが届いていた。デザイン案の修正依頼だ。佐々木は溜息をついた。納品したばかりなのに、もう変更か。しかも要求は曖昧で、「もっと新鮮な感じに」とか「読者の心に残るように」といった抽象的な指示ばかりだ。彼はこういう類の指示が苦手だった。
彼は弁当を食べながら修正案を考えていたが、思うように集中できない。視線は何度もオフィスの壁に埋め込まれたシューターに向かう。
思い切って、彼はシューターに向かって声をかけてみた。
「あの、7階の方?」
返事はなかった。当然だ、とため息をつく。昼間に誰かがいるなんて期待するほうがおかしい。佐々木は少し恥ずかしくなって、再び作業に戻ろうとした。
「はい、7階です」
突然の返事に佐々木は椅子から滑り落ちそうになった。
「あ、いらっしゃったんですね」佐々木は慌てて言った。「いや、特に用事があったわけではないんです。ただ…」
「大丈夫ですよ」女性の声が優しく言った。シューターの中で少し歪んで聞こえる。「私もちょうど昼食中でした。昨日はお疲れ様でした」
「ありがとうございます。なんとか納品できました」
「よかったですね」女性は言った。「私も朝方まで作業して、なんとか間に合いました」
「それは大変でしたね」
「ええ、でも終わると達成感がありますよね」
佐々木は微笑んだ。同じような仕事の境遇にある人との会話は心地よかった。彼はデスクの上の弁当を見て、ふと思いついた。
「今、お昼ですか?」
「はい、コンビニのサラダとサンドイッチです」
「僕も似たようなものです」彼は自分の弁当を見つめながら言った。「となりのセブンで買ったカツ丼」
「あら、私セブンイレブンじゃなくて、ローソンなんです」女性が笑った。「なんとなく好きなんですよね、あそこの雰囲気が」
佐々木はローソンの青い看板を思い浮かべた。「確かに落ち着きますよね、あの青い感じ」
「そうなんです!わかりますか?」女性の声が明るくなった。「同僚には『コンビニなんてどこも同じでしょ』って言われるんですけど」
彼らはしばらくコンビニの話で盛り上がった。女性は店内BGMの違いにまで詳しく、佐々木は感心した。こんな他愛のない会話をするのは久しぶりだった。仕事の話ではなく、クライアントの批評でもなく、ただのくだらない日常の話。
「あ、そろそろ会議の時間です」女性が突然言った。「楽しい昼食でした、4階の方」
「こちらこそ」佐々木は言った。「ではまた」
シューターが静かになると、佐々木はふと気づいた。彼らはお互いの名前を交換していない。「4階の方」「7階の方」という呼び方だけで会話していた。それどころか、相手が何の仕事をしているのかも聞かなかった。不思議な関係だった。
しかし、佐々木はそれが心地よかった。名前も職業も知らない相手との会話は、どこか解放的だった。彼は久しぶりに心からくつろいだ気分でデザイン作業に戻った。
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それからシューター越しの会話は、ほぼ毎日の習慣になっていった。決まった時間はなかったが、佐々木が「7階の方?」と呼びかけると、たいてい返事があった。彼らは互いに「4階の方」「7階の方」と呼び合い、それが自然と二人だけの隠語のようになった。
ある日の夕方、佐々木は特に厄介なデザイン案で悩んでいた。クライアントは「インパクトがある」かつ「上品な」デザインを要求してきたが、その二つの要素はしばしば矛盾する。彼は何度か試作してみたが、どれも納得がいかなかった。
「7階の方?」彼はシューターに向かって声をかけた。
「はい、7階です」すぐに返事があった。「どうしました?」
「少し仕事で行き詰まっていて…」佐々木は困ったように髪をかきあげた。「矛盾する要求にどう応えればいいか」
「ああ、それはよくありますね」女性の声には共感が込められていた。「具体的にはどんな?」
佐々木は状況を説明した。「インパクト」と「上品さ」の両立という難題について。
「なるほど」女性はしばらく考えて言った。「でも、相反するように見えて実は共存できることってありますよね。例えば…」彼女は古典音楽の例を挙げた。ベートーヴェンの第五交響曲の冒頭は非常にインパクトがあるが、同時に洗練されているという。
「確かに」佐々木は新しい視点に目を見開いた。「そうやって考えると…」
彼らは音楽、芸術、そして対立する要素がいかに共存しうるかについて話し合った。会話の最中、佐々木の頭の中でアイデアが形になり始めた。シンプルだが鮮烈な色使い、古典的な構図に現代的なひねりを加える方法。
「ありがとうございます」会話の終わりに彼は言った。「とても参考になりました」
「お役に立てて嬉しいです」女性の声が優しく返ってきた。「私も仕事で行き詰まることが多いので、気持ちがわかります」
佐々木は彼女が何の仕事をしているのか、また尋ねないことにした。お互いの素性を知らないことで生まれる特別な関係性を、彼は大切にしたいと思っていた。声だけの関係。顔も知らず、名前も知らず、ただシューターという古い管を通してつながっている二人。
「もし私の意見が役に立ったなら、完成品を見せてほしいですね」女性が言った。
「それは難しいかもしれません」佐々木は苦笑して答えた。「シューターでビジュアルは送れませんから」
「そうですね」女性が笑った。「でも想像はできます。あなたの説明を聞いて、頭の中で絵を描くんです」
佐々木はその発想に感心した。「なるほど」彼は言った。「それなら私の腕の見せどころですね。言葉だけで視覚的なものを伝えるなんて」
「私はいつでも聞く準備ができています、4階の方」女性の声が明るく響いた。
その夜、佐々木は新しいデザイン案に取り掛かった。会話からインスピレーションを得て、彼は古典的な構図の中に鮮やかな色彩のアクセントを配置するアプローチを試みた。仕事に没頭しているうちに、時計は深夜を指していた。
ふと、彼はシューターに目をやった。7階の彼女はもう帰ったのだろうか。それとも彼と同じように夜遅くまで働いているのだろうか。佐々木は窓の外に目をやり、黒い夜空に点在するビルの灯りを見た。どこかに彼女もいるのだろう、この巨大な都市の中の、小さな光の一つとして。
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数日後の午後、佐々木は完成したデザイン案をクライアントに送信した。シューターでの会話がきっかけで生まれたアイデアは、予想以上に上手くいった。クライアントからは即座に好評の返事が届き、彼は久しぶりに達成感を味わった。
「7階の方、いますか?」彼は嬉しさを抑えきれずにシューターに呼びかけた。
「はい、7階です」女性の声がすぐに返ってきた。「どうしました?」
「あのデザイン案、クライアントに好評でした」佐々木は報告した。「あなたのアドバイスのおかげです」
「まあ、おめでとうございます!」女性の声は心から喜んでいるように聞こえた。金属製のシューターの中で少し歪んでいるにもかかわらず、その温かさは伝わってきた。「でも、成功はあなた自身の才能ですよ」
「いえ、本当にあなたのおかげです」佐々木は言った。「行き詰まっていたところを救ってもらいました」
「お互い様です」女性は言った。「この前私が翻訳で悩んでいた時も、あなたの意見で解決したじゃないですか」
翻訳、と佐々木は心の中で繰り返した。彼女は翻訳の仕事をしているのか。これで彼女の職業について少し知ることができた。しかし、それ以上は聞かないでおこうと決めた。
「そうそう」女性が続けた。「さっき窓から見たんですけど、桜が咲き始めてますね」
「本当ですか?」佐々木は自分のオフィスの窓から外を見た。確かに、通りの並木には薄紅色の花が点々と見え始めていた。「綺麗ですね」
「ええ、とても」女性は言った。「春が来たんだなって実感します」
佐々木は春という言葉に少し複雑な気持ちになった。去年の春、彼は離婚したばかりだった。妻―今は元妻―との最後の桜は、どこか虚しく感じられたものだった。
「桜の季節は好きですか?」女性が尋ねた。
「ええ…」佐々木は少し躊躇いながら答えた。「でも、少し複雑な気持ちもあります」
「ああ…」女性の声は理解を示すように柔らかくなった。「思い出があるんですね」
佐々木は黙ってうなずいた。そして、シューターの相手には見えないことに気づいて苦笑した。「はい、ちょっとね」彼は声に出して言った。
しばらくの沈黙があった。しかし、それは不快な沈黙ではなかった。二人の間で、言葉なしの理解が流れているように感じられた。
「私も桜には色々な思い出があります」ようやく女性が口を開いた。「嬉しいこと、悲しいこと、両方です」
「人生みたいですね」佐々木は言った。「喜びも悲しみも混ざっている」
「そうですね」女性の声が柔らかく響いた。「でも、だからこそ美しいのかもしれません」
佐々木はその言葉に強く共感した。彼の離婚は痛みを伴ったが、それは彼の人生の一部だった。そして今、彼はシューターを通して新しい声、新しい友情を見つけていた。
「今度、桜を見に行きませんか?」彼は思わず言った。そして、すぐに自分の提案の奇妙さに気づいた。お互いに顔も知らない、名前も知らない二人が、どうやって一緒に桜を見に行くというのだろう。
女性も同じことを考えたのか、少し笑った。「それは難しいかもしれませんね」彼女は言った。「でも、同じ桜を別々の場所から見て、その感想を共有するというのはどうですか?」
「いいですね」佐々木は微笑んだ。「同じものを見ているという繋がり」
「ええ、そうです」女性の声は明るかった。「明日、昼休みにでも近くの桜並木を歩いて、それぞれの印象を話し合いましょう」
「約束します」佐々木は言った。
彼はデスクに戻りながら、不思議な気持ちになった。声だけの関係、それも古いパイプシューターを通じた関係。しかし、それはある意味で、彼が長い間感じていなかった種類の親密さだった。
明日、彼は桜を見るだろう。そして7階の彼女も同じ桜を見る。二人は別々に歩きながらも、何か見えない糸で繋がっている。佐々木はそれを考えると、心が温かくなるのを感じた。
窓の外では、西新宿の高層ビル群が夕暮れの光に包まれ始めていた。その中の一つ、西新宿メディカルタワーの4階と7階の間には、古いパイプシューターという不思議な通路があった。そして、その通路を通して流れる二つの声が、春の訪れとともに新たな物語を紡ぎ始めていた。