第十話
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八月の酷暑は、早々に過去最高気温を塗り替えていった。俺は汗だくになりながら、ミネラルウォーターをすぐに空にする。心なしか、信号の向こうに陽炎がたって見える。東口前の、角にクロスヴィジョンがある横断歩道だった。
あれから、安奈は三日ほど経って目を覚ました。傷は深くはないが、しばらくはリハビリが必要だという。
内臓まで届いてはいなかったものの、神経に傷がいったらしい。腹部の真ん中を逸れていたのが幸いした。
今日も見舞いに行って「地元には帰らないのか」と訊いてみたが、「絶対やだ」と笑っていた。たくましいお姫さまである。
退院すれば喫茶店か、資格でも取ろうかな、なんてことを言っている。
コンセプト・カフェも一応ラインナップに入っているようだが、「働きたいけどさ、あのお店で働いてたってなると厳しいかもね」そう言って目を伏せていた。
フェアリーズ・ホームはあのあと、すぐに閉店してしまった。まずオーナーが精神を病んでしまったこと。ニュースで報じられて、新聞にも載った。マスメディアから管理体制や人間関係を詰め寄られて辟易し、今じゃ心療内科に通っている、とリリから聞いた。
リリはしばらく家にこもりっきりだったが、今日、俺と安奈の病室に行って、他愛ない雑談をしていたら、少しだけ笑顔を取り戻していた。とりあえずラインを交換して、遊ぶ約束を取り付けておいた。
精神的に苦しいとき、必要なものは頑張れやしっかりしろ、なんて言葉じゃない。心を許せる相手と、目いっぱい遊んで疲れることだ。
俺は心理士じゃないけれど、そうやってゆっくり癒していけばいいと、そう思う。
ユナはあのあと、現行犯で逮捕された。俺は目の前で手錠をはめられるのを初めて見た。鑑識がプレゼントボックスに入っていた果物ナイフの指紋を採取した結果、ユナのもので間違いないらしい。
警視庁捜査一課の主任で不良警官。高遠 隼吾は忌々しそうにそう言っていた。
やつは取り調べでかなり苦労したらしい。なにせ、世界が違うのだから。話しがかみ合わないと嘆いていた。
しかしいかんせん口の軽い警官である。まあ、俺にとってはありがたいけれど。
もちろん、俺たちもその場に居合わせたということで一応、取り調べは受けているのだけど、俺たちだって何から話せばいいか分からない状態だった。
その上でユナの破滅してしまった自我の世界の話をされれば、頭も痛くなるというものだ。
そう――咎ざらしがもたらすのは、破滅か、破綻か、破壊。それだけしかないのだ。
七夕事件のとき、二つの家庭を破綻させ、ひとりの男を破滅させたように。
ただ、世間がいうようにアニメが発端となり犯行に及んだわけじゃない。むしろ、その逆――安奈の好きなアニメ、その設定を利用しただけだと俺は思う。
その設定を自我の世界で構築、組み込むことで、自らの彼女に対する愛情、そしてその行動を正当化させようとした。俺の目にはあの夜、そういう風に映っていた。
唯一、理論立てて話せたのは鈴鹿だったらしい。
理路整然とした美しいお嬢さまの草葉を濡らす朝露のように澄んだなめらかな饒舌は、まるでクラシック・ミュージックのように聴こえたのではないだろうか。
きっと狭い取調室がシェーンブルン宮殿のコンサートホールにでもなったことだろう。
信号が青に変わった。
俺はクロスヴィジョンを右に折れて、モア三番街へと向かう。暑い。街行く女性陣の肌色だけが目のオアシスだけど、のどの渇きだけはちっとも潤うことはない。
潤うのは、俺の素直な下心だけ。けど、目で追うだけで相手を追うことはしない。相手にも、相手の世界がある。
そこに俺みたいな不純物が入り込む隙は無いのだ。
◇◆
「お加減のほうはどうですか」
怪談屋に入るなり、俺はどっかりと自分のデスクに座る。
鈴鹿は冷たいほうじ茶を用意してくれた。俺は左腕を刺され、右腕を切りつけられている。
とはいえ、右腕は皮を切られた程度だけど、左腕はそうもいかなかった。そこまで深い傷ではないものの、しばらくは動かせないそうだ。
安奈の病室に通っていたのは、自分も同じ病院でリハビリをしていたからだ。
相変わらず美しい彼女は少し心配そうに、目を伏せる。その仕草にすら、気品を感じるのだから神様ってやつはどうも平等というものを非常に嫌っているらしい。
「別に支障はないな。肩を上げられないくらいで、通常業務には差し支えない」
「――本当に、申し訳」
「やめろよ、咎ざらし。これでまた俺は恩人か? またゲストに逆戻りとかごめんだぜ」
「ルリ」
下げかけた頭を戻して、告げようとした言葉を飲み込んだようだった。
「でもまあ、一件落着ってことでいいいじゃないか。たしかに怪我人は出たし、死人も出てる。けど、最後は――安奈が――お姫さまが、食い止めたんだ。しかもあのお姫さまがまだ諦めていないのに、あんたや俺が悲嘆してどうすんだよ」
そう言うと、鈴鹿は、ふ、と短く息をつく。どうやらそれがクセみたいだ。新しい発見。発見ついでに気になっていることを訊いてみることにした。
「そういや、鈴鹿」
「どうかされましたか」
「このネックレス、なんなんだ」
「そのネックレスは護符です。邪なものから守ってくれるお守りです。そこに刻まれているのは神文字といいます。本来なら紙媒体なのですが、紅葉はそれをネックレスに変え、自らの力の一部をその中に入れていたようですね」
「――あいつは最初から分かっていたということか」
その言葉に鈴鹿はかぶりを振る。
「いいえ。ただ彼女はすべてを疑っていたのです。おそらく話を聞いた段階から、すべての可能性を考えていた。それは理解し把握していたわけではなく、可能性の中から“最悪のケース”を回避するために、あなたにそれを渡したのでしょう」
まあ、紅葉の力では霊的なものに限ってしまうので、結果、あなたに傷を負わせてしまいましたが――と鈴鹿は憂うように目を伏せる。
俺はそんな表情を見たくなかったから、続けて問いかける。
「――あと、もうひとつ聞いていいか」
俺は鈴鹿を見る。透き通るほどに美麗な女は視線を上げ、小首をかしげて、言葉を促した。
「あんたさ、咎ざらしのとき、こう、拝むように両手を合わせるだろ」
ジェスチャーで見せようとするが、左腕が上手く動かせず不格好になってしまった。しかしどうにか伝わったようで、「こうですか」と不思議そうな表情で両手を合わせている。
「そうそう。そのとき、親指をこう、バッテンみたいに、クロスさせてるだろ。あれってなにか意味あるのか」
これはもうジェスチャーは諦めた。鈴鹿は、
「あなたはなにも知らずに――なにも気付かずに、あんなことを言っていたんですか」
と、目を丸くした。
「あんなこと?」
「ええ。私が陰陽師で、あなたが式神だと」
たしかに言った覚えはある。けれど、その話とそのポーズというか、パフォーマンスに繋がるのだろうか。そんなことを言うと、
「私の家系は――陰陽師の血脈です。この指はポーズやパフォーマンスではなく、印と呼ばれていて、いわば咎をさらす際の型のひとつですよ」
俺は唖然としてしまって言葉が出てこなかった。
「もしかして、本当に知らないで言っていたのですか」
「……ああ。まったく分かってなかった」
俺の素直な感想に、しばらくの間が空いて、俺が呆けていると、鈴鹿は小さく肩を揺らして折った人差し指を口許に当ててクスクスと笑った。
「なんだよ……知るわけないだろ。言われてないんだから」
「素直な式神さんです。これからも私のパートナーとして、ちゃんとお役に立ってくださいね」
目を瞠るほどに、曇天に差し込む光のように、冬の澄みきった空のように、空から見る虹のように、プールの底から覗く陽光のように――神秘的で、無垢で、優雅で、筆舌尽くしがたい美しさを持ったその微笑に、俺の心と思考はしばらく停止した。
そしてそんなときに限って、余計な邪魔が入るというものだ。ノッカーが三回鳴らされる。後ろの柱時計がぼうん、と十三時を告げるように鳴いた。「どうぞ」と鈴鹿が答える。
「いらっしゃいませ、怪談屋へようこそ」
――草葉を滑る朝露のように澄んだ声が、店内に、俺の鼓膜の中に優しく響いた。
(了)




