第十二話
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午後十一時。奥宮家――院長、奥宮 善三。妻であり心療内科病棟看護師長、瑞貴。
内科医で長男の直樹。外科医で長女の充希。看護師で次女の紗季。
そして俺たち――紅葉と橋姫は、旧館にある例の開かずの間の前に集められた。開かずの間は扉に打ち付けられた板がすべて剥がされている。魔女の舞台措置は、それだけだった。
「……大丈夫か」
これから起きることを知っている俺は直樹を見ると、やつは鼻で嗤った。
「子供が大人の心配をするんじゃない」
直樹はいつだって大人であろうとする。この短い付き合いでも、それくらいは分かる。初対面では最悪の印象だったが、今ではそれも揺らいでいる。この男は、俺の知る限り正しい大人であろうとしている唯一の人間だ。
自我の世界は己の中に、脳の中にある。それは自由で、束縛されるものがない。夢のようなもの。幻想のようなもの。こうあればいい、こうなってほしい、そんな願望がかならず叶う場所。それが自我の世界だ。
直樹はその自我の世界の中でさえ、縛られ、正しさのみを追求している人間のように見えた。
「あの」
充希は心配そうにこちらを見る。それに対し、紅葉が小さく笑ってみせた。
「もう少しで、事は解決を見ます」
「しかし、なぜ旧館なんだい? 話をする場には――いささか不相応な気もするが」
「もし良かったら我が家をお貸しいたしますが」
ねえ、あなた。善三の言葉に、瑞貴が付け足した。
「――いいえ、この場所ほど相応しい場所はありませんよ」
その草葉を滑る朝露のような声とともに、きし、と踏みしめられる音がした。
白いワンピースに朱色のロングカーディガン、白のパンプス。その姿を見るのは、三度目だ。
――咎ざらしの朱猫。
「あなたが、月詠さんですか」
善三はスーツの襟を正すと、流し目で彼女を見て息をのむのが分かった。善三だけではない、瑞貴、紗季も同様に一歩、後ろに下がった。面識のある充希と直樹は軽く会釈をする。
「ええ、月詠 鈴鹿――咎ざらしの朱猫と申します。以後お見知りおきを」
「……いやはや、まさかこんなにお若いとは」
指を揃えて腰を折る仕草にさえ気品を感じる。そんな鈴鹿を見て、善三はそう言ってから軽く頭を下げた。
「さて、今回の数奇な案件について、まずはどこからお話をしましょうか」
顔を上げた咎ざらしは微笑んでいるもののその目は妖しげに光り、柔らかく上がった口角もどこか怒りを孕んでいるように見えた。
「好きなとこから話してやれよ」
魔女――紅葉は開かずの間の扉の向かって右側に腰を下ろしてラッキーストライクに火をつけるが、それを咎める者はいなかった。直樹でさえ、鈴鹿のかもし出す空気に当てられたのか、口を挟めずにいる。
「そうですね。では、概要から。今回の案件は“呪い”を解く――という依頼でした。私のお役目は咎をさらすことであり、呪いに関してはそこの――彼女が専門家です」
「なら、その、月詠さんはどうしてここに?」
充希が口を挟んだ。鈴鹿は微笑を浮かべたまま、
「もちろん、咎をさらすためです」
そう言いきった。充希は分からない、といった表情で俺と紅葉を交互に見るが、俺も魔女も顔には出さない。ここで語られるは、奥宮家の物語であり、咎だ。そして今宵の語り部は俺じゃなく――。
「今回の事案は予期せぬ事態が起きてしまっているようです。よもや呪いをかけた本人も、こうなるとは思わなかったでしょう。この絡まり合ったカラクリの背景には、当事者の知らぬ間に第三者と繋がってしまったことで複雑化しました」
「カラクリ――呪い、か。まさにオカルト、といったところだね。いいや、ミステリー小説のようでもある」
つぶやくように、善三は腕を組む。瑞貴も目を伏せ、紗季は充希と肩が当たるほどの距離で少し震えているようだった。直樹は毅然として目を閉じ、鈴鹿の一言一句をかみしめるように聴き入っている。
「たしかに事実は小説より奇なり、という言葉もありますね。フィクションの世界よりも現実世界のほうが思うように作られていないのですよ。そう――誰だってすべてが願望通りに進むとは限らない。だから予定調和はすぐに崩れ、奇妙な現実が出来上がるのです」
「それで、その……どうしてこの場所に?」
「この場所が、始まりだからです」
おずおずと瑞貴が声を出す。鈴鹿は両手を拝むように合わせて、親指をクロスさせてバッテンを作る。それは――印。それが意味するものは――。
「さて、それではまず――」
鈴鹿は俺を通り過ぎ、開かずの間、そのわきに立った。
「奥宮 善三さまの咎をさらします」
咎ざらしは語り始めた。
◇◆
「善三さまは婚姻関係にありながら、幾度となく不貞行為を繰り返していますね」
鈴鹿は淡々と続ける。善三の女癖の悪さ――それは昨日、直樹から聞いた話だった。火事の件以外で呪われる原因があるとするならばそこだろう――と。
「それは五十を過ぎた今もなお、終わってはいない。あなたは――背徳感に憑りつかれているのですよ」
その言葉に善三は困ったように笑って肩をすくめる。咎ざらしはそのたれ目を鋭く光らせている。
「なにを言い出すかと思えば。それは言いがかりというのではないかな。それに呪いの話とどう繋がるのかね」
「むしろ――あなたが呪いの発端と言ってもいいのですよ」
「証拠でもあるのかな」
その言葉に、動いたのは鈴鹿ではなく紅葉だった。ポケットからプリントされた写真を十数枚と取り出して、床にばら撒いた。直樹をはじめ、充希、紗季もそれを手に取って、困惑した表情で口許に手を当てている。
俺も手に取ってみれば、この旧館の、ある程度、手入れされたあの部屋で女の手首が縛られてベッドに繋がれている。けれど笑みを浮かべている。なんとも生々しい写真だった。
善三はその写真を見て、眉間にしわを寄せた。
写真の内容はこの焼け落ちた旧館で唯一、整理されていた一室――この開かずの間と対面する場所――で善三と見知らぬ女性が交わっている部分が写されている。
「昨日の二十一時から二十二時まで、お盛んだったな」
紅葉は心底軽蔑したような目と低い声で言った。俺と直樹が話をして池袋に向かったのは十時過ぎ。事のついで、と言っていたのはこのことか。
この写真を撮っていたのが橋姫で、それから俺たちを見つけて、カメラを仕舞って俺と直樹を尾行した――。
「――こんなもの、いくらでも加工ができるだろう」
「残念だな。ちゃんと動画もある。茶の間で鑑賞でもして家族だんらんといこうか?」
はっ! と紅葉は吐き捨てるように、鋭い声で善三を突き刺した。善三はそれでもしっかりと目を紅葉に向けて――否、睨みつけている。
そこに、凛とした鈴鹿の声が差し込まれた。
「解体業者の方が怪我をしてお金はいらないから拒否したというお話がありましたね。けれど――それは善三さん、あなたが解体を拒否したのでしょう。口止め料を渡し、適当な理由をつけてこの旧館を解体させまいとしていた――」
そこで俺は目をむいた。
「おい、それってどういう――」
「違和感がずっとあったんだよ。だから私が昨日の夜、あんたのオトモダチに頼んで調べてもらった。あんたのおかげで本当に割安だったよ」
俺の疑問に紅葉はさらっと答えた。あの夜、マサキは仕事中だと言っていた。てっきり風呂屋のキャッチだと思っていたけれど――紅葉の依頼を請けて動いていたということか。
「……まったく怪談屋なんておかしな連中の相手をすること自体、愚かだったね。私は潔白だ。なんの後ろ暗いことも、罪もない」
「それはご子息を前にしても言えますか」
なおも振る舞いを変えない善三に向かって鈴鹿が冷たい声で告げて――その後ろ手で、扉を開いた。開かずの間の、開かずの間だったものの、扉を。
「ひっ……」
「あ、ああ……」
充希と紗季から小さな悲鳴が上がる。俺の立つ場所からも見える。黒焦げのベッドに焼け落ちたカーテンの残骸、そしてそのベッドの下でうずくまる――真っ黒な塊。
全身の肌が炭化して、毛髪もなく、右目は焼けただれて皮膚にはひび割れが見て取れる。左目は重そうに開けられていて、しかし充血し、こちらを――善三を恨めしそうに睨みつけている。
「おど、おどう、おおおあん……あうけて」
焼かれた声で、それでもその炭化した細い枯れ枝のような腕を――善三へと伸ばして、ぽろぽろと表皮が剥がれる。鈴鹿は目を逸らすこともせず手のひらを彼に向けて、
「この方が三滝 彰浩さん。享年は十歳です。母親はあなたと不貞行為に及んだ三滝 順子さん――そして認知もされず、姓も母も違いますがあなた方とは血の半分がつながった弟ですよ」
鈴鹿の声はいつになく厳しい。直樹たちは苦虫をかみつぶしたような表情で、父親――善三を見た。
「――そん、な」
「死因は焼死です。二十年前の火災事故は、仕組まれたものではなかったのです。本当に事故でした。けれど、彼の母親は最期までここにいたそうですね。院内で覚えていた方がいらっしゃいましたよ。当時、順子さんはこう叫んでいた」
――助けて、善三さん。私たちの子供を。
「生きていたんですよ、彼は。だというのに――誰も彼を助けなかった。いいえ――助けることが出来なかったんです」
そうか。俺は、消防隊員が彰浩はすでに死んでいたから順子を優先したのだと、そう考えていた。けれど、そうじゃなかった。それが意味することは――。
「医療の現場での“最善”は日夜、変化し続けます。今では倫理的に是としないものでも、二十年前ならばその処置方法が是であった。その可能性は充分にあり得ます」
「……なにが、言いたいんですか」
震える声で言ったのは、充希だった。鈴鹿は涼やかで、それでいて滾る怒りを隠すこともなく、それに答える。
「三滝 彰浩さんは、善三さんと順子さんの息子である――これは事実です。そして、ふたりの不貞行為の末に産まれてきた子供、彰浩さんには精神的な疾患があった。それも、他者に危害を及ばせるものです。だから、あなた方のお祖父さまは、ある処置を行った」
「まさか……」
「そう――身体拘束です。身動きが取れないようにしたのは、お祖父さまです。そして扉に鍵をかけたのは、小野医師と、皆川看護師。今では医療過誤と見なされてもおかしくはありませんが、当時はその処置以外に方法がなかったのでしょう」
――死んでいたからではなかった。身動きが取れない患者であり、扉には鍵がかかっている。助け出すにも困難な状況下にあって、刻一刻と迫ってくる生命のリミット。過酷な選択。だから消防隊は――母親を連れ出すことしかできなかった。
「そこまで私のせいにするつもりかね」
「おあああん、ろごにいうの」
「当然でしょう。彼を見てください。焼かれてしまった、あなたのご子息を」
「ふ――ざけるな」
「あなたはそこで背徳感に憑りつかれた。だから、密会の場所をこの旧館にこだわっている。解体業者の方にお金を渡してまで手を引かせるほどの執着心から、それは明らかでしょう。本館から見えるリスクのほうが高いというのに――この場所で」
「――意味が、分からない」
「ならば代わりに教えましょう。あなたは二十年前――身体拘束で身動きも取れずに亡くなった彰浩さんの存在を知ってしまった。そのご遺体を見てしまった。動けずに、なすすべもなく亡くなった自分の子供を」
「……それが、どう繋がるのかね」
「この写真――女性は縛られています。手首とベッドを繋いで。あなたは快感を覚えたんです。身動きの取れない状態で、なすすべのない状態で、自分の子供を作る行為に。旧館を選んだのは、あなたのご子息が亡くなり、その衝撃を覚えた場所だからですよ」
「――ウソだろ」
震える声が俺から思わず口を突いて出た。自分の子供を失った場所で、自分の子供を作ろうとしていた。どうしたらそこまでねじれ、歪んでしまうんだ。
理解が――及ばない。
「あなたは――心の奥底で彰浩さんを失ったことを憂いている。けれどそれ以上に――」
――そのトラウマが、情欲を掻き立てているんです。
「だから、他の女性との行為をもって新しい命を授かろうとした。他でもない、あなたに傷をつけ、激情に駆られる――この開かずの間が見える場所で」
「……なんで他の女なんだよ」
俺はかすれた声で問いかけた。鈴鹿はあくまで平静な声で――
「彰浩さんが瑞貴さん以外の女性――順子さんとの子供だったからです」
――身勝手な背徳の先に授かる子供を、ずっと求めていたのです。
鈴鹿は憐憫の情をもって、彰浩を見ながらそう言うと、善三の目の色が変わった。つかつかと踏み出して鈴鹿の前に立つと、そのワンピースの襟をつかみ、顔を近づける。
「……だから、なんだと。私は、罪は犯していない」
低い声でそう言った。俺は咄嗟に左手でその手首を掴んで逆手にまわす。手が離れたとき右手でアイアンクローのように善三のひたいを掴んでから力を込めると「ぐっ」と小さな悲鳴が上がってその場に膝をついた。
「汚ぇ手で触ってんじゃねえよ」
「ルリ、落ち着きなさい」
「……クソが」
手を離してから胸元を踏みつけるように蹴れば、善三はせき込みながら床に手をついた。
「……つい、あ……い、あ……つ」
俺が手を払っているとぼそぼそと声が聞こえてきて、そちらに目をやる。不味い状況になってきている。
「熱いあつい熱いアツイ熱いあついぃぃぃッ!」
くすぶるような黒煙が、両手から出ている。
「反動か。思ったより遅かったな――」
紅葉が駆け寄り、一歩を大きく跳ねてから彼女の前に着地するとそのまま手に握ったネックレスを右腕に当てる。そのペンダントトップは、俺がもらったやつとはまた違う形をしていた。
「あつい熱いあついあああぁぁぁぁぁぁッ!」
甲高い絶叫。直樹たちもその場から離れ、うなだれている善三は視線を向けようともしなかった。紅葉は顔をしかめながら、
「橋姫! あんたのも貸せ!」
そう怒鳴り、橋姫は迅速な動きでネックレスを投げた。それを受け取り、黒煙が上がる両手首に巻き付けてようやく悲鳴が収まってきたころ、鈴鹿は彼女の前に立ち、両手を拝むように合わせて――その親指をクロスさせる。
「それでは瑞貴さん、次はあなたの咎をさらします」
◇◆
「――あなたは驚いたはずです。呪った方法で、かならず人が死ぬ。殺したいほどに憎んでいる相手がいるというのに、どうして最初にお祖父さまが、そして小野医師や皆川看護師が先に亡くなったのか、と」
凛とした声だった。瑞貴はうずくまり、肩で息をしている。その目は見開かれ、口からは唾液が垂れている。
それは俺も疑問だった。呪い――真っ先に死んでもおかしくない人間――善三がまだ生きていて、ほぼ関係のない人間が死んでいる。そのちぐはぐさが不気味だったのだ。
「……あなたの呪法は、間違っていませんでした。けれど、意図とは反して――予想だにしていない事態を引き起こしました」
――あなたの呪いと、それによって目を覚ました彰浩さんの意思が同調してしまったのです。
「彰浩を、呪いを、目覚めさせ、蘇らせた――」
俺はつぶやいていた。ようやく、紅葉の言っていた言葉の真意が分かった気がした。鈴鹿はちらりとこちらに視線を寄こし、もう一度、瑞樹に向き直った。
「そうです。そして、結果、呪いは強いほうへ向かった。彰浩さんは自分を閉じ込め、母と切り離したお祖父さまと、小野医師と皆川看護師を殺害した。あなたが本来、呪ったのは――善三さんと彰浩さんの母、順子さんだったはずです」
あの扉を封鎖していた木の板は、火災で彰浩が死んだあと、遺体が運ばれたあとで祖父が命じて小野、皆川が行ったのだと。祖父からすれば守るための身体拘束で命を奪ってしまった、忌まわしい部屋――そう考えたのかもしれない。
そこに、その部屋に、死してまだ苦しんでいる彰浩の霊魂が眠っているとも知らずに。そしてその魂は瑞貴の呪いによって――意図しないところで目を覚ましてしまった。二十年という時間を経てもなお、鎮まらない怒りをもって。
「だからこそ、彼は――呪うべき相手を、手順も踏まずに呪い殺した」
この世にはそれらの工程を超越する呪いだって存在する。そう言っていたのは、紅葉だったか。
「――わた、私は」
瑞貴はカチカチと歯がかみ合わなくなっている。震える両手を合わせて、この夏の熱帯夜の中で、ひとり殺意に凍えていた。
思えば――ジリジリと焦げるような熱さを感じて、まるで火の中にいるような感覚を、灼熱にその身をさらしているような恐怖感と、焦燥感を、感覚として、幻覚として、肌が焦げていくような熱を知覚していたのは。
旧館を見下ろしているときであり――院内で瑞貴のとなりにいたときだ。
――意識の同調、共鳴。
それは七夕事件で、俺の害意と真理の殺意が同調したようなものだったのだろう。否、それよりも強い感情だったに違いない。けれど、やはり聞いておかねばならないことがある。紅葉に諭されなんとなく理解しているだけでは、いやだった。
「……師長さんはこの男の不倫を知ってたんだろ。だったら、別居ないし離婚って手も取れたはずだ。この病院なら慰謝料も財産分与だって法外なくらい手に入っただろ。なのに、どうして」
どうして――もっと簡単な、あるいは確実な方法があるというのに、呪いなんていう、うさん臭いものに縋ったのか。そんなものを、頼ってしまったのか。どうしてもそれを口に出してほしかった。
「善三さんが背徳感に憑りつかれていたように、瑞貴さんもまた、家柄、血脈というものに憑りつかれていたのでしょう」
「血脈――」
「わた、私は、何度も、離婚を、申し出ました……けれど、うちの実家は、実父は、奥宮のお義父さまの後輩で、奥宮医院との結びつきも、深く、経営的にも厳しいところを、援助として、その、お金や善三さんの手を借りることも、多く……」
善三は外科医として瑞貴の実家である病院に行っていたと言った。
彼女の話を聞けば、義父と義母はこの小さな町のコミュニティ、その中で戦後から代々、脈々と受け継いで確立させた医者としての立場、体裁、世間体を気にしていた。
だからこそ奥宮家の名前に泥を塗るということで離婚や別居を許さなかった。そして離婚をすれば、彼女の実家が経営破綻することも匂わせていたようだ。
そしてその虚栄心の塊のようなスタンスは、彼女にとって余りある苦痛を強いた。
もちろん、そんな家柄であるから善三の不貞行為も見咎められた。当然だ。
けれど、結婚前より女癖の悪かった善三は瑞貴と籍を同じにしても変わることはなく、密会を続けた。中絶沙汰になったこともあったらしい。祖父はその度に慰謝料と口止め料を相手に支払っていたようだ。
そして味方であるはずの実家もまた、離婚をしたら勘当すると脅されていたようだ。そこにあるのは娘の幸せを願う親ではなく、見栄と虚飾、保身に満ちた――悪夢のような現実だった。
「でも、それで呪いをかけるなんて浅はかだろ」
「ルリちゃん、分かんねえかな。実家も奥宮家も味方ではなく、彼女を傀儡のように縛り付けていた。お互いの家が利を得るための政略結婚。片方は外科の設立とこの地域での立場をより確立させるため、片方は経済的援助を得るためにな」
「――なんて話だよ」
「だから平和で安泰な家族像のひとつとして、実家から彼女は差し出され、こっちで受け入れた。彼女の自我の世界なんて無視された挙げ句、心は蹂躙され続けたわけだ」
紅葉は眉間にしわを寄せて続ける。
「行き場を失って――帰る場所さえない。そして終わりも見えない針の山のような苦痛に耐え続けなければならない。それでも浅はかだと、あんたは思うのか」
俺は言葉を失う。赤の他人から見ても胸くそ悪い話に、当事者であればいかほどの苦しみと憎しみを抱くのか。察して余りあるほどの――屈辱。自我の世界は容易く壊され、蹂躙され、未来に希望を抱くことさえ許されない。
「……火事の件があってからは、私に見せつけるように、女性と、この、場所へ。もう、耐えられなくて」
震える瑞貴の肩を、充希が抱いた。充希もまた泣いていた。紗季も、声を殺して泣いていた。
「苦しくって、どうしたらいいか、分からなくなりました」
「――瑞貴さん、あなたもまた、精神的に摩耗して疾患を抱えていたのでしょう」
鈴鹿の言葉に、直樹は目を伏せた。
見ていれば――診ていれば。気付けるはずの病巣。直樹は肝心の母親のことが、見えていなかった。診えていなかったのだ。
後悔に押しつぶされそうなやつの表情に俺までやりきれなくなる。
瑞貴の自我の世界は崩壊していた。ぶち壊したのは、義父と旦那と実の親。そして家柄、血筋という名のもと身も心も縛り付けられた。それは――紛れもない、呪いだった。
だから彼女は――その呪いを、打ち破るために、敢えて同じように呪いを使った。それも概念的なものではなく、実効性のあるものを。
そこまで考えて、根深い、鈴鹿のその言葉の重みを知った。鈴鹿も紅葉も、経験しているから知っている。家柄、血脈、血筋――そういったものに縛られ続けた彼女たちだからこそ、知っているのだ。
「離婚も許されず、逃げることすら出来ず、精神を病んだとき――呪術を知った。そうだろ?」
紅葉の言葉に、力なく瑞貴はうなづいた。
「最初は……そうです。気休めのつもり……インターネットで、調べてみたら、色んな方法があって――」
「たとえ素人であっても、呪術が完成することがある。ましてこの舞台には彰浩がいる。呪術が発動するには――整いすぎている。けれど――」
――死して曰く、もとより彰浩はこの血筋を呪うつもりだったんだ。
紅葉の言葉に俺は顔をしかめてから、鈴鹿のほうへと視線を向ける。
「それじゃあ――瑞樹のかけた呪いは」
その言葉に、鈴鹿はかぶりを振った。
「失敗です。あの黒い靄を見たのでしょう? あれは、呪いにかかっている証拠です。けれど、最初に亡くなるはずだった善三さんも、順子さんも、生きています」
しかし――と鈴鹿は続ける。
「――彰浩さんの呪いは、成功してしまいました。それは彼自身を身体拘束して閉じ込めた、祖父である祐善さんをはじめ、小野さんと皆川さんを殺めること――」
「は、は、ははは、はははッ!」
その言葉に、よろよろと立ち上がって善三が高らかに笑った。壊れたのか、憔悴した表情で、目を血走らせて唾を飛ばして、
「当然だ! 私はなにも罪を犯していないのだから! 誰も! 誰も私を裁けない! 裁かれるべきは、瑞樹――お前だろう!」
「この野郎……!」
怒りが頂点に達し、殴り掛かろうとした瞬間。ドンッ! という音が響いたかと思えば後方から扉が吹き飛ばされ、俺はとっさに拳を引っ込めて近くにいた鈴鹿の肩に触れ、押し倒す。
炎が上がってきて、俺は振り向く。気付けば、彰浩の周囲には火の手が上がっている。これは――
「幻覚じゃない――橋姫ッ!」
紅葉が怒声を上げると、橋姫とともに開かずの間だった部屋へ入り込もうとした。だが、弾かれるように飛ばされ、床を滑り、壁に当たる。炎は猛り狂い、天井を、床を、壁を蛇のように這っていく。
煙が視界を狭め、熱が肌を焼く。息をしようとするが上手くいかない。吸い込めばせき込み、勢いよく噴き出した炎が窓を割り、頭がくらくらした。思考が上手くいかない。熱さとこの煙のせいか。
「瑞貴の呪いは、取り除いたはずだッ!」
「これは――呪いです。瑞樹さんのものじゃない。彰浩さんがもともと持っていたもの――」
橋姫の言葉に舌打ちをしてから、「逃げろッ!」と紅葉が叫ぶ。それを号令と取ったのか、充希は母である瑞貴を支えて、紗季は父である――もはや目が曇っている――善三を無理に立たせてからその場を後にし始める。
『あああああああああああッ!』
ガラガラの声で、焼かれたのどで彰浩は叫んだ。
「おい式神ッ! 鈴鹿を連れて逃げろ!」
またたく間に業火に包まれていく。少年を中心に。言葉なき声が、泣いているように聞こえた。
「鈴鹿!」
「――はい」
俺が鈴鹿の手を取って駆け出そうとした瞬間、そこにまだ立っている男を確認してから、目を見開く。
「なにしてんだッ! これは――本物だ。死ぬつもりか、直樹ッ!」
ごうごうと燃えていく旧館、渦巻く炎に包まれて退路が消えていく中にあっても、いつも通りの直樹だった。スーツ姿で、利発そうな目に、尖ったあご。しかしその表情は、どこか憂いを含んでいるように見えた。
「先に行ってくれるか」
炎がさらに大きくなり、蛇から龍へ変わったかのように大口を開けて建物を喰らいつくす中で、熱い煙がのどを焼く。炎が旧館を飲み込む音に紛れて遠くにサイレンの音が聞こえる。そんな状態でも毅然とした態度で、紅葉たちに言った。
「バカか、あんたは――死にたいのかッ!」
紅葉が怒鳴る。
「弟を守ってなにが悪いッ!」
直樹は負けずに怒鳴り返した。そこで気付く。俺がやつと話したことで、紅葉はもうひとり死人が出ると言っていた。
それは――直樹自身だ。
幽霊よりも科学。怪異よりも医学をモットーに生きてきた直樹は俺と話すことで、俺の自我の世界に入り込んだことで――その鉄壁だったはずの科学信奉に隙が出来たのだ。
幽霊の存在は、存在するか、存在しないかの二元論ではないのだと、気付かせてしまった。
「直樹――あんた、幽霊は、信じないんじゃなかったのかよ」
俺の言葉に、やつは笑った。初めて嘲笑でも苦笑でもなく、しっかりと精悍な顔つきで、笑ったのだ。
「どうだかな。だが、弟が泣いているんでね。兄としては――間違いを正し、慰めてやらなければならない」
そう言ったかと思えば、紅葉たちを横目に駆け出した。弾かれるはずの開かずの間、その中へ飛び込んでいく。
「バカが……ッ」
俺は鈴鹿を腕に抱きしめて、その場から逃げ出す。紅葉と橋姫もそれに続く。出入口から身を投げ出すように飛び出れば、すでに消防の赤いランプとやじ馬でごった返していた。
俺は二階を見る。がしゃん、という音とともに――直樹が落ちてきた。その両腕に、彰浩を抱えて。しかし見えているのは、俺たちだけだろう。
俺は駆け出して、両腕を目いっぱいに伸ばす。やつの身体を抱き留める。足元が滑って、互いに地べたに投げ出されるが、視線はすぐに上げた。
「――子供に、怪我を負わせるとはな」
「あんただって、幽霊のために無茶してんじゃねえよ」
「幽霊じゃない。弟、だからだ」
「……彰浩の姿を、視たのか」
「――さてね。そんな野暮なことなど、訊くだけ不毛だろう」
そう言って、直樹はゆっくりと意識を失った。取り残された彰浩はやつのそばに立ったまま、そんな直樹を見下ろしている。その目は、もう恨めしさはない。俺は、痛みをこらえて立ちあがり、
「……弟だってよ。良い兄ちゃんを持ったな」
笑ってみせると、彰浩は潰れた右目から涙を、つつ、とひと筋流して、
『あいあおお』
そう言って、その存在が希薄になっていき――やがて消えてしまった。俺はどっと疲れが出て、その場に両手をついてへたり込んでしまった。
「まったく、良い大人だよ、あんたは」
気を失っている直樹に嫌味をひとつ――いいや、それは紛れもなく、俺の本心だった。そして、俺もまどろむようにゆっくりと、意識を失った。




