第十三話
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九月に入った。ここからは後日談だ。
ブルーム総合病院は快復した直樹が院長代理となった。当の院長である奥宮 善三はあれから姿を消し、今もなお失踪中とのこと。
あれだけのことがあったにも関わらず、責任を放棄して逃げ出す大人がいる中でも、直樹はしっかりと外来と院長の仕事を両立させている。
直樹は祖父の過去を知っても、過ちは過ちだが、それでも命に対しては真摯だった、と言っていた。人間、至らない部分やマイナスな部分ばかりが目立つけれど、その中にある良識を見据え、敬意を払える。そんな大人がどれだけいるだろうか。
また、認可が下り次第、新生児科とNICUを立ち上げる予定も一時期は父親の醜態もあって延期、あるいは中止にしようとしていたらしいが、充希たちと話し合うことで導入することを決めたそうだ。
しかし、そもそも二度目の火災もあって認可が下りるかどうかも怪しいと本人は言っていたけれど。
直樹はしっかりした大人だ。俺も時折、やつと飯くらいは行くようになった。ただし、小言が多いから直樹の前では酒もタバコもやらない。けれど不思議といやな感情はない。それはきっと、直樹が俺の中で良識のある、常識のある数少ない大人だからだろう。
俺は直樹の雄姿を見た。腹違いの弟を守るという、不器用でも真っ直ぐな、その姿勢を。そんなやつに対して、気に食わないなんて言ったバカを、今なら存分に罵ってやりたい。
瑞貴は精神科に入院となった。自身の勤めていた病院では養生できないだろうと、直樹が手を回して都内にある大学の同期が勤めている病院に入ったそうだ。その見舞いの帰りに、俺とやつは会うことが多くなった。
紅葉はあれから結界を壊して呪符を燃やしたと言っていた。どうやら紅葉の持っていた護符――ネックレスに反応する結界だったようだ。
今回、紅葉に利があると鈴鹿は言っていたが、あの魔女は「とんだ空振りだったな」と漏らしていた。一体なにを追っているのかは分からないが、結局、鈴鹿から三十万以上の金額をふんだくることはなかった。
火事の件は火元も分からず今も調査中らしい。だが、結果として今回の火事も、さらに言えばけれど、小野と皆川の事件もまた、お宮入りするだろう。
不能犯――超常的でオカルティックな呪いを裁ける法律は、ないのだから。
ちなみにそれらを聞いたのは、直樹からだった。呆れたような、軽蔑のような表情を浮かべて、ため息を漏らしていた。
彰浩は二十年越しに助けられて幽世に逝き、順子の呪いは紅葉が解いた。ただ、逃げてしまった善三の呪いは解いていない。まだ生きたままだと言う。
「人を呪わば穴二つ。瑞樹は相応のものを受けた。あの院長もどこかでしっぺ返しが来るさ。いいや――ずっと呪われ続けること、それ自体が苦痛だろうな」
それが相応しい業だと紅葉は言っていたが、笑ってはいなかった。
それはきっと、彼女の中にある正義感が、責任感が、納得できていない証拠なのだと思う。
いかに悪い人間であっても、呪術で死ぬなんてあってはならない――そんな彼女の信念を垣間見た気がしてにやけると、重いゲンコツを喰らってしまったのだけれど。
鈴鹿は――。
あれからしばらく、怪談屋を閉めていた。九月に入り、再開すると連絡が入って(もちろんあの機械音痴のお嬢さまだ。黒電話でかかってきた)、俺は山手線に乗るためにホームに降りて待っていた。
暑さはなりを潜める気配はない。それどころか、まだしつこく日に日に増していっているような気さえする。
◇◆
「このたびは急にお休みをしてしまい、申し訳ありませんでした」
新宿。モア三番街。ゲームセンターと百均の先。中央通りの手前にある雑居ビル。一階は内装工事が終わったようで、あとは看板をつけるだけのようだった。
その上、二階の怪談屋の木製のドアをノッカーで叩いてはいると、開口一番に美の権化はそう言った。
相変わらず美しさを保ち、オレンジ色に浮かぶ彼女の妖艶さもさることながら、そのどこか寂寞と憂いを滲ませた表情は薄弱美人、深窓の令嬢、どんな言葉をあてがってもきっと陳腐になるほどの麗しさを持っていた。
それでも――俺は彼女を才色兼備、眉目秀麗、そう言い続けるのだろう。語彙力のない俺が鈴鹿の限りない、途方もない美しさを表すために使える言葉には限りがある。
地獄のような過去を抱き、美の女神の寵愛を賜り、その女神さえ超越した羞月閉花な彼女を正確に表すための言葉は、未だに辞書には載っていないのだから。
「いいや――それより、大丈夫なのか」
俺は仔細を聞かされていない。休業も端的で質問は受け付けない圧のようなものを感じて、俺は言われるがままに了承したのだ。だから、もしかしたら鈴鹿があの火災でどこか悪くしたのかもしれないと考えていた。
あるいは今回の件で過去を思い出したのか――とも。
「身体は平気ですよ。そうですね、心配をおかけしてしまいました。申し訳ありません」
「いや、まあ、身体に問題がないなら良いんだ。でも、その……なんで休んだのか、訊いていいのか」
俺の言葉に、目を伏せる。しかし声は滑らかに、しっとりと、それでいてはっきりと聞こえた。
「……善三さまの行方を追っていました」
「それで、結果はどうだったんだ」
俺の疑問に無言のまま、かぶりを振って鈴鹿はそう答えた。そこで、俺は彼女が懸念していることを理解した。善三は呪いにかかったまま行方不明なのだ。
やつは未だに苦しんでいるのか、すでに命を絶っているのか、判然としない。
そして鈴鹿――咎ざらしをもってしても、その行方を掴めなかったのだろう。
「今回の事件、私は――なにも解決できませんでした」
「それでも咎をさらした。彰浩を――救ったんだ」
「救ったのは、直樹さんですよ。私は、破滅を与えただけです」
そう言われてしまえば、俺にはなにも言えなくなってしまう。
破壊し、破綻し、破滅させる、それが咎ざらしの役目なのだから。今回の件でより一層、その業の深さを俺は知った。それを背負う彼女の重みも。
七夕事件ではひとりの男と二つの家庭を、妖精事件ではフェアリーズ・ホームという店を、その関係者を破滅させ、今回の件ではひとつのコミュニティ、家族を崩壊させることになった。直樹のおかげでまだマシだと言えなくもないが。
けれど善三は失踪し、瑞貴は入院した。それは彼女からすれば崩壊したと同義なのだ。でも今回に関しては善三自身の女癖の悪さで奥宮家はすでに破滅していたとも言える。
言えるのだけれど、鈴鹿はそれに納得して「そうですね」とは言わないだろう。
そしてなにより七夕事件から立て続けに事件が起きた。それは彼女の心にも多大な負荷がかかったということだ。
泣きたくても、泣くのは自分ではない、泣きたいやつは他にいるのだと。彼女は言葉にしないけれど、その痛切な表情から読み取れる。
短い付き合いだ、俺の勘違いだ、そう言われればその通りだ。けれど彼女が――割り切れるだけの冷たさを持ち得ないことくらいは、俺にだってわかる。
だから俺は、パンッ、と軽く手を叩いた。
「そういや今度の休み、なにか予定はあるか」
急に話題が変わったことに彼女は目を白黒させている。見つからない。言えることはない。癒す言葉を持たないのなら、俺は俺らしく、空気も読めないろくでなしの悪ガキでいるべきだ。
彼女がそれを求めているかどうかじゃない。けれど、いつも通りの俺でいるべきだ。そう思った。
「いえ、特には、ありませんが……」
「なら良かった――」
俺は小さく笑う。いつも通りに。
「原宿に行ってクレープでも食おうぜ。美味い店を知ってるんだ」
その言葉に鈴鹿は少し戸惑ったような、それでいてどう答えていいのか分からない、とでも言いたげな表情を一瞬だけ浮かべたあとで、ふっ、と息をついて、
「――エスコートは、お任せします」
ゆっくりと唇を、その口角を上げる。そのたれ目を優しく細める。美しい微笑みだった。地獄のような過去を持っていながら、それでいて無垢な、まっさらな笑顔。この世にふたつとない、美麗な微笑。
そんな彼女に似合う、彼女のその美しさを端的に、そして正確に表す言葉は、まだこの世のどこにも、ない。
俺は、見つけ出せるだろうか。その言葉を。この人生の半分を、いや、すべてを費やしてでも、見つけだして彼女に手渡せるだろうか。
そうしたら彼女の苦渋に満ちた、惨憺たる過去さえ打ち壊して、鈴鹿の手を、その肩を、身体を、壊さないように抱きしめることが出来るのだろうか。
彼女の涙を俺は見たことがない。けれど、それはきっと美しい、価値なんてつけられないほどに輝く宝石のようなものなのだろう。だから。
だから――その宝石のような涙が彼女の頬を伝うときは、幸せなときであってほしいと、嬉しいときであってほしいと、切実に願ってしまうのだ。
そして今は――彼女を――鈴鹿のその笑顔を守りたいと強くそう思った。これからも、叶うならばこの特等席で。
我ながらバカみたいなことを考えているものだと思う。それでも惚れた相手が哀しそうな顔をしているのは、なかなかに耐えがたいものなのだ。
「ああ、でも紳士じゃねえから、上手く出来ないぞ。だから期待だけはしないでくれよ」
「ルリ――」
内心で照れくさくなって俺がそう返すと、鈴鹿は口許に手を当てて小さく肩を揺すった。そして咎ざらしでも、怪談屋でもなく――月詠 鈴鹿という女は、俺の心を奪っていった彼女は、慈愛にも似た視線で俺の目を真っ直ぐに見つめてから、
「やっぱりあなたには、その名前が良く似合います」
――そんなことを言うのだった。
(了)




