表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/36

第六話



 6



「文字で会話、ですか」


 俺は怪談屋のソファーに座り、図書館であったことを話した。


 正直、混乱していたから正確に伝わったかは分からないけれど、それでも鈴鹿は原稿用紙に万年筆で書き、まとめたあとで、あごを指で挟むようにして思案気にその目を伏せている。


 それでも損なわれることのない美しさは、まるで崇高な絵画のようだ。


「母親に会いたい、父親が恐い。そう言っていた。なあ、鈴鹿。どうすれば、幽世に送ることができるんだ」


「簡単に言えば、彼女の未練を叶えること――あるいは、不安を解消することです」


「母親に会えば、幽世に行けるってことか」


 そう言うと、鈴鹿は曖昧にかぶりを振る。


「おあああん、いういえ」


 依頼人である春江が聞いたという、真理の言葉。フラットな言い方で、抑揚がないため、なにを伝えたいのかまるきり分からない。


 しかし、俺は見てしまった。鈴鹿の目が、なにか確信めいたように、見開かれるのを。


「なにか、分かったのか」


「……彼女は、真理さんは首が折れて声帯を壊していた。だから、私が話しかけても答えられなかった。ルリさんはそう仰りましたよね」


 たれ目がちな双眸(そうぼう)は真っ直ぐに俺を見据えていた。俺は射すくめられたようになりつつ、小さくあごを引く。


「――なのに、春江さんには声が聞こえている。その理由は、分かりました」


「どういうことだ」


「共通点です。春江さんには六歳になるお子さんがいらっしゃる、母親です。そして、真理さんは死してなお、お母さんに会いたがっている。だから、春江さんにだけ言葉が届いたのでしょう」


 小さく息をついて、グラスを傾ける。今回は冷たいほうじ茶だった。一応、昨日の時点で何種類かを保存していたらしい。用意周到なお嬢さまである。


 俺は、特段お茶に対してこだわりや好き嫌いはないと考えていたのだが、今日一日で緑茶とほうじ茶を振る舞われて気付いたことがある。


 俺はほうじ茶の方が好きらしい。香ばしさといい、少しの渋みが俺の舌には合っているような気がした。


 そんなことを感じつつ、疑問を呈する。未だ謎な部分が多いのだ。


「でも、共通点が分かっても、解決には至らないんだろ」


「たしかに、これだけが分かっても解決にはつながりません。けれど、この言葉に、意味が(・・・)あると(・・・)したら(・・・)どうでしょうか」


「意味?」


 俺はグラスを木製のローテーブルに置いてから、眉間にしわを寄せた。


「そうです。この言葉で、春江さんは追い込まれてしまっているんです。最初は、意味のない言葉、あるいは呪詛(じゅそ)、そんな風に受け取っていましたが、もしも、これが喉を潰された真理さんからのメッセージだったとしたら」


 そう言われて、背筋がぞわぞわと粟立った。なにかがカチリとはまるような、そんな気がした。


 喉が、声帯が潰れ、それでも絞り出してまで伝えたい言葉。まったく背景を知らない人間からすれば恐怖だろう。けれど、俺はもう彼女を知っている。真理という少女を。


「おあああん、いういえ」


 鈴鹿はもう一度、同じ言葉を抑揚なく告げる。


 俺は目を閉じてそれを聞く。なにか、変だ。そこにリズムがない。言葉には、イントネーションというリズムがあって初めて伝わることもある。


 ゆっくりと目を開いて、それを伝えると鈴鹿は口角を柔らかく上げた。


「その通りです。この言葉が彼女――春江さんを怯えさせているのは、まさしくリズムがないからです。真理さんの影を見たこと、そして言葉として捉えられない文言、それらの恐怖が心を追い詰めたのでしょう。もしも、本来の言葉で伝えられれば、恐怖こそすれ、そこまで追いつめられることはなかったはずです」


 俺はため息をついた。それは、真理にとっては逆効果だった。伝えたかったはずの言葉が、きちんとした過程を踏めずに、相手へと届いてしまった。肝心の内容が、伝わらなかったのだ。そして――


「あんたは、もう気付いてるんだろう」


 鈴鹿の口調から、俺は悟っていた。彼女は俺が図書館で缶詰めになっている間、この言葉の意味をずっと探っていたのかもしれない。


 ともあれ、彼女はその言葉の意味を理解しているとしか思えない。そんな表情と言動だった。


「ええ。この言葉“おあああん、いういえ”は、“ん”を除いてすべて母音で構成されています。そこから彼女の状態を(かんが)みたうえで、言葉として成立させようとする。つまり、ルリさんのいうリズムの挿入です」


 そう言って、イントネーションをつけて、もう一度『おあああん、いういえ』と告げる。


 そこまで聞けば、いくら鈍感でバカな俺でも分かった。沈黙すると、それを理解したと受け取ったのか、鈴鹿は深いため息をついた。


「相手が子供であること、喉が潰れていること、そして――あなたが知らせてくれた、お母さんに会いたがっていること。これで私の予測は確信に変わりました。ありがとうございます、ルリさん」


 鈴鹿は頭を下げた。俺は、


「まだ解決してねえだろ。それに、俺が勝手に手伝ってるだけだ」


 そう答えた。やはりあなたは大きな空のような方です、と鈴鹿は小さく笑った。しかし、その目はどこか思案気だ。


「――どうかしたのか」


「春江さまの件に関しては、ルリさんのおかげで目処が立ちましたけれど、私は少し気になる記事を読んでしまいまして、新聞や週刊誌を遡っています」


 鈴鹿はどこか曖昧に言う。


「どういう意味だ」


「それは――いいえ、これは、単純な事案ではない可能性がある、とだけ。こちらはまだ確たる証拠に至っていないので、具体的なことは控えさせていただきます。申し訳ありません」


 もしも事実の認識に齟齬(そご)があればいけませんから――鈴鹿はそう言った。俺には理解できなかったが、その表情から食い下がることも躊躇われた。


 単純な事案ではない可能性、というのがなにを指しているのか、気にならないといえばウソになる。


 けれど、今は――彼女の真意を突き止めたことに、安堵している部分も少なからずあった。死してなお彼女の言わんとしている想いを知ることが出来たのだから。


――真理、お前が伝えたかったのは、こうだろう。



『お母さん、気付いて』



 母親――裕子に対して自分の存在に気付いてほしい。それは少女のあまりに無垢で切実な――願いであり、未練だった。



◇◆



 俺は引き続きネットでも詳細を調べることを約束してから、池袋へと戻った。あとは、裕子と真理を再会させる。これでようやく解決する。そのためにも、真理の母親の居場所を知る必要があるのだ。


 なるべく早めにけりをつけたいところだが、さすがに今日一日、新聞とにらめっこしていたので、目と肩、腰が痛かったうえ、慣れないことをしたものだから疲労がたまっていた。


 このまま家に帰って眠っても良かったのだけれど、やはりどこかで現実から遠ざかっているような不安感があったのだろう。日常に戻りたい、そんな気持ちで西口公園まで来ていた。


 相変わらずの面々と、酔っ払い。歌うたいの兄ちゃんに、喫煙所では観光客に蝶々、サラリーマン。カップル。喧騒がいやにうるさく聞こえた。ずっと静寂の中にいたからかもしれない。


 しかし新宿とは違い、やはりこの街の充足感は良い。自分のホームだと改めて実感できる。新宿と比べれば半端な田舎もいいところだけれど、その半端な部分が俺には合っている。そんな気さえするのだ。


「おう、ルリ」


 中心に近づいていくと、ヒロトが白い歯を見せて笑った。俺は苦々しい表情になったが、あえて何も言わなかった。


 鈴鹿に、この名前の語源を聞いたことを覚えているからだ。いつもの面々だったが、ひとりだけ、見ない顔があった。


「誰だ、その子」


 小さな女の子がそこにいた。ユカリともうひとり、カツヤがなぜか嬉しそうにその子とトランプに興じている。女の子は小学生高学年か、中学生くらいに見える。


「マサキが連れてきたんだよ」


 カツヤは俺と二十一歳で、茶髪のライトジェット・モヒカン。


 モノトーンのプルオーバーシャツにロング丈のカットソーを合わせて、下はワイドパンツにビルケンシュトックのサンダル。この前でかいいびきをかいて寝ていたやつのひとりだ。


 俺が下唇の端に刺した小さなボール状のピアスを羨ましがって、真似るように唇にリング状のピアスを三つ入れている。


 身長は俺より頭ひとつ分低く、どこか子供っぽさが抜けないやつだった。年下の俺が言うのもどうかと思うけれど。


 ユカリは二十歳。マッドアッシュの髪をウェーブさせて肩まで伸ばしている。


 黒地に赤文字のバスケットタンクトップにスキニーのダメージデニム、ヴァンズのチェック柄のスリッポン。首筋にはハートのタトゥー。


 今日はふたりが、お互いに向かい合ってすやすやと眠っている。けれど、ここで朝を迎えることはない。


 適当な時間になれば解散する。その際、起きなかったやつはヒロトが背負って家まで送ることになっているからだ。


 モラルや常識なんて守りもしないというのに、仲間の安否だけは心配で仕方がない。なかなかに変なコミュニティである。


「そのへんをウロウロしてたから、危ないと思って」


 トランプで遊ぶ三人を横目に、マサキが苦笑して言った。


「ロリコンなんすよ、マサキさんは」


 ケラケラと笑いながらカツヤが言う。「そんな性的倒錯はないよ」とマサキは笑うことなくため息をついた。


「そういえば、あのときの酔っ払いはどうなった?」


 鈴鹿に絡んでいた三人組――いや、仲裁のメガネのサラリーマンは見逃したから二人組だったか――俺は不意に思い出してマサキを見ると、無邪気な笑顔が返ってきた。


「ルリがイジメたから、ほどほどにしてあげたよ。気持ちよくなれたんじゃないかな。久しぶりに真っ当な仕事をした気がする」


「真っ当ねえ」


「オーナーに言って俺の財布から八割出してあげた。したら、あいつらもう上機嫌でさ、また来るって」


「八割ね。気前いいじゃん」


「うん。免許証で住所と氏名と電話番号とメアドを控えて姫に伝えてあるから、次も絶対来るよ。そしたら俺の財布はパンパンになる。ひとつで足りるかも分からないや」


 恐ろしい男だ。こうやって一見客を常連にしていく。その観察眼はたしかなものがあるようだ。


 一見で終わる客からはがっぽりと、繋がりそうなら安めに、そうやってじわじわと客の中へと侵食していく。気付けば破産まで追いつめられる。


 しかしその言い方によれば、今回の客は二回目で切るつもりのようだった。


 簡単に言えば甘い蜜を吸わせて、次また寄って来たときにはその蜜は毒に差し替えられている。


 そしてマサキの財布が潤っていく。経済はアングラの方が大きく動いているのかもしれない。


「んで、その女の子は」


「うん、家に帰りたくないみたいだよ」


 訊くと、一瞬だけマサキの表情が曇ったような気がした。


 俺は彼女を見る。トランプをしているけれど、笑顔はない。ババ抜きが嫌いだから、というわけではないだろう。


 どこか虚ろな目で――その目は、どこかで見たことがある。自分なんてどうでもいい、そんな自棄になった目。それが昔の自分だったことに気付くのは、一瞬後のことだった。


「でも、ここでいつまでも遊ばせてるわけにもいかないだろ」


「だから、ルリを待ってたんだ。来なかったら呼び出そうと思ってたところだよ」


「俺を?」


「うん。俺も含めてここの連中はお巡りさん相手だと困っちゃうでしょ。仕事もそうだし、色々と」


「ああ、なるほど」


 この中にいるのは悪ガキどもと、グレーゾーンの仕事をしているやつらばかりだった。俺もそこに含まれているけれど、それでも今のところ口が利けるのは俺だけ、ということだ。


 なにせ――警察の中に知り合いがいるのは、俺だけだからだ。


「でも、あいつ今は一課だぞ。とっくの前に安全課から異動してる」


「部署とか関係ないんだよ。要は、話ができるやつが欲しいってだけだから」


「でも、なんでその子は家に帰りたくないんだ」


 俺とマサキは少し離れたパイプベンチに座り、ポールモールに火をつけた。今日一日吸わなかっただけなのに、久しぶりに吸った気がする。


「……虐待だよ」


「虐待?」


「うん。ユカリに話を聞いてもらった。二人だけにして、そこのマックでご飯を奢って。ルリが来るまで、三時間、四時間くらいかな。ずっとユカリとあの子はマックにいたよ。口を開かなくて、ずっと待ってたって聞いた」


「でも、アザとか、怪我してる感じはしないけどな」


 俺は言ったあとで、ああ、見えないところに傷があるのか、とつぶやいた。するとマサキはかぶりを振った。


「ねえ、ルリ。虐待って聞いて真っ先になにを思い浮かべる?」


 マサキの目は真剣だ。


「そりゃ、殴る、蹴るだろ」


「他には?」


「他……暴言とか、閉じ込めたりとか」


 マサキの目が段々と細められていく。笑っているわけではなく、(たぎ)る怒りの色でてらてらと濡れているのは、見てわかった。俺は眉を寄せて、


「どうしたんだ」


 そう訊いた。


「虐待は多様化してる。ネグレクト、つまり育児放棄も立派な虐待だよ。他にも、冬に外で放置したり、煙草の火を押し付けて火傷を負わしたり。まあ、このあたりは暴行だよね」


 マサキは眉間にしわを寄せ、唇をかみしめた。


「他にもあるのか」


「うん。たとえば自傷行為も虐待のひとつだよ。お前のせいだ、って子供の前で傷をつければ精神的支配が可能だし。それに思想の強要、刷り込みもね。精神的苦痛を与える虐待。厄介なのは、それが父母だけじゃなく、兄姉からのケースもあるってこと」


「兄姉からの虐待?」


「虐待ってのはつまりね、DVなんだよ。子供が年老いた親を、ってケースもあるくらい。でもまあ、彼女は今、俺が言った種類のどれにも当てはまらない」


 マサキは真っ直ぐにパイプベンチから噴水跡に集まった仲間たちを見据えている。その中のひとり、小さな少女を。それから一拍置いて、つぶやくように言った。


「――性的虐待だ」


「せい……どういうことだよ」


「親から、性的な暴行を受けていた。そのままの意味だよ」


「ま、待てよ。相手はまだ子供だぞ。ましてや自分の子供だろ。そんなの、ロリコンとか、ペドとか、そういう問題じゃないだろ」


 俺は戸惑っていた。自分の子供を性的な目で見る、ということが理解できなかったのだ。家族は家族であり、俺は自分の母親を異性として見たことなんて一度もない。言葉を探していると、マサキは語る。


「いるんだよ、そういうやつが。思春期の女の子に限らず、性の絡んだ事件になると、被害者は証言しにくい。レイプは心の殺人ってよく言うでしょ。恐いんだよ。これから先、そういう目で見られるのが。だから裁判の証言でも顔が見えないように三方を衝立(ついたて)で隠される場合だってある」


「……でも、あの子はまだ小さい」


「うん。小学五年生だってね。だったらなおさら、言えないでしょ。恐いだろうし、言ったら言ったで、矜持っていうのかな。そういうものが壊されちゃうんだから。ユカリは粘って彼女が口にするまで、なんでもない話をしてくれたらしい」


 ふう、とマサキは息をつく。俺も紫煙を吐き出した。


「警察に連れていくと、どうしたって話すことになるぞ」


「だからルリに頼んでる。保護してもらって、児相へ連絡入れてもらうつもりでいるんだ」


「――親の許可がいるんじゃないか。児相も強制的な権限はないはずだ」


「それでも数日でいい。保護してもらえるなら、俺がなんとかする。情報戦なら負け知らずだからね。パソコンひとつで居所も素性も会社も調べられる時代だ。まあ、正しいやり方とは言えないけど」


「お前……」


 俺は普段は穏やかなこいつがここまで怒りをあらわにするところを初めて見た。そこで、妙な憶測が生まれた。


 それは、やつの矜持を踏みにじるものだ。訊いていいものかどうか迷っていると、マサキの方から口を開いた。


「俺も、そうなんだ。相手は父親だった。肉親からの暴力とか暴言とか、そういうのならまだどこかで我慢できるんだ。でも、セックスは違う。心のどっかを叩き壊される。俺の父親はバイセクシャルで、母親がいないときにやられた。母親は、俺が十六で家を出るまで、気付きもしなかったよ。今だって知らないだろうね」


 マサキは言えないし、気付けって方が無理だよね。そう言って枯れたような声で笑った。俺はポールモールをくわえて、マサキの髪を両手でぐしゃぐしゃと撫でた。


「うわ。なに、なんだよ」


「今、俺が気付いた」


「――まったく、俺のほうが年上なんだけど」


「関係ないだろ。仲間なんだから」


「じゃあ、頼めるかな」


 俺はスマホを取り出していた。連絡先は決まっている。捜査一課の刑事、高遠(たかとう)


 俺がガキのころ、さんざん世話になった刑事だ。そのプライベート番号にかける。プライベートで話ができる程度には、俺も大人になったってことだ。


「マサキ、あの子に名前と連絡先だけは言わせるな。調べられて引き渡されたら終わりだ」


 コール音の中、そう言うとマサキは小さくうなづいてから、少女の元へと戻った。しばらくコール音が続いて、ようやく低い男の声が聞こえた。


『なんだ、ルリ。自首でもする気か』


「相変わらずで安心したよ、隼吾(じゅんご)さん」


 高遠(たかとう) 隼吾(じゅんご)。三十五歳で独身。


 池袋署の元、生活安全課の刑事であり、二年前に警部補に昇格して渋谷署の捜査二課に異動し、今では警部に昇進して警視庁の捜査一課主任に席を置いている。順当に出世をしている男だった。


『お前が俺を、さん付けねえ。なんか揉め事か』


「いや、荒っぽいことじゃない。ただ保護してもらいたいやつがいる」


『お前らのたまり場の近くに交番があるだろうが』


「知ってる。でも、俺はあんたに連絡を入れた」


 そう言うと、スマホの向こう側で深いため息が聞こえた。


『ワケアリか』


「児相に連絡して、それまで保護してくれないか」


『児相? そいつはいくつなんだ』


「小学五年生らしい」


『……分かった。覆面で向かう。お前は交番で待て』


「だから交番は」


『俺から連絡を入れておく。なにも聞かれないなら、交番でも問題ないだろう』


 そういうことか、と俺は小さく笑った。


「恩に着るよ」


『俺の貸しは高くつくぞ。だから、さっさと真っ当に仕事して、ちゃんとしっかり出世しろよ』


 無茶苦茶なことを言う刑事である。税金で食ってることを完全に忘れてる。まあ、その無茶苦茶を言わせているのは、大概が俺の方なんだが。



◇◆



 交番にはユカリがついてきてくれた。少女は無表情で、なにも言わない。交番の巡査が冷たいお茶を出してくれたが、それにも手を付けなかった。


 どうやら高遠の連絡のほうが早かったらしく、俺たちが交番についたときには椅子が用意され、なにも聞かれなかった。


 俺は交番の前で立っていると、


「ねえ、ルリ。大丈夫なんだよね」


 中からユカリが心配そうにこちらを見る。俺は、


「問題ない。長い付き合いだからな」


 まあ、その長い付き合いが有意義なものだったかというと、そうでもない。ただ俺が今、塀の中ではなく、こうやってこの街で生きていられるのは高遠のおかげであることだけは間違いなかった。


――しっかりと更生したか、と訊かれると答えあぐねるものだけれど。


 しかし、俺は依然として戸惑いを抑えることができなかった。子供を殺す親がいる、あるいはその反対の事件は、今日たっぷりと読んだ記事の中にも散見されていた。


 明確な殺害がある場合と過失致死。父親、母親問わず、少なくない数の事件は起こっている。


 それでも性的虐待というのは――俺にとってはひどくセンセーショナルな話題だった。肉親の身体を、というのは考えるだけでもきついものがある。当事者ならなおさらだろう。


 その痛みすべてを理解できるわけじゃないけれど、ショックであることには間違いない。


 察して余りあるどころか、俺は、どこまでその被害に遭ったや人間心の痛みを理解できるのだろうか。同情ではなく、きっちりと寄り添えることができるのだろうか。


 ほどなくして一台の車が到着する。サイレンは鳴らさず、まず降りてきたのは中年の婦警だった。ちょうど少女の母親くらいの年齢だろう。


 その後ろから高遠が降りてきて、俺は手を上げると、その手に拳を軽く当てた。あいさつ代わりの、いつものやつだ。


 高遠はツーブロックに、大柄な体躯をスーツで身を包んでいる。百八十はあろうかという身長に、彫りの深い顔立ち。豪胆な性格で、快活に笑う。


 その代わり怒らせたら鬼より怖い。この男に追い回されれば、軽いトラウマになるレベルだ。


「悪いな。職権濫用ってやつだろ、これ」


 俺が言うと、


「バカ言え。俺は迷子を保護しにきただけだ。ちゃんとした職務だろうが」


 ふん、と鼻で笑う。俺はサンキュー、とだけ伝えると、交番の中から婦警に連れられて少女が出てきた。「あの子か」と高遠は少女を見る。小さな身体を震わせて、不安そうに婦警と、高遠を見比べている。


「心配するな。こいつは信用できる」


 言った瞬間、ゲンコツが後頭部を直撃した。


「相変わらず言葉遣いがなってねえな」


「うっせえよ。それより怖がらせんな」


 高遠は身を竦める少女に触れようとはせず、にっこりと笑ってみせた。


「君を守るのが、お巡りさんのお仕事なんだ。大丈夫、ちゃんとご飯と休める場所を用意してあるから、安心してくれ」


「……飯とか俺、出されたことねえけど」


「お前はバカやって放り込まれたんだ。対応が変わるに決まっているだろう」


 小言をつぶやくと、小さな声で高遠がそう言った。


 それもそうだ。悪ガキの説教部屋に栄養満点の弁当が無料で出る警察署なら、喜んで悪いことをするだろう。年末年始のホームレスの賢い知恵と同じである。


「期間は」


「本来なら一日。無理を通しても二日から三日が限界だ。その間に児相に連絡を入れる。だが、その前に両親が家出人扱いか、失踪届を出しに来たら、あるいは児相が彼女の件で家に問い合わせたら残念だが、引き渡さざるを得ない」


「できれば三日は持たせてやってくれ」


「……なにがどうなってるのか俺には分からないが、妙なことは考えるなよ」


「ちゃんと釘はさしておくよ」


 俺が言うと、はあ、とため息をついて高遠がため息をつく。俺はジェスチャーで煙草を、と言ったが「時間がないから、また今度な」と言われて、車へと戻っていった。


 未成年に対する返事ではないだろうに。警官でありながら、高遠は真面目一徹、杓子定規のようなやつではないのだ。


 婦警に連れられて少女が交番を出てきたとき、彼女が虚ろな目で俺を見ていることに気付いた。


 さっきの会話を聞かれたか――悔やみかけたところで、少女はひと言だけ、


「あなたの気持ち、わかるよ」


 そう言われた。完全に虚ろな瞳で、諦めきった心で、小学生の彼女は俺に向かってそう言ったのだ。


 だが、俺の気持ちの、なにが分かるというのだろうか。むしろ、俺が少女の気持ちを理解すべきはずなのに。


 昔の、自棄になっていたころの俺のことかとも思ったが、口には出していないし、俺自身、いい加減な親は持ったが虐待をされた覚えもない。怒鳴られたことくらいだ。ゲンコツはだいたい高遠から喰らっていたが。


 なんとなく、不安感が募った。


 なんだ、この気持ちは。なにかに繋がりそうで、どこかにたどり着きそうで、けれどその糸の先は暗闇でまったく見えない。


 だが、昨日、今日で起きたこと中で、似たような言葉を別々の場所で聞いている――その不安定さが、どうにも気味が悪かった。


 なにも答えることが出来ないままでいると、少女は車の後部座席に座り、運ばれていった。俺は焦燥感に駆られそうになるのを堪えて、そのテールランプを見送った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ