第三話
3
真夏のアイスのように、甘い休日はすぐに溶けていった。俺は池袋から山手線に乗って新宿はモア三番街へと向かう。今日も酷暑。とんでもない暑さは比例して熱中症患者を増やし、サイレンが鳴る。
いつか地方がまだ涼しい、なんて聞いたことがある。
自然の風は新宿のビルに裂かれて、一日の電車の乗降者数、約三百万人の熱気にあてられて夏の様相はまるで地獄絵図。太陽に焼かれて燃えてしまってもおかしくない。それなら山も川も海もある、遮蔽物の少ない地方が涼しいに決まっている。
注意喚起されてなお運ばれていく。たった百円の水分と塩分を摂らない代わりに三割の高い点滴を与えられる。下手すれば命まで失うのだ。そんなギャンブルのテーブルにつくくらいなら、飽和してるコンビニで水と塩飴くらいは買っておいたほうがいいだろう。
俺はうだる暑さに辟易しながら、ミネラルウォーターを空にする。本日三本目。怪談屋は十二時から開店し、二十時に閉店するから、十一時半くらいにつけば店の前で煙草も吸える。
そもそも池袋から五分程度の大都会だ。寝坊して遅刻するなんてもってのほか。この仕事についてから、俺は無遅刻無欠席の皆勤賞だ。
クロスヴィジョン前、信号待ちをしているとサイレンを鳴らしながら救急車が横切っていった。
そのあとにはホストクラブの宣伝車に、タクシー。ハニー・ワーク! と可愛らしいフォントで書かれた求人の宣伝車。そしてまた、がなりたてるように車両優先を訴える救急車。どうなってるんだろうな、この街は。
俺はミネラルウォーターを飲み干し、あごから滴る汗を手の甲で拭う。それからストーン・アイランドのキャップを目深にかぶる。じりじりとうなじが焦がされる。周りのギャルやリーマンも口々に同じ言葉を吐く。二種類の同じ言葉。
『暑い』と『死ぬ』
今まさに救急車が通り過ぎていったあとでよく言えるもんだ。しかしまあ、これだけの混雑でも俺のアンテナというのは水分補給の甲斐あって原宿のときとは違い、きちんと感度を取り戻したようだった。
薄着になったギャルや清楚系の女の子を眺めている。汗ばんだうなじから華奢な肩に細い二の腕、へそ出しファッション、動くたびに連動して揺れる胸元、ミニスカートやショートパンツから伸びる太すぎず細すぎずのふともも。サンダルのつま先はネイル・アート。
十九のガキには良い刺激だ。しかし、横目でちらちら見るのは俺の中でご法度だ。そういう姑息な真似は好きじゃないから、見るときはちゃんと見る。ガン見ってやつである。
コソコソ見るくらいなら、開き直ってオープンに行こう、なんて馬鹿げたことを考える。
「あの人、なんかこっち見てるし。恐くね?」
「うわ、ガラ悪そう。ヤバくない?」
したらまあ、二人組のギャルにそんなことを聞こえるように言われた。そりゃそうだ。彼女たちは好きなファッションを楽しんでるだけなんだから。
そんな彼女たちからすれば、俺なんて単純に無遠慮で不躾な視線でしかないわけだ。開き直ったところで土下座して謝ることはあっても、薄着をするやつが悪い! なんてバカ丸出しの反論なんてもってのほかだ。けど、ひとつだけ言わせていただきたい。
俺だって傷つくんだぜ。自業自得だけれど。
◇◆
目のオアシスを堪能しつつ、心に軽い傷を負った俺はクロスヴィジョンを右、紀伊国屋書店手前のモア三番街に入った。二番街や四番街ほどの広さや人数もなく、路地といっても過言ではない。
新宿では珍しいくらいにひと気のない通り。ゲームセンターと百均を越え、中央通りに出る手前の雑居ビル。そこに立て看板で『怪談屋』とある。黒地に赤いフォント。
怪談の売買、承ります。創作歓迎! セールス文句にしては意味が分からないその店が俺のバイト先である。もちろん、この季節が繁忙期とはいうけれど、八月に入ってから来た客は片手で足りる。それでも七月よりは増えているんだから、やはりどこかで需要はあるのだろう。
そしてこの雑居ビルの二階に怪談屋はあるのだが、八月の二週目あたりから一階の改装工事が行われている。ちょうど妖精事件のあとくらいから着手しているが、そもそも一階はなんの店が入っていたのかも思い出せない。
隣接するビルの一階にはラーメン屋。なのに自分が働いてるビルの一階がどんな店だったか思い出せないなんて不思議な話だ。
取り壊されてなくなってから思い出そうとしても、記憶の中からまったく出てこない。そんな亡霊みたいな店。俺にとってはそんな感じだった。
俺はひとり分ほどの幅しかない階段を上がって二階までたどりつく。エレベーターなんてものはない。ダークブラウンの木製の扉に金のノッカー。そいつを叩いてから返事を待って、俺は店内へと入り込む。
店内は淡いオレンジのスタンドライトのみが光源となっていて、窓は暗幕と天井まである本棚でぎっしりと詰まっている。出入口からまっすぐに執務机があり、その後ろには大きな年代物の柱時計。三角の屋根に文字盤にくすんだ金色の振り子、両側にはまた本棚。
向かい合って木製のローテーブルに赤い四人掛けのソファー。執務机の右側に唯一ぽっかりと空いた空間があり、そこにはドアがはめ込まれている。そのドアの向こうには給湯室だ。
そこを除けば、三方を本棚で隙間なく埋め込まれていて、その中には分厚いハードカバーの書籍やら、ファイルやらが指一本分の隙間さえ怪しいくらいに整然と並んでいる。
向かってその大きな執務机の右横に、L字を描くようにもうひとつ、マックのパソコンの乗ったデスクと椅子がある。鈴鹿が行き来できるくらいのスペースを空けて。そのデスクが俺の席になっている。
そして――美の女神がその執務机に鎮座している。
誰あろう、その美女こそがこの怪談屋の店主であり、陰陽師の血統を引き継ぐ別名、咎ざらしの朱猫――月詠 鈴鹿である。
真ん中分けで紺色を含んだ黒い髪は肩甲骨まで伸ばし、くしを通せばどこにも引っかからずに落ちそうで、たれ目は星空か、宝石をちりばめたような双眸。
鼻梁は高く、ふんわりとした唇に、着ている白のブラウスよりも眩しい肌は職人でさえ作り得ない崇高な白磁か、前人未到の地に降った雪みたいにきめ細かい。
「おはようございます、ルリ」
「おはよう」
その美に愛された女は優しく微笑んで俺を迎えてくれる。俺は鈴鹿のそんな美貌と、彼女がいるだけで戦場から銃声と怒号が消え去るほどの澄んだ声、おっとりしていて優しく、安堵するくらいに柔らかい性格。
それに反して咎をさらす際の鋭い一面に、すっかり心を奪われてしまっているのだ。
片思いで初恋。告白なんて大それたことなんて出来やしない。そんな日が来たらもう俺のインディペンデンス・デイだ。なにが言いたいかっていうと、ガラの悪いチンピラみたいな俺だけど、恋愛ごとに関してはヘタレなくらいにうぶなのだ。
「そういや一階、工事してるけどなにが入るんだ」
冷たいほうじ茶に口をつけながら、デスクに座って訊いてみると、
「喫茶店が出来るそうですよ。さきほどオーナーさんが挨拶にいらっしゃってました。来月の中旬にはオープン予定だそうです」
「喫茶店ねえ」
「ところで、ルリは日本茶とコーヒー、どちらが好きですか」
お嬢さまは静かにそう訊いてきたので、その意図も分からないまま、
「コーヒーも飲むし、お茶も飲むよ」
「……答えになっていませんね」
答えると鈴鹿は少しむっつりとして、息をついた。どうやらお嬢さまの求めている答えと違ったようだ。しかし、コーヒーと日本茶はカテゴリとしては別物だから仕方ないだろうに。
「それより、昨日はどうだった。休みの日とか、なにしてるんだ」
「――昨日はここにいました。新しく書籍を購入したので」
「……家で読めばいいのに」
「ここが落ち着くんです。それより、ルリはゆっくり休めましたか」
「真希と原宿でクレープ食って、色々店を見てたよ。安奈を連れて行きたいってさ」
「リリさん――いいえ、真希さんは本当に強い女性ですね。ところで」
鈴鹿はこちらに視線をよこす。キラキラと星を散りばめたような双眸。
「――私は原宿には行ったことがありません。クレープというものも食べたことがありません」
「クレープ食ったことないのか」
俺はとうてい二十三歳とは思えない言葉に呆れる。機械音痴であることは短い付き合いで分かっていたが、ことごとく時代から取り残されたようなお嬢さまである。
「美味しいのですか」
「あ、ああ。しかしあれだな、陰陽師の家系ってのは、そういった俗世っていうのか? そういうものに疎いのか」
「別に家系は関係ありませんよ。ただ、行く機会がなかっただけです。なので――」
鈴鹿がなにかを言いかけたとき、三回ノッカーが鳴らされる。鈴鹿は珍しくムッとした表情をしたかと思えば、すぐさまそれを消してから「どうぞ」と、変わらず清流のような声で迎え入れた。
「いらっしゃいませ、怪談屋へようこそ」
◇◆
今回の客は奥宮 直樹、三十八歳と奥宮 充希、三十六歳。兄妹だという。直樹はとがったあごに、プライドの高さを思わせる切れ長の目、頬はこけて、黒の短髪。全体的にスマートな男だった。
充希はシュシュで黒髪を後ろで結い、少し怯えているような双眸、兄よりは少し肉付きがいいけれど、太っているというわけでもない。
スマートで健康的な体格だ。兄妹で顔は似ているが性格は正反対――そんな印象を受けた。ともにスーツを着て、赤いソファーに腰を下ろす。
「奥宮さまはお医者さんなのですね」
「ええ、なにか名刺に不備でも?」
「いいえ。お忙しいところご足労いただきまして、ありがとうございます。それでお医者さまということですが、お兄さまのほうは」
「定型句は結構。名刺にも書いていると思いますが、私は内科医です。妹――充希は外科をやっています」
鈴鹿はひと通り挨拶を済ませたあと、名刺を執務机の上に並べて目を細めた。直樹は癖なのか顎をあげて、鈴鹿を見ている。見下すような態度と言動。俺とは話が合わないタイプ。
しかしこちらも――鈴鹿もそのお嬢さま然とした優雅な口調と振る舞いは崩さない。
「奥宮さまはご兄妹で同じ病院でお勤めしてらっしゃるのですね」
名刺には『ブルーム総合病院』とある。俺はマックを起動して早速その検索ワードを打ち込んでいると、
「ええ。もともと、ブルーム総合病院は奥宮医院という名前で、奥宮家が戦後から代々やってきた歴史ある病院ですから。我々がそこに従事するのは当然のことでしょう」
その言葉に、俺は鈴鹿を見た。彼女も、歴史ある陰陽師の家で育ってきたといった。だが彼女は祈祷師だの、占い師だのにはならず売れるかどうかも分からない怪談屋を営んでいる。
“咎ざらし”がどういう位置にあるのかは分からないけれど――鈴鹿はどう反応するのか――その様子を見たが、彼女はさらりとそれを躱した。
「なるほど。それでは奥宮医院から改名されたということですね」
「父の代で名前を変えました。今までは精神科がメインでしたが、今ではそれに加え、内科と外科があります。今後は婦人科や産科などを組み込み、今は周産期医療とNICUの申請を出しています」
充希はそう言って、冷たいほうじ茶に口をつけた。
「NICUとはなんでしょう?」
鈴鹿の質問に直樹は鼻で嗤った。
「新生児特定集中治療室の略称です。周産期医療が導入されて以来、ここ近年で多くなりました。未成熟な新生児、あるいは疾患のある新生児をケアする科です。今は認可を受けるために産科医と新生児科医と、ナースの頭数を揃えている最中でしてね――」
「この少子化時代に儲かるのか?」
俺の問いかけには、充希が答えた。
「ええと、儲かるかどうかではありません。少子化になってしばらく、産科は少なくなっているんです。それに伴って、産科医も減少しています。だからこそ、私たちが幼い命の助け舟になりたいと」
「……なるほどな」
俺が息をつく、鈴鹿は一度、万年筆を置いた。
「ご教授いただき、ありがとうございます。医療方面に関して、私は明るくない部分がありまして。ご説明をしていただけて助かります」
鈴鹿は柔らかく微笑むが、直樹は彼女を睨みつけるように見ている。ここに来る客とはまた違う反応。その神経質で高いプライドは、美しいものを曇らせるらしい。なんて、負け惜しみである。
俺はタイピングして出た結果を見て、驚く。
「……埼玉?」
画面上に出たブルーム総合病院の所在地は埼玉県 春日部市となっている。またえらく遠い場所から――とそちらを見ると、直樹と目が合った。
「なにか?」
「いや。わざわざ遠いところから、怪談を売りに来るやつも珍しいと思ってな」
相変わらず、敬語が使えない男。毎度のことながら、相手が医者だろうがホームレスだろうが、仲間だろうが、妖精だろうが、ヤクザだろうが総理大臣だろうが、俺はこのスタイルを変えるつもりはない。悪い癖だ。分かってて直さないんだから、なおさらたちが悪い。
「君はいくつだ」
「十九だけど」
「……年上に、いや――客に対する態度がなっていないな」
「悪いけど、俺は相手によって態度を変えるのが嫌いでね。そういう扱いがされたいなら、治験の営業マンとでも話していればいい。きっちり百八十度くらい頭を下げてくれるだろ」
「正しい角度は三十度から四十五度だ。君はたかだかアルバイトだろう。医療現場なんてドラマくらいでしか知らないのだろうが、フィクションを真に受けて想像でモノを語るんじゃない。まったく――教育がなっていませんね。店主」
直樹は俺を睨みつけてくるので、睨み返す。見事な逆ギレである。自覚がある分、情けない限りだけれど。
「申し訳ございません。私の不徳といたすところです」
「それで? あんたらが売りにきたのは、自分のその学歴か、経歴や知識か、もしくは繁盛してる老舗の病院自慢か? だったら悪いけど、他を当たってくれ。うちは怪談屋なんだ。怪談を売るか、買うかだ。内臓をアレコレいじくるより簡単な話だろ」
「ルリ、少し落ち着きなさい」
「――うす」
ふう、と鈴鹿は息をつく。俺はパソコンから目を離すことなく、検索結果をスクロールしていく。
「良し悪しあれこの子は思ったことをすぐに口にするものですから、お客さまに不快な思いをさせてしまったことは本当に申し訳ないと――」
「大丈夫ですよ」
鈴鹿が言い終わる前に、充希が微笑む。とは言っても、どこか強張っているように見えた。「お前は黙っていろ」と直樹が低い声でたしなめるが、充希はかぶりを振る。
「ただ――久乃木さん、勘違いだけはしないでください。私たちは命に真摯に向き合い、患者さまのケアを最優先で行うことを当たり前とし、その命が逃げてしまわないように、しっかりと繋ぎとめる。私たちの誇りとはすなわち、患者さまの命そのものなのです」
まるで鈴鹿のようなことを言う。俺はふたりに向き合って、軽く頭を下げた。職業や印象だけで人を決めつけていた部分は否めない。さすがに言いすぎた。
「……悪かったよ」
直樹は眉間にしわを寄せていたが、充希は優しく笑った。
「彼は素直な子ですね。鈴鹿さん」
「申し訳ございません。けれどルリは、至らない部分は多いですがその実、真っ直ぐな子なのでご理解いただけて、私としても嬉しい限りです」
俺は子供かよ。口の中でつぶやいてパソコンの画面をスクロールしていく。流し読みで、内容なんて入ってこないけれど、バツが悪くて仕事をしているふりをすることに決めた。
「それでは――奥宮さまのお話を伺いましょうか」
鈴鹿はそういうと直樹、充希に目配せをする。それが本題の始まりを意味していた。




