第八話
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七月七日。
バイト明けの十八時過ぎに山手線へ乗り込み新宿へと向かった。
新宿駅東口の近辺は相変わらずの賑わいだったが、雲行きが怪しい。そう思っている矢先にぽつぽつと小雨が地面を打ち始めた。
次第にそれは強くなっていく。改札から抜けてでてくると色とりどりの傘が咲いて、それぞれに目的地へと向かう。あるいはカバンを雨除けにして走っていくサラリーマン。
待ち合わせか、傘のないやつは東口の屋根下で立って、あるいはしゃがみ込んでスマホをつついている。
どこにでも繋がる時代。誰とでも繋がる時代。なのに俺たちはどこか空っぽだ。スマートフォンの中に青い鳥を探して、いいねをもらう。それで本当に幸せだと思えるのか。
幸せは十人十色、人それぞれ。俺たちは恵まれている。この時代の最先端を手にすることが出来る。充足した、満ち足りた世界を生きていられるのだから。
けど、なにかが足りないのだ。満ち足りているのに、恵まれているのに、欠如している。それはいつの時代から消えてしまったのか。いや、見えなくなっただけなのかもしれない。
誰とでも繋がり、どこにいても繋がる。満ち足りた世界の中で、誰もが嬌声を上げて、笑い合い、幸せを謳歌している。そのノイズにかき消される悲鳴たちは、どれくらいあるのだろうか。
新聞にさえ載らなかった、繋がりを絶たれた消えない悲しみは、痛みは、屈辱は、行くあてもなく、ただ薄っすらと見えない場所でひっそりと嗚咽を漏らしている。
まるで、幽霊のように。
『この世界に踏み込むってのは、自分で決着をつけるということ。死んだ誰かの、想いや願いを背負ってな。その覚悟がないなら今すぐイチ抜けして、鈴鹿に投げろ』
俺は一歩踏み出す。
傘は持ってきていない。大振りになってくる雨の中、遠くで空が腹でもくだしたのか、ゴロゴロと鳴らしている。
俺は人混みの中を縫うようにゆっくりと歩いて、モア三番街を目指した。
俺が確認したのは名前だけだ。実際にそれが証拠になるかは分からない。いや――それは考えが甘すぎる。これだけじゃ証拠にはなりはしないだろう。だが、推測でも、そうであれば繋がるのだ。
でも、もしこれが真相であったなら――こんなくそったれな話もないだろう。だから、俺は鈴鹿から『違う』と否定されることだけを願って、気の進まない足で歩いていく。怪談屋へと。
◇◆
「どうしたんですか。濡れてます。すぐにタオルを」
怪談屋へたどり着いたとき、鈴鹿は驚いたような表情になって執務机の右側にある部屋へと向かい、フェイスタオルを持ってきてくれた。
そして少し冷ましたほうじ茶。この前、俺が気に入ったと言ったから、気を遣ってくれているのだろう。
「鈴鹿――」
「はい」
キャップを外してタオルで髪を拭きながら、赤いソファーへと腰を落とす。
「犯人が――分かったかもしれない」
その言葉に、鈴鹿はさして驚くこともなく「そうですか」と、悲しそうに目を伏せて息をついた。
「ただ、確たる証拠がない。まずは、これを見てくれ」
俺は小笠原 裕子の住民票と戸籍謄本のプリントを差し出した。鈴鹿はそれに目を通してから、目を細める。
「単なる偶然だって笑うか。それとも、短絡的だって――」
「笑いません」
鈴鹿は俺の目を真っ直ぐに見た。俺は目の前の崩れることのない美の象徴みたいな女の視線を受けて、歯噛みする。
「違う、って、言わないのか」
「なにが違うのですか」
「違うって、こんなの偶然で、短絡的なこじつけで、素人のつじつま合わせのくだらない推理ごっこだって、そう言わないのか――そう言ってくれないのか!」
俺は気付けば立ち上がっていた。鈴鹿は顔色も変えず、怯えるでもなく、住民票と戸籍謄本を重ねて、机の上でとんとん、とまとめた。
「経緯を、あなたは説明していません。この結果を導き出した経過が分からない以上、安易に否定はできません」
「――は。気付いてるんだろ、あんたは」
「私の気付いたものと、あなたが気付いたものに相違がないと言いきれますか」
鈴鹿は静かに苛立ちを見せた。視線だけで、俺の方が気圧される。
「……真理は、虐待を受けていた。暴力じゃない。性的虐待だ。俺は、図書館で聞いたんだ。殴られたのか、蹴られたのかって。でも、真理は答えなかった――小さいガキなりの、その矜持が、それを許さなかったんだろ。自分が父親にやられたなんて」
俺は力なく、ソファーに座る。矜持。そう、それは自身のアイデンティティに関わるものだ。そういう目で見られたくないから、性犯罪の被害者はいつだって泣き寝入りする。
告発できるやつが強いわけではない。その被害者だって、無い勇気を振り絞って声を上げているのだ。
そこに性別や年齢は関係ない。真理は、彼女は、幼いながらもそれがどういう意味を持った行為かを理解していた。
そしてそれが嫌なものであること、恐いことも体験として理解していた。だから、言えなかった。
恥ずかしい、そんな生易しい感情などではなく。本気で恐怖していたのだ。死しても、口に出せないほどに。
「裏付けってほどじゃない。ただ、詳細は言えないが、あるガキが言ったんだ。あなたの気持ちわかるよって。それは俺に対して言った言葉じゃない。そいつは性的虐待を受けていた。だから、そのガキはもしかしたら俺から真理の影か、なにかを感じてそう言ったんじゃないか。そう考えたら――真理も同じ経験をしていたんじゃないかってそう思った」
「お母さん、気付いて」
鈴鹿は目を閉じてそう言った。俺は眉間にしわを寄せる。やっぱりこの女も――気付いている。
「そうだ。その言葉こそが彼女のヘルプだったんだよ」
俺はこぶしを握り締める。幼いからこそ、真っ直ぐな言葉。取り繕うことない言葉。大人になるにつれ、不必要な能力は捨てられていくと鈴鹿は言った。
その代わりに、大人になるにつれて無駄に必要な能力を手に入れてしまう。それは――解釈の仕方だ。
「俺たちは――いや、俺は、受け取り側として間違えて解釈をしていた。自分の存在ではなく、自分の父親の本性に気付いてほしい、自分が置かれている状況に。真理はずっとそう言っていたんだ」
そこまで言って、俺は自分が息切れをしていることに気付く。「落ち着いてください」と鈴鹿にお茶をすすめられて、一気に飲み干す。鈴鹿はしばらく口を閉ざしていたが、やがて、
「私は、ルリさんとは逆です」
「――は」
「いえ、あなたの推理を否定しているわけではありません。むしろ、ルリさんのおかげで裏が取れた、とも言えます」
「どういう……ことだよ」
「あなたが突き止めたその方は、まだ同じ過ちを犯しています。彼は、情欲に憑りつかれているのでしょう。その激情の根源は過去にあります。彼は十歳のとき、七歳の妹さんを失っています。彼は隠れて見ていたんです。妹さんが、日常的に性的暴行を受けているのを。そして、ある日の二十三時に妹さんは殺害されてしまった」
「妹……? なんだそれ。そんな話、今まで聞いたことも――それに日常的ってどういう意味だ。それに、それを見ていたんだったら、どうして同じことをするんだ。普通は、逆だろ」
「具体的なことは、今は控えます。ただ、性的に未熟だった彼は、そこで性的快感を覚えてしまったのでしょう。そして彼は歪んでしまった。けれど、だからといってそれを免罪符にして看過できるものではありません」
鈴鹿は――死者ではなく、生者を調べていたということか。俺は目を見開いて、紅葉の言葉を思い出す。
「その妹が殺された日ってのは――」
鈴鹿のたれ目が怒りを湛えて、温和な空気を一変させ、冷たい、氷点下の視線で俺を見ている。俺も、もうここまでくれば、理解していた。もう――真実は、明らかだ。
「七月七日、七夕の夜。今夜です」
――急げ。残り時間は少ないぞ。一日でも遅れれば、おりひめさまは、簡単に消えてしまうんだ
「でも――証拠がない」
俺がつぶやくと、鈴鹿は言った。
「大丈夫です。今回の案件はあくまで春江さんの恐怖を取り除くこと。そして、真理さんをお母さまに会わせることです。ただ――その前に、彼女は彼に会う必要があります。不安を取り除き、未練を叶える。真理さんを幽世へ送るために、必要なことです」