第六話
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オレンジ色の店内に、美のかたまりのような女が鎮座している。いつもの微笑みはなく、少し疲れているような――それでも皮肉なことに、より一層の美しさを引き立てているようにも見える――そんな表情で。
「遅くに申し訳ありません」
俺と安奈は真っ赤なソファーに腰かける。お茶を出そうと席を立つ鈴鹿を手で制して、
「誰が死んだ」
俺はそう言った。鈴鹿は驚いたように目を見開いて、そのまますとん、と執務机に落ちた。
俺はこの短い時間であらゆる可能性を探った。もちろん根拠も論拠もまるでない、ただの当てずっぽうだ。けれど鈴鹿の反応を見る限り、当たらずも遠からず、といったところだろうか。
「……どうして」
「紅葉からこってりと絞られて、ここに来るまでに考えた。それも、一番最悪のケースだ。もし当たっていれば、信じたくもないし、そうであってほしくないこと――それを口にしただけだ」
「紅葉に――言われましたか」
「ってことは、あんたもだな」
そう言って肩を落とす。
「彼女には、久しぶりにあんなに叱られてしまいました」
と、鈴鹿は肩を落としている。今にもダイヤモンドか真珠のような涙をこぼしそうに、目を伏せている。
「私も、先入観から見落としがありました。私が佐久間さまの身辺を探って、ルリさんが眞城さまの身辺を警護し、動向を紅葉が別件の合間に見る――この計画の裏をかかれるとは、思いませんでした。いいえ――この言い方は相応しくありませんね。正しくは――」
――私たちが絡んだ時点で、すでに後手に回ってしまっていたのです――
鈴鹿は透明な声でそう言った。諦観のような色がそこにはあった。なるほど、三日経って紅葉が俺に連絡をよこしたのは、別件の合間――おそらく録画でもしていたのだろう――それを確認したからか。
「詳しく聞かせてくれないか」
「先月、佐久間さまのご遺体が見つかりました。刺殺で失血死だったと。新聞を遡って知りました。犯人も凶器も見つかっていません。私は、そこに気付くことも、いいえ――疑うことさえしなかったのです」
――相手は生きた人間、そう思い込んだこの失態、落ち度、すべては私の責任です。
鈴鹿はその美しい顔をゆがめた。俺は背筋が凍るような思いがした。
「私では、この案件を解決まで結び付けられません。だから、申し訳ありません、眞城さま。もし眞城さまが継続をお望みでしたら今後この案件は――紅葉に託します。その資金は私が出します。彼女なら……きっと」
消え入りそうな、鈴鹿の声。初めて挫折を味わったかのような、そんなお嬢さまを睨みつけて俺は立ちあがる。安奈は不安そうに俺と鈴鹿を見比べていた。
「まだだろ」
「――え?」
俺の言葉に、鈴鹿は微かに顔を上げる。
「おい、咎ざらし。あんたは、ここで終わらせるのか。俺は、まるで事件の全貌なんかわかっちゃいない。当てずっぽうでモノを語って知ったような口を利く、バカで、ろくでなしで、人間としてはこれ以上ないクズだ。でも、あんたは違うだろ」
「ルリさん――そんなことはありません。その過剰な卑屈は死んだ方に対する――」
以前も似たことを言われた。だからそれを遮った。事件の全貌を知る前に、解決の前に、やらなければならない。そればかりは、俺がやらなければならない。
鈴鹿は俺を買いかぶっている。今回の案件でそれが分かった。その理由も――要は俺のせいでもあるのだ。だから、こんな事態になっている。だから、彼女が――彼女の中にある自我の世界が――俺に対する誤った過信を抱いてしまっている。
だからこそ、ここで正して、ここから――始めなければならない。
俺が紅葉に言われたのは、妥当な評価だ。俺には才能もなければ、霊魂に対する知識も、鈴鹿や紅葉のように強い霊感なんて持っちゃいない。だからそれをこれから育てていけばいいと、紅葉は言ったのだ。
しかし鈴鹿はそれに気付いていない。“彼女の世界の俺”は自分と対等であると考えている。だから――正さなければいけないのだ。
そうでなければ、今後、怪談屋に俺がいたとしても、また同じような過ちを犯さないとも限らない。いいや――今の鈴鹿なら、俺なら、間違いなく二の轍を踏むことになるだろう。
だから、俺が言わなければならない。俺を本当の意味で、認識してもらうために。俺が彼女に間違いを犯させた――根拠のない過信を抱かせてしまった――発端に、遡ってでも。
「いいんだよ、それで。俺はあんたの認識を正しているに過ぎない。俺はあんたや、紅葉のような、すげえ霊感なんか持ってないんだ。メガネをかけてもぼやけて、ほとんどまったく見えないような、そんなレベルの霊感しか持ってない。敬語も使わないし態度も悪いうえ、ガラの悪いどうしようもないクズ――チンピラのなり損ないだ」
「……それ以上、自身を貶めると私は許しませんよ」
「うるせえな。ちゃんと最後まで聞け。あんたは、俺のなにを知ってやがる。なにが空みたいな心だ、なんでも受け入れる? バカ言うなよ。俺はストーカー野郎の変態的な主張まで受け入れるほどでかい器もねえし、空みたいな心だってんなら、そいつは排気ガスと副流煙と工場から吐き出す煙で曇りまくった汚ぇ空だ」
鈴鹿の険しい視線を無視して俺は続ける。
「なんならそんな長ったらしくて。こんなくどい比喩すら必要ない。俺を表すにはたったひと言で済む。俺はただの、“どうしようもないゴミ野郎”なんだよ」
「ルリさんッ! 本気で怒りますよッ!」
鈴鹿が眉間にしわを寄せて執務机を叩いて立ちあがる。俺はそれに対し怒鳴り返した。
「怒れよッ! あんたが俺を高く買いかぶってんのは――あんたの後ろめたさの表れだろうがッ!」
「――ッ」
「俺を持ち上げんな。俺はあんたや、紅葉ほどの力なんかない。いつまでゲスト扱いするんだ。俺の霊感をちゃんと把握できねえなら、あんたは俺以下になり下がる。あんたは俺を信頼しているんじゃない――俺を、ただ勝手に恩人だと決めつけているだけだろ。あのとき三百万を受け取らなかったから、無意識に俺を無駄に持ち上げてる。それは――」
――俺じゃなく、あんたが過剰に卑屈になってるなによりの証拠だろうがッ!
鈴鹿は黙り込んだ。俺の怒鳴り声に安奈も目を見開いて、表情を硬くしていた。俺は肩で息をしながら、初めてこのお嬢さまに、宝石に向けて、初めて小便を引っかけるような行為をした。
「……謝らねえぞ」
鈴鹿はしばらく目を丸くしていたが、やがて咳ばらいをすると、
「謝罪は結構です。私も――謝罪はしません。あなたの言う通り、たしかに食客扱いをしていた事実は認めます。それに、あなたの霊感の低さも今回の案件で把握できました。けれど、謝罪はしません。あなたが、それを望まないことくらい分かっています」
鈴鹿は顔を伏せ、腰を下ろす。
「まさか、部下にここまで噛みつかれるなど、想像もしていませんでしたが――おかげで、私も覚悟を決めることができました。以後、あなたを食客扱いは致しません。この案件でもあなたに不備があれば、遠慮なく指摘、命令をさせていただきます。覚悟はよろしいですか――いいえ、聞くまでもないことでしたね」
ついで上げたその表情は、微笑を浮かべその目には妖しい光を宿している。それは七夕事件の際、犯行現場で犯人に無慈悲な行いをしようとする紅葉の暴走を止めようとしたときの目によく似ている。
――やっと、俺を認めたな。
「眞城さま、内輪のお見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした。それでは――改めてここから始めます。ルリ、あなたにしかできない仕事を、私にしかできない役割を」
俺は自然と口の端が上がる。このお嬢さまは、本来の姿を取り戻している。しかし以前のようにこちらの顔色を窺うような、柔らかな口調ではない。まるで紅葉に対する言葉と同様だ。
それでいい。
「月詠 鈴鹿として命じます。あなたは、その唯一の長所である持ち前の推察力を使い、この後手に回った状態から――起死回生の光を見つけなさい。そして舞台を整えなさい。そこからは私の――咎ざらしのお役目です」
◇◆
「ルリくん、マジ恐かった」
「悪いな。恐い思いさせて」
アパートに戻ってから、安奈が言う。俺は苦笑して、もう大丈夫だ、と繰り返した。そして――その手には何十枚と積まれた手紙の一枚。こいつが――すべてのカギになる。だが、それだけじゃない。俺は安奈の話の中で見落としていた部分もあるのだ。
「安奈、無言電話とプレゼントボックスがあるって言ってたな。残ってるか」
「無言電話は三回目以降、録音して一応残ってるんだけど。プレゼントボックスは――どこやったかな」
「無くしたのか」
「どうだろ。そもそもあんまり意識してなかったし、開けるつもりもなかったから」
「どうして開けなかったんだ」
安奈は即答した。
「うーん。中になにが入ってるか分かんないし」
「爆弾とかだったらヤバいとか考えてたのか」
「爆弾とは思わないけどさ、なんか怖くない?」
安奈はベッドに横になった。そのまま微睡むように、言う。
「どうしてこうなっちゃたんだろう」
「――それは」
俺は明確に答えられなかった。ストーカーに遭う、それはいつだって突然で、心構えなんて出来やしない。
ましてや知っているやつがストーカーに変化するなんて、想像することも、予想することもないだろう。だから、理不尽なんだ。
安奈はただ仕事を楽しんでいるだけで、しかしそれを曲解する相手がいる。
さらにややこしいことに、そこに勘違いが起きて、相手も自分と同じ思いを抱いていると考える。好きな相手と付き合っている。想い合っている。そう思い込んでしまう。
その状態にあっても、脳は正常な状態だ。だから本人は気付かないし、その勘違いを正すやつは、いない。自我の世界――いつか鈴鹿がいっていた言葉が脳裏をよぎる。
鈴鹿が俺の認識を誤っていたのと同じだ。本人が後ろめたさを自覚していなかっただけで、しかし俺がそれを否定しなければ――あの美女は俺を過信したまま、より事案はひどいほうへと進んでいってしまう。悪化の一途だ。
だが鈴鹿とは違い、ストーカーは拒絶すれば――なにをされるか、わかったもんじゃない。つまるところ、ストーカーの厄介なところはそこにある。
本人は善意であり、愛情をもって嫌がらせをしているなんて考えない。しかし被害を受けているやつからすれば迷惑千万、しかも相手の考えてることが分からないという恐怖に縛られる。
しかも今回は――。
俺は手紙を読みながら、安奈から録音データを借りた。有料版の通話録音アプリだった。俺のスマホと安奈のスマホは同じで、ボイスメモはあっても通話録音アプリが標準装備されていないのだ。
無言電話はやっぱり――当たり前だが無言である。俺は手紙を読みながら、イヤホン越しに無言を聞く。ノイズが少し混じっている。けれど相手はなにも発することはない。
「――これ、誰かに聞かせてもいいか」
「うーん? うん、いいよ」
安奈はもう半分眠っていた。自分でやったことだが、あんなことがあった後で、平然としている。
やはりこの妖精さんの肝っ玉はでかいらしい。俺は電気を消して、スタンドライトの細い光の元、ダイナブックに録音データを移す。ようやく持ってきていた意味が出来た。
そもそもパソコンまで持ち込んでいて、俺は今まで何をしていたのだ――そう考えれば、情けなさがこみ上げてくる。
鈴鹿には偉そうなことを言ったが、俺だって、言われてしかるべきなのだ。責められるべきは、怠惰な俺だ。
安奈の寝息が聞こえてくる。時刻は午前一時。やつは起きているだろうか。仕事中かもしれないが、一応、スマホを取り出してから電話をかけてみることにした。
『なんだか久しぶりな感じだね』
やつは――マサキは三コールで出た。
「ああ、四日か、五日ぶりってところだな。今は仕事中か」
『んーん。休憩中。まあ、今日はかなり引っ張り込めたし、オーナーはそろそろ帰ってもいいって言ってくれてるけど』
相変わらず自由な職場だ。風呂屋のキャッチとしては、この時間からじゃないのか、と訊くと、
『言ったでしょ。前半でかなり引っ張ったって。俺にかかればどの時間だって黒字にしかならない。ここから引っ張ってもいいけど、オーナーは欲がないね』
「姫が足りなくなるからだろ」
『あっはは。そうかも。姫たちの体力も考えてあげなきゃね。それで――こんな時間に俺に電話してきたってことは、なにかあったね』
察しの良いキャッチのバイト兼、情報屋、兼ハッカーはそう言って笑った。俺はその通りだと言って、
「音声データを送りたい。解析できるか」
『詳しくは聞かない。でも、可能だよ』
「今からデータをパソコンに送る。ノイズが入った無言電話だ。報酬は――」
『今度ご飯奢ってくれたらそれでいいよ』
「お前はまたそうやって金を受け取らない」
『仲間だからね。現ナマで受け取るのは嫌なんだ』
それが本音か――と俺が笑うと、だってこんなこと言うのは、照れくさいでしょ、とマサキも笑った。
『んじゃ、オーナーの言葉に甘えるとするよ。今から帰ってデータを確認する。データの中身にもよるけど、一時間くらいかな』
「ああ、あと――」
マサキの言葉に、俺は不意に思いついて言葉を重ねていた。焦っていたのかもしれない。
「ケンゴとシュウヘイは公園にいるか」
このふたりは――コンセプト・カフェのヘビーユーザー。その道のプロだ。とは言っても、客側だけれど。
『いると思う。寝てなきゃいいけど』
「ありがとな」
俺は礼を告げてから、今度はケンゴの番号をタップした。後ろでは安奈がすやすやと寝息を立てていたので、キッチンのほうへ向かって換気扇の下でポールモールに火をつける。
しばらくコール音が続いて、ようやく出た。寝起きのような声だった。
『おーう、ルリ。おはよ』
「ああ、おはよう。また飲んでたのか」
『んー。今ヒロトに起こされた』
「西口公園にいるのか」
『ああ。いつものことじゃん』
ケンゴは笑う。俺はさっさと本題に入った。
「フェアリーズ・ホームというメイドカフェを知ってるか」
即答だった。
『ああ、隠れ家ね。ルリはお目が高いな。俺らについて回ってるうちに目覚めたのか。こりゃ連れまわした甲斐があったってもんだ』
依頼だよ、とは言えない。
「隠れ家ってなんだ」
『んあ? フェアリーズ・ホームの別名じゃん。こいつは新規客には分からない。これを知ってるかどうかで常連と新規の区別がつくってわけ。まあ、うちらみたいな輩は意外と多いんだわ』
そんな世界があるのか。俺は少し――いや、かなり驚いた。そこで、隠れ家と呼ばれる隠喩の由来を聞いてみる。
『大手は、まあ客も多いし、多ければこっちにキャストが回ってこないこともある。コンカフェで楽しむのは雰囲気や飯だけじゃない。話しをすることっしょ。だから回ってこないと無駄にチャージし続けることになる。隠れ家は小さくて歴史も浅い、だから話が弾むし、コアなファンがついてる。新規に知られることも少ないってんで隠れ家』
なるほどな――と息をつく。たしかにあの店にはあまり客入りがない。今日いた団体客が唯一、といったところか。ケンゴは熱が入ったのか、饒舌になりつつある。
『うちらもけっこう通ったよ。隠れ家の一番人気はやっぱアイちゃんだな。で、ついでリリちゃん、ユナちゃん。この三人がゴッド・スリーで、基本的に夜はこの三人か、三人のうちのひとり、ふたり、誰かが絶対に入ってる。だから俺らはSNSで給仕ポストを確認してから行ってた』
「給仕ポストってなんだ」
『たとえば明日の夜は誰が店にいるかって、一週間のスケジュールだよ。アイちゃんは大体いるけど、リリちゃん、ユナちゃんは少ない月がある。で、基本的にスケジュール更新は本人たちがやってるわけ。んで、フォローしとけば、いちいちサイトに飛ばなくて済む』
「……なるほどな」
SNSの発達に伴って、仕事のやり方も変わるということか。
『今月は神だ。ほとんどゴッド・スリーが揃ってる。こんな月は珍しいから、興味あるなら行ってみな』
そのアイちゃんとやらの自宅にいると言ったらこいつはどんな反応するだろうか。
そんな興味がわいたが、黙っていた。守秘義務。それにしても、こいつはやっぱり、かなり詳しい。もう少し突っ込んでみることにした。
「その隠れ家だけど、変な客とかいないのか。なんていうか、どっちかといえばマイナーなんだろ。コアなファンしかいないってことは」
『そこはマイナーじゃなくて、隠れた名店って言えよ。変な客――か。先月だったかな。おい、シュウヘイ、あれ、いつだっけ』
ケンゴは隣りにいるらしいシュウヘイに声をかけてなにかぶつぶつと言葉を交わしていた。しばらくして、
『ああ、やっぱ先月だ。なんつーか、客が暴れたんだよ。店の外で。チェキ撮って帰ろうとしたやつに殴り掛かろうとして、止められて――結局、出禁を喰らったバカ。ああいう勘違いした客のせいで、今までも少なかった客足もさらに減った。潰れたらあいつのせいだな』
――俺らもアレ以来、行きづらくなったよ。そう言った。
「つまり、その客を取り押さえたのはお前らだな」
『お、正解。つっても、正確にはシュウヘイとオーナーと、リーマンだけどな。俺はシュウヘイと違って喧嘩が弱いし、気も小さい。ただのオタクだしさ。それはお前だって知ってるだろ』
先月――佐久間 桐生か。安奈の話だとたしかやつは先月、暴力未遂で出禁を喰らっている。そして、死んだのも先月だ。ケンゴたちはその場に居合わせていたのか。口ぶりからしても、かなりの頻度で通っていたらしい。
「他にもいるのか、そんな客」
『いるわけねえじゃん。隠れ家にはコアなファンしかいない。つまり、色んなコンカフェに足を運んでから、あそこへ行きつくんだ。つまりちゃんとルールを知ってるし、それを順守するマナーを持ってる。あの変な男は多分、たまたま入ってきた新規から常連になったタイプだよ』
「そいつは今まではどんな感じだった」
『前々からやたらとアイちゃんにご執心で、神聖視してた感じ。たとえば、五月にあったアイちゃん生誕祭とかじゃバカみたいに金を使ってた。たしかに推しの生誕祭じゃ特別メニューを頼んだり、グッズを買うくらいはマナーだけどな』
「グッズってなにがあるんだ」
『推しキャストのブロマイドとか、フォトアルバム、ハンドタオル、缶バッジとかもあるな。中にはこういったものの押し売りがひどい店もあるけど、隠れ家はそういったものをあまりやらないんだ』
「その、特別メニューってのは」
『特別メニューはそのままの意味。アイちゃんの特製ハンバーグとか、アイちゃんの好きな食べ物やアイス、ケーキをその日限定のメニューにするんだよ。あいつは生誕祭のとき、アイちゃんの全種類のグッズと、チャージしまくって特別メニューを食いまくってた。俺らは途中で帰ってたけど』
「……入れ込んでたわけか」
『けどまあ、ただ金を落とせばいいだけじゃない。そりゃ店からしたら金を使ってくれればありがたいだろうけど、金をいくら使ったからってそいつの女になるわけじゃない』
「線引きが出来ていなかった――」
『そういうこと。俺らはアイちゃんと話したり、ユナちゃんと笑い合ったり、リリちゃんに話を聞いてもらったりして、飯を食いながら、その世界を満喫する。それがコンカフェの楽しみ方ってわけ』
なるほどな、と俺は息をつく。三日目でようやくメイドカフェの楽しみ方のルールを教えられた気がする。そこで、俺はひとつ確認することがある。
「で――先月その男が暴れたとき、シュウヘイは外に出て、お前は店の中にいたんだな」
『うん。だって恐いじゃん。外で狂ったように叫んでんだぜ。俺はシュウヘイやヒロトみたいに肝っ玉がでかくないんだよ。店内で縮こまってるのが関の山だって』
――そこのお姫さまの放つ蜜は――人間を狂わせる。
紅葉の言葉が、脳裏をよぎる。
「そのとき、店内で変わったところがなかったか」
『変わったこと――って、狂った男が叫んでるんだぜ。充分、変わってるだろ』
呆れたようにケンゴが言った。
「違う。それは店の外の話だろ。店内で、だ。なんでもいい。思い出してくれ。なにかが違っていたんじゃないか。そいつが暴れる前と、暴れたあとで」
俺の中の推測が、鈴鹿のお墨付きの――そればかりは彼女は否定しなかったのだ――推察力とやらが、俺の脳内で警鐘を鳴らしてる。
それは、今読んでいるラブレターに記されたものと、一致する可能性がある。そしてその可能性が正しければ――。
――もうひとり、死人が出る。
ケンゴは必死にそのときのことを思い出そうとして、ううんだとか、ええと、なんて唸っている。
『そういや、気の弱そうなガキがブルブル震えてて――って、そりゃ俺も一緒だったけど――ううん、なんだったかな――なんかこう、あれ? って思ったん――なんだっけ』
ざざざ、とノイズが走った。
「頼む。その悪い頭をフル回転してくれ」
『ひっで――なあ。えーと、客は――たしかあの変な男といかにも初めて――って感じの新規、リーマンと、気の弱そ――ガキと俺とシュウ――イ。まあ、新規以外はい――ものメンバーって感じだ――し、お互いに話はしな――った。悲鳴が聞こ――てリーマンとシュウヘイは飛びだし――って』
だんだんとノイズがひどくなっていく。俺はスマホを握る手に力が入っていた。
『リーマンは帰ったっぽいし――オーナーはめっちゃ謝――てくるし、俺ら――帰ろ――かって話――してて――そこでな――だっけな。あれ? いないなって』
いない。いなくなっている。ざざざ、とノイズが鼓膜を揺らす。俺はなんとか聞き取ろうとスマホを耳に押し付ける。
「誰がだ」
『やけに食い――くな。多分、恐くなっ――んだと思――けど――男の俺らだって、そりゃあビビってた――だから、恐――なって奥に引っ込んだ――かなって思――んだよ。でも、しばらく――ても戻ってこな――から、ビビっ――帰った――じゃね? って、帰り――シュウヘイと話し――んだけどさ』
ざざ。というノイズ。
「だから、誰がだよ」
『――ちゃ――だよ』
そのとき、ざざざ! と、大きくノイズが走った。
――来ているのか、佐久間。
「サンキューな。今度、マサキと一緒に焼き肉にでも行こう」
『そこ――コン――カフ――にし――く――よ』
そこでぷつりと通話が切れた。
俺はフィルターまで吸いきったポールモールを灰皿でねじり消してから部屋に戻る。俺には見えない。けれど、いるのか。この部屋に? いや――ベランダに。
そう、このアパートは三階だ。決してそんなに低い位置にこの部屋はない。最初は梯子を上って覗き見ていたのだ、そう思い込んでいた。しかし――今は、違った事実が見える。
少なくとも、先月から今までは――やつは違った方法でここを見ている。
しかし解せない。もう死んでいるのなら、入り込むことだって出来るはずだ。それをしないのは――なぜだ。
疑問は重なっていく。まるでこの歪んだラブレターのように。それでも、徐々にはっきりとしてきたことがある。
ケンゴが話している最中の、そのノイズの中でも、俺は聞いたのだ。そいつの名前を。聞き間違えることはない。部屋に戻って、もう一度、手紙を広げて読み始める。俺が、この部屋にきて一番最初に、何気なく手に取ったものを。




