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暁光の死闘

作者: さば缶

 朝の光が台所の窓から射し込み、薄黄色の筋をテーブルの上に落としていた。

その光を浴びるように置かれた納豆のパックは、小さな容器の中で糸をまとった大豆を覗かせている。

そして、その隣に控えているタレ袋が、まるで次の戦いを待ち受ける敵のように不気味な存在感を放っていた。

「今日こそ、スムーズに開いてくれよ。」

軽く独りごちる声には、経験者らしい慎重さが滲んでいる。


不用意にタレ袋を裂こうとすれば、滑って飛び散らかす危険が高まる。

そんな失敗を過去に何度も繰り返してきたせいで、朝の貴重な時間を無駄にした苦い記憶が脳裏をかすめる。

まるで武器を正しく構えるように、タレ袋を正面に据え、指先の位置を慎重に見定める。


 袋を掴む指の角度ひとつとっても、納豆の糸が思わぬ形で手を滑らせる危険がある。

手のひらに広がる粘度は、まるで生き物のようにじわじわと指先に侵攻してくる。

容器から納豆を取り出す際に、既にそこかしこに張りついてしまった糸が、両手の肌を覆っているのだ。

納豆特有の匂いが徐々に立ち上り、鼻先を刺激するたび、集中力が乱される。

だが、ここで退くわけにはいかない。

タレを開けずして、この納豆は完成しないのだから。


 両手の親指と人差し指を使ってタレ袋の両端をそっとつまむ。

硬さや厚みを感じ取りながら、「どこに切り込みがあるのか」を探る。

タレ袋の端には、ほんの数ミリの切れ込みが施されているはずだ。

だが、納豆のねばりが既に袋の縁を覆い、ひっそりと光るはずの切り込みを曖昧にしている。

少しでも強く押し込めば、中のタレが内部で圧力を生み、袋が破裂するおそれがある。

逆に力を弱めれば、袋自体が逃げ回り、滑ってしまう。

一瞬の油断がこの戦いを無残な敗北に導くとわかっているからこそ、息を詰め、指先にありったけの集中を込める。


 「ここか……?」

密かに呟いたその言葉に応じるように、袋の端がわずかにざらつきを見せた。

両手の親指が触れた先に、ほんの僅かな段差を感じる。

そこがタレ袋に施された切り込みだろう。

「よし……ここだな。」

独り言の中に安堵の息が混じる。

しかし、見つけただけでは勝利には程遠い。

むしろ、ここからが本番だ。


 指にまとわりついた糸は、思いのほかしつこい。

一度触れただけで、糸がスプリングのように伸びたり縮んだりを繰り返し、袋への接地面をずらそうとする。

まるで意志を持ってこちらを妨害しているかのようだ。

何とか指と袋の間にできる隙間を最小限に抑えながら、親指の腹を切り込みにかける。

そのまま少しずつ引っ張ろうとすると、唐突に袋が小さくしなる。

「……っ!」

思わず息を飲む。

僅かに緩んだ力の分、袋の中身がぷくりと膨らんだ感覚があった。


 下手をすればタレが噴き出す。

そうなれば、テーブルだけでなく、自分の服や周囲までも粘り気とタレで汚してしまうだろう。

その光景を想像するだけでも戦慄を覚えた。

だからこそ、また少し力加減を調整しながら、両手の指先に意識を戻す。

「落ち着け……焦るな……。」

そんな自問自答を繰り返しながら、ゆっくりと切れ込みを裂いていく。

袋表面のフィルムがじわりと割れるような感触が伝わり、心の中にかすかな手応えが灯る。


 粘り気は相変わらず強力だが、切れ目が開き始めるとタレ袋の抵抗はわずかに薄れる気がする。

薄いフィルムが少しずつ裂けるにつれて、袋が内に溜めていた圧力も落ち着くのだろうか。

だが、安心はできない。

まだ開口部はごく小さく、一気に引き裂こうものなら、内側のタレが不規則に飛び散るかもしれない。

俺はまるで危うい橋を渡るように指の角度を変え、少しずつ袋を水平に倒していく。

「ゆっくり……一気にやるな……。」

自らに言い聞かせる声が、早鐘を打つ胸の鼓動を落ち着けるための呪文のように響いた。


 袋が水平になるにつれ、先ほど感じた不穏な膨らみは収まってきた。

それと同時に、切れ込みが周囲の光を受け、かすかに縁をきらめかせる。

そのわずかな輝きに視線を集中させると、今度は両手の親指と人差し指を左右にじんわりと引く動作に移った。

うっかり力を入れすぎてしまうと、逆に滑って一気に破れてしまう。

この絶妙なバランスこそ、タレ袋との戦いの核心だと改めて思い知る。


 「……少しずつ……裂けてるぞ……。」

歯を食いしばったまま、心の中でそう呟く。

一見すると微動だにしないように見えるが、確実に袋が薄く裂かれているのを指先が感じ取る。

小さな小さな抵抗をひとつずつ崩すように、静かでありながら激烈な攻防が続いた。

そして、ついに袋の一部がはっきり開き、狭い裂け目からタレの芳醇な香りがかすかに立ち上る。

「あともう少し……!」

思わず声を上げそうになるのを飲み込みつつ、最終段階へ突入した。


 ここで気を抜いて一気に裂けば、袋全体が開いてタレが飛び散る危険も高い。

だからこそ、最後の仕上げはむしろ慎重に行わなければならない。

両手の親指をもう少しだけ開き、裂け目をゆっくりと広げていく。

すると、タレが空気に触れる面積が増え、その独特の甘じょっぱい香りがより濃密に鼻孔をくすぐった。

「ああ、やっと……ここまで来た……。」

長かった戦いを思い返すと、自然と感慨が込み上げてくる。


 裂け目が充分に広がると、タレ袋はそれ以上の抵抗を見せずに大人しくなったように感じられた。

あれほど手こずらせた粘り気も、今はもはや警戒するほどの威力は残っていない。

俺は袋の角度を少しだけ変え、納豆の容器の上へと導いた。

すると、琥珀色の液体がとろりと流れ落ち、大豆と糸の上に小さな川を作り始める。

その瞬間、まるで激闘を制した証のように達成感が胸を満たした。


 ほっと一息つき、改めて自分の両手を見下ろす。

かすかに震える指先には、まだ納豆の糸がまとわりついている。

しかし、今はそれさえ勝利の残響に思える。

あれだけ執拗に絡んできた糸も、そしてタレ袋が誇った粘度と圧力の猛攻も、もう終わったのだ。

「終わった……ついに開けられた……。」

この言葉には、まるで長い旅を終えたような達成感が色濃く混じっていた。


 タレを全て注ぎ終えた納豆を、ゆっくりと箸でかき混ぜる。

粘度の強い糸がさらに糸を呼び、もったりと濃厚な姿に変わっていく。

タレの甘みが加わったことで、納豆本来の旨味が一段と深みを増しているように感じられた。

炊きたての白米の上にそっと盛りつけ、一口、口へ運んだとき、身体に広がるのは究極の安堵と小さな幸福だ。

あの苦戦がもたらした解放感が、納豆の味わいをさらに鮮明にしている。


 この瞬間こそが、タレ袋との戦いが生み出すカタルシス。

指先に残るわずかな粘着感すら、今は愛おしく思える。

両手を駆使してあれほど注意深く開封しなければ味わえなかった達成感が、口いっぱいに広がっていた。

「大げさかもしれないけど……やっぱり、格別だな。」

小さく笑みがこぼれ、朝の台所に射し込む光が、その笑顔をやわらかく包み込む。

納豆のタレ袋ひとつが、これほどまでの勝負となり、そして勝利をもたらすとは。

そう思うと、不思議なほど胸が温かくなった。


 手の甲にこびりついた糸の残滓をさっと水道で洗い流しながら、俺はほうっと息を吐く。

終わりの見えなかった戦いが、ようやく収束を迎えたのだ。

「今回も開けるのに苦労したな……。」

自嘲気味に呟きながらも、敗北の苦い記憶ではなく、勝利の喜びが遥かに勝っている。

この穏やかな満足感を胸に、俺は改めて熱々のご飯に箸を伸ばした。

ついさっきまで繰り広げていた激闘が嘘のように感じられるほど、朝の台所には優しい静けさが戻っていた。

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