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咎ざらしの朱猫 ――怪談屋・月詠 鈴鹿の推理譚――  作者: 永久島 群青


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第四話



 4



 仕事を終えてから、埼京線快速で池袋に戻った。自宅に戻るまえに西口公園に向かう。それが最近のルーティンワークになりつつある。


 バス停前にギター片手に歌うたいの男。パイプベンチには寄り添うカップルたち。隅の喫煙所には飲み屋帰りのサラリーマンと出勤前の夜の蝶、でかいカバンを持った旅行客。


 いつも通りの風景というのは、どこか安心感がある。たかだか電車で新宿まで五分。それでもいつもの面々を、見飽きた景色を視界に映すだけでどこかホッとするのだから不思議なものである。


「よう、ルリ」


 俺が中心にいる輪っかに近づいていくと、ヒロトに声をかけられた。黒のタンクトップから伸びる、焼けて絞られた腕には梵字のタトゥー。いつものグレイ・アッシュのツーブロックをワックスで立てた彫り師で二十四歳のメンバー最年長。


 いつものメンバーは六人。だいたいが飲んでいて、何人かは地べたに寝ていることが多いのだが、今日はそのうち三人の姿がなかった。


「お疲れ。ケンゴとシュウヘイとカツヤは」


 ケンゴとシュウヘイは酒に弱くて、基本的にさっさと酔いつぶれて寝ている。カツヤと同じ二十一歳で気が合うのか普段は三人でよく一緒にいることが多い。


 さらにケンゴとシュウヘイはメイドカフェのヘビーユーザーでもあるから、ある程度、情報を得られると思ったのだが。


「なんかイベント行ってるっぽいよ」


 ユカリがチューハイを片手にそう言った。メンバー内での紅一点で二十歳。ウェーブしたマッドアッシュの髪を肩まで伸ばし、バスケットタンクにスキニーデニム。首筋にはハートのタトゥーを入れていて、外見からじゃ想像できないほど性格は誠実で一途。ただし男運はない。


「イベント?」


「アニメイベント。昼の部と夜の部、チケットが当たったから三人で今ごろパシフィコ横浜じゃないかな」


 そう言ったのはマサキだった。口の上手い風呂屋のキャッチで情報を操る魔術師である。


 女の子と入れる夢。しかし客から欲望と金を吐き出させて湯冷めどころか底冷えするような店のだ。


 その店のオーナーからすればこの男の情報網は金塊にも劣らない財産らしい。


 マサキも下手なホストよりも端正な顔で、眉にかかる程度のナチュラルクリーン・マッシュ。


 今日は白のプリントTに七分丈の黒スキニーにポストマン・シューズ。なにを着せてもモデル並みで、この男には天も二物を与えてしまったらしい。


 まるで鈴鹿のように。


 けれどマサキの過去を思えば、それくらいの融通は許されてしかるべきだとも思う。


 誰だって過去になにかひとつやふたつ暗い部分を抱えているものだが、その暗さの濃淡には違いがある。マサキはその暗闇があまりにも深いものだ。


「でも、カツヤも行くなんて珍しいな」


 俺は腰を下ろして、マサキからチューハイを受け取る。よくつるむ三人ではあるが、カツヤはアニメに興味がないと思っていたのだけれど、違ったのかもしれない。


「ふたりとも二枚ずつ当たったみたいでチケット余るからって。タダって聞いたらついてっちゃったよ」


「いつもの悪い癖だ」


 マサキが苦笑して、ヒロトが苦い顔になる。なるほど、あいつらしいなとため息をつく。


 騒がしく盛り上がってる場所が好きで、夏フェスに行くために金を稼いでるようなやつなのだ。目的はアーティストじゃないあたりが不純ではあるけれど。


「それで、ルリ。新しい仕事どうなの」


 ユカリは酔いが回っているのか、ろれつが少しあやしい。漏れたライトの明かりで頬が上気している。


 ほろ酔いな彼女に向けて、というよりも俺としてはここに来た目的を思い出す。いつも通りのルーティンワーク、けれど今日はそれに付随するものがあった


「その仕事で、明日からしばらくこっちに顔を出せない」


「えー。ルリ、どっか行くの」


「詳しくは訊くな。守秘義務だ」


「やべえ仕事なのか」


 ヒロトの問いかけに、


「そういうわけじゃないけど」


「危ねえなら、頼れよ。お前になんかあったら、俺はそいつを殺しかねない」


 ヒロトの目は本気だった。本当に責任感のかたまりのような男。ありがたい限りで、頼れる兄貴分。


 だから俺は笑って、大丈夫だと伝えた。


 しばらくは詳細を訊きたい、という表情をしていたが、「守秘義務なら、君の仕事にもあるでしょ」とマサキが言ってくれて、渋々でもヒロトは納得してくれたようだった。


 彫り師だって、怪談屋だって、人間相手の仕事である限り守秘義務はある。風呂屋の情報屋は、そいつを切り売りするのが生業なのだろうけど、間違っても自分の店の情報は売らない。なんとも律儀なハッカーである。


「期間くらいは言えるのかな」


 ユカリはこくりこくりと船を漕いでいる中、彼女が倒れないように肩に手をやってマサキが言う。


「分からない。短ければ一週間程度だろうけど」


「なるほどね。まあ、俺たちはいつだってこの街にいるから困ったら連絡しなよ」


「ありがとな。カツヤたちにもよろしく」


 俺はチューハイを一気に飲み干してから、立ち上がる。三人が手を挙げて、その手の平に軽く拳を当てる。いつもの挨拶を交わしてから、へいわ通りにあるアパートへと戻る。


 仲間というものは良い。頼れるからじゃなく、こうやって駆け引きや打算もなく心配をしてくれる。


 金でなく信頼を預けられる相手がいるということはこの上なく幸せなことだと、拝金主義者どもに言ってやりたい気分だった。



 ◇◆



 翌日、二十時。秋葉原は頻繁に来ることはないが、電気街口を降りると駅前でスラップベースとボイスパーカッションで演奏している二人組を見つけた。囲って眺めている外国人も多く、それぞれにアニメイトやメロンブックスの袋を下げている。


 この街は今も全世界に発信できるほどサブカルチャーのメッカである。


 俺も少しアニメイトに寄ってから――と考えたが、そもそも金がない。この場所で店に入るというのは無謀である。趣味というやつは際限なく財布の中身を食い散らす。


 アニメ、ゲーム、パソコン機器、鈴鹿が見ればなんというのだろうか。不意にそんなことを考えながら演奏している一風変わったバンドマンを過ぎて、目的地へと向かう。


 秋葉原のメイドカフェは神田下と中央通りが激戦区らしい。JR電気街口を抜けてから通りを歩いてみるだけで、メイドがいたるところに立っている。


 この酷暑をものともしない――まあ、保冷材や水分は取っているだろうが――それでもフリフリな衣装でビラを配っている。


 俺がはじめて知ったのは、メイドカフェは店員がメイド服を着ている店だと一概にはいえないということだ。


 まるでおとぎの世界から出てきたようなクラシカル系から、可愛らしい王道の萌え系、他にもクノイチやセーラー服、ビジュアル系ロックバンドのようなメイクをしたものと、十把一絡げに出来ないほどに、そのジャンルは多岐に渡っている。


 とりあえず目的地が決まっていたので、サルエルの股下が開いて黒いビキニようなものが覗く、父親が見たら心配すること請け合いのクノイチからのビラは受け取らずに神田下にあるフェアリーズ・ホームへと足を運ぶ。


 大通りから一本入った細い道にあるネカフェ、その隣りのビルの一階だった。客足はまばらだった。


「おかえりなさいませ! ご主人さま!」


 入ると、猫耳のカチューシャをかけたメイドさんが元気よくお出迎えをしていただけた。なんだかむず痒い感覚になりながら会釈をした。


「えーと、名前は」


「私は猫の妖精、ユナ! よろしくにゃ! ご主人さまは」


「ルリ」


「ルリご主人さま! 今日もお疲れ様ですにゃ!」


 促されるままU字のカウンターに座り、説明を受ける。


 彼女たちは妖精で、触れられると動物になってしまい、ご主人さまとお話が出来なくなるらしい。だから猫耳なのか。シビアだな、妖精の世界もなんてことを考える。


「ゆっくり楽しく、くつろいでいってくれると嬉しいですにゃ!」


 そう言って八重歯を見せる。黒髪をツインテールにした彼女は活発そうな印象で、まだあどけない少女のようだ。


 メイド服が良く似合っている。少し丸みのある鼻に、無邪気な笑みを浮かべる唇。


 なりきるタイプで無垢な少女。まず俺の周りにはいないキャラである。


「さてさて! ご主人さまも、ご帰宅されたんですから人間のフリはやめましょう!」


「……え」


 さっきよろしくと言っていたのに、ご帰宅――いいや、そんなところに違和感を持っても仕方ない。俺に手渡されたのは、犬の耳のカチューシャだった。犬。犬である。


「……これをつけるのか」


「はい! 人間界のお仕事、お疲れさまですにゃ!」


「お疲れさん……」


 ツッコミを入れたら負けだ。ここは恥じるべき場所ではない。憩いを求め、楽しむ場所だ。俺はそう言い聞かせていた。


 俺はなぜか勝手にチョイスされた(選べないのかもしれない)犬耳のカチューシャをストーン・アイランドの上につけて店内を見る。


 白を基調にした内装は広くなく、ボックス席がふたつ、U字カウンターは六席、窓際には四人掛けのテーブル席。壁はしつこくないレベルでパステルカラーのストライプが入っていて、清潔感のある場所だった。


 店員は、ユナを含めて三人。


 もうひとりは茶髪をウェーブさせた牛耳のメイドはリリ、少し大人っぽい感じで、客のいるテーブルに行ってはクスクスと盛り上がっている。


 背は低いが、胸元がよく実っている(牛の耳というのはこれが原因かもしれないなんて言ったら世の女性に怒られるだろうか)。


 聞こえてくる話を観察するに、聞き上手で喋り上手。コミュニケーション能力に長けているのだろう。見た目は鼻が高く、目元に泣きぼくろ。妙に色っぽいメイドさん。


 そして三人目が――お姫さまのような外見をした、小さなうさ耳をつけた安奈だった。ネームプレートには、アイと書かれている。こちらを窺うようにしていたが、どうにも客との会話で離れられないらしい。


 それぞれが本名でないのは一目瞭然。夜の蝶と同じく個人情報を保護するためのものだろう。名前ひとつで調べられる情報化社会。便利なものというのは、反面、危うさをはらんでいるものだ。


 とりあえず気にしつつ、気にされつつ、それでも本来の仕事をしていてくれと、内心で俺がつぶやいてメニューを開くとユナが説明をしてくれる。


 その間、妙な輩がいないかを視線だけで探ってみるが、リリと盛り上がっているガキが三人と、また別の気弱そうなガキがひとりにリーマン、あとは女性客を安奈が相手している。


 比率的に客も六が男、四が女という割合だが、満席ではない。当然だろう。この店の先にある表通りには大手でネットレビューも高評価を得ている有名店ぞろいなのだから。


 それでもこうやって身近でゆっくりと話せる店というのは魅力的なのかもしれない。


 俺は格式ばったドレスコードの高級なレストランより、安い屋台やのれん居酒屋の方が好きなのだ。ワイワイと知らない客と盛り上がるほうが気兼ねなく楽しいものだ。



◇◆



 とりあえず鈴鹿の言いつけ通りに客を装って、ユナがイチオシの『フェアリー・セット』をオーダーする。内容は三種類のパスタかオムライス、五種類のケーキを選択出来て、ドリンクとチェキ一枚。


 合計三千円プラスチャージ料一時間につきに六百円と、ライブも指名できるらしく、それはさらに千円の追加。


 ライブも含めれば合計四千六百円にプラス税。この街の金の動きは面白い。キャバより安くて、無認可デリより安全。なにより健全である。


 もちろん下心がないといえばウソになるが、この空間にいる限り、そんな下心よりも単純に話すことが楽しくなってくる。話題が合えばなおさらである。


 しかしそこは人によるかもしれない。キャバやホストのほうが盛り上がれる人間もいるし、十人十色だ。ただ俺はどちらかといえばこっちのほうが心地良く感じる。


 佐久間という男もきっとこのふんわりとした空間にいる妖精のお姫さまに心を奪われたのだろう。


 そうしてご主人さまは妖精に恋をした。それだけなら千葉のテーマパークのアニメーション映画になってもおかしくはないロマンチシズムだ。


 しかし佐久間は間違えた。やり方を。とはいえ、俺だって女を口説く技量なんて持ってないけれど。


 よく恋は落ちるものだと言う。無理やり落とそうとした人間は、躱されて勝手に落ちて溺れるだけだ。札束を恋の海にまき散らして。


「ルリご主人さま、お待たせいたしました~」


 ユナがオムライスとドリンクを持ってきてくれる。「どんな絵がいいかにゃ?」と訊かれて、俺は少し驚いた。


「絵を描くのか。オムライスに」


 てっきりよくある名前をケチャップで書くだけかと思っていたが、この店ではイラストまで描いてくれるらしい。


「じゃあ、ウサギは描ける?」


「あ! アイちゃん推しにゃんですね!」


 ユナはパッと目を輝かせる。なるほど、描く動物で好みの妖精さんが分かるらしい。メイドカフェの占い師。


 しかし、これはチャンスだ。あくまで客としてだけれど――情報を得るきっかけを奇しくも手に入れた。


「そうなんだよ。アイちゃん目当て。ネットで紹介されてて、可愛かったから。ひとめ惚れってやつかな」


「えー、私は? ご主人さま、ひどいよぉ」


「悪いね。こんなナリしてるわりに一途なんだよ、俺。そういえば、そのアイちゃんはホームページに大きく写真が載ってたけど、人気なのか?」


 その言葉ににんまりとユナは笑う。コースターを敷いてオレンジジュースを置く。


「そりゃもう。ご主人さまたちもだけど、私たち妖精の中にもアイちゃんのファンがいるくらいだし、リリちゃんみたいに、アイちゃんに憧れてお給仕を始める子もいるんだよ~」


 あのコミュニケーション能力の高い妖精は安奈のファンだったのか。なんとなく大人っぽいイメージだったから、安奈より先輩なのかと思っていた。


 それにしてもユナは段々、敬語が抜けてきた。入店二十分、そろそろ慣れてきたのかもしれないが、ちゃんとキャラを保っている。プロ根性ってやつだろうか。俺も見習うべきだな、なんて考える。


 しかしメイドカフェでは、一概にはいえないかもしれないが――少なくともこの店に限っては敬語でなくても良いみたいだ。


 むしろフランクに、友人のように、メイドが、妖精が話しかけてくれる。趣味の話で盛り上がれる――そこで、鈴鹿の言葉を思い出した。


――それが、ルリさんの魅力なんですから。それに、無理に敬語を使おうとするとき、ルリさんの表情は硬くなります。それでは、お客さまは安心してお話ができません――


 なるほど。フラットに、友人のように話を訊く。そうすれば相手はたとえそれが創作でも実話でも、安心して話すことが出来ると、そういうことか。


 金髪ピアスにタトゥーという外見で社会不適合者、ろくでなし、貧乏人と三拍子そろったやつに向けて気軽に話せる人間なんて、仲間内以外にはいないと思っていたが。


「そんなに人気なのか。じゃあ、迷惑な客も出てきそうなもんだ。困ったりしないか」


「そんなことないよぉ。ご主人さまたちはみんな紳士にゃよ~。ルリご主人さまだって、優しいもん」


「そりゃどうも」


 危ない。訊きすぎれば警戒心を持たれる。今日はまだ一日目、やつがどこで出てくるかは分からない以上、俺自身がアレコレ訊きまわれば、安奈の仕事に支障をきたす可能性がある。


 そうなれば本末転倒だ。鈴鹿の話によれば調査の件を知っているのは安奈とオーナーだけらしい。


 おそらくストーカー、佐久間の件くらいは知っているだろうが(暴力沙汰になりかけたうえ出禁になるくらいなのだから)、それに対して調査をしていることは勘付かれるとマズいだろう。


 ましてや警察でも探偵でもない、怪談屋という、一般人からすれば(もちろん妖精も例外なくだ)意味の分からない仕事についている輩である。


 ならばなおさらと、そう考えて普通の客のように笑ってケチャップで描かれたウサギの絵と、ルリご主人さまという文字を見てから、


「ウサギ、上手いな。写真は撮ってもいいのか?」


「もちろんっ! ただ、妖精さんたちはダメにゃの。写真を撮られちゃうと私たちは消えちゃうからね!」


 スタッフ――いや、妖精はチェキ以外での写真は不可。徹底してる。チェキ単品一枚で七百円。彼女たちは自身の、それぞれの魅力を磨いた結果である。


 それでも安いくらいだ。女性の社会進出がどうとか、難しいことは分からないけれど、仕事で一番必要なものなら俺にも分かる。


 どんな仕事であれ、ツラさや悩み、苦しみさえ楽しめる心、気持ち。それを持って仕事をする人間が一番良いのだろう。


 職業に貴賤なんてない。そこに男女の差などを考えている時点で無粋の極みだ。男が万能なんて、俺には思えない。


 女にしか出来ないこと、男にしか出来ないこと、それはたしかにあるのだろうけど、得意分野を分け合って、助け合ってそれぞれに合った仕事ができるならそれが一番だ。


 綺麗ごと、理想論と呼ばれてもいい。


 突き詰めて考えていけば、それこそが本質のような気がするのだ。



 ◇◆



「あの、お待たせしました」


 結局、俺は店内で安奈と話すことが出来なかった。ほとんどユナかリリがカウンターにやって来たところで世間話に花を咲かせる程度だった。


 そこで分かったのは、牛耳をつけたリリは安奈に憧れて店に入ってきたことくらいである。


 見ていた印象と同じで聞き上手で話し上手。ユナのフランクさとは違い、丁寧な対応だったが塩対応だったわけではない。


 むしろ逆で、俺の他愛ない話を熱心に聞いてくれて、それに対して臨機応変に笑いを交えて答えてくれて、上品に笑う。それぞれが違った魅力を持っているように感じた。


 俺は店の裏口に立って、起立型の灰皿にポールモールを落とす。


「すみません、お話できなくって……」


「いや、それはいいんだけど」


 言いかけたところで、スーツ姿の小柄な男が出てきた。歳は三十代後半くらいだろうか。笑みを浮かべて「お話は聞いております」と胸ポケットから名刺を差し出す。この仕事を始めてから、一枚目。人生で通算三枚目だった。


『フェアリーズ・ホーム 代表 初村 健太(はつむら けんた)


 あとはメールアドレスと090から始まる携帯番号。


 俺は両手でそれを受け取ると、尻ポケットから本革造りの名刺入れを取り出す。これはバイトとして怪談屋に勤めることになった際、入社祝いとして鈴鹿からプレゼントしてもらったものだ。


「ああ、どうも」


『怪談屋 調査員 久乃木 瑠璃(くのぎ るり)


 携帯番号とメールアドレス、怪談屋の住所が明記されている。人生初の俺専用の名刺を両手で渡し、頭を下げる。


 なんとなくこの名刺を使うのは嫌だった。こんなろくでなしでも、名刺を渡すときだけはやたらと平身低頭になるからだ。


「眞城くんをよろしくお願いします」


「ああ。これからしばらく通うけど、俺がいない間になにかあればメールか、コールしてくれ」


 だが意地でも敬語を使わない悪い癖。あくまで敬語を抜いていいと鈴鹿がいったのは怪談屋の店内だけだと理解はしているけれど、相手によって態度を変えるのはやっぱり俺自身が気に入らない。ネカフェを辞めてからより強くなったエゴイズムだ。


「じゃあ、眞城くん。明日もよろしくね」


 そう言ってやたら脂ぎった小柄なオーナーはハンカチでひたいを拭いながらぺこりと頭を下げて、「は、はい。よろしくです!」と安奈が返す。


 そこから路地を抜けるまではつかず離れず、駅の構内に入って改札を抜けてから山手線に乗り込んだ。


 隣りに立つと小さな身体から発する桃の香り。メイド服ではなく、淡いピンクの半袖のワンピースに、紺色のパンプス。茶色い髪はサイドポニーで結っている。時間が来て妖精がお姫さまに戻る。なんとも不思議な感覚だった。


「なあ」


「はい」


 俺はドア付近に腰を押し付けて腕を組み、つり革につかまっている安奈に声をかけた。


「今日、客の中に佐久間はいたか」


 出禁を喰らっていると聞いているが、念のため。


「いえ、いませんでした」


「メイドカフェってあんまり入ったことないんだけど、すごいな」


 話を変えて、ストーン・アイランドのキャップのひさしから横目で安奈を見る。


 結局、支払いはカードだった。


 あのお嬢さまはバイトとはいえ、赤の他人に平気な顔をしてクレジットカードを渡してきた。いつか金のトラブルに巻き込まれるかもしれないぞ、と忠告はしたが「ルリさんは大丈夫です」と奇妙な回答をいただいた。


 付き合いの短い俺のどこにそんな信頼性があるというのだろうか。むしろ、一番警戒されてしかるべき人間性であると自覚しているのに。


「えと、あの、楽しいですよね。リリちゃんが、かっこいいね、って言ってましたし、ユナちゃんもルリさんみたいなご主人さまは初めてです、って。あのあの、それに――私もルリさん、かっこいいなって思います」


「そりゃ、親に感謝しないとな。いや、性格だけは直せそうにないから先に謝っといた方がいいのか」


 息をつくと、安奈は口許に手を当てて小さく笑った。


「私、ルリさんの言葉が好きです。なんというか……他の男の人とは少し違ってて、かわいいなって」


「おいおい、それは他のご主人さまに聞かれたらマズいだろ」


「あ、そうですね」


 俺は内心ではにやつきそうになっていた。これでも一応、年頃の男なのだ。女から嬉しい言葉をもらって心が踊らないほど冷めてるやつにも、すかしてるやつにもなれそうにない。


 だから、ワンピースから覗く丘の割れ目に自然と目がいくのは仕方のないことだろう?


 新宿について、俺たちは東口に向かう。八月初日。暑さは昼間にたっぷり陽光を吸い込んだアスファルトが放熱している。しかもこの湿気と合わさって不快指数は最悪。けれど隣りにグラマラスな女がいることで心は上向きである。


 にしても、夜の新宿は相変わらず盛っている。この熱帯夜で喫煙所に詰め込まれたサラリーマンたちを横目に、クロスヴィジョンを右に進む。


 一瞬、モア三番街の怪談屋に立ち寄ろうかとも考えたが、報告すべきこともないのに時間を割くのも、なんだか憚られた。なにより今の時間に鈴鹿がいるかも分からない。


 安奈の家は新宿六丁目にある家具家電付きの1Kアパートだという。


 ふたりで靖国通りをまたいで、歌舞伎町を抜ける。欲望で輝く街は今日も雑多な日常の様相に、相変わらず疎外感を覚える。


 色とりどりの肌の色、髪の色、響くのは足音とキャリーケースを引く音、嬌声にキャッチ禁止のアナウンス、怒号にサイレン。


 目が回りそうな狂騒は夜が更けても止むことはない。この繁華街の熱狂的な煌びやかさに終わりはない。


 たった電車で五分程度なのに、こんなにも違う。


 人も、街並みも、空気も。まるで異国――とまでは言い過ぎだろうが、それでもこの街で生きる人間と、池袋で生きる人間、秋葉原で生きる人間は、同じ人間なのにそれぞれに色が違う。


 金の流れと同じで、その街によって流れというか、生き方のようなものが根底から違って見える。


 そんなことを考えていると、


「あの、えと、晩ご飯どうしましょうか。その、外食にしますか」


「なあ、安奈」


 ひと気のない住宅地に入ったところで、俺は初対面からずっと気になっていた――というよりも、気付いていたことを口にした。


煙草の(・・・)匂い(・・)を消す(・・・)には(・・)、その香水は強すぎるぞ」


「……え」


 言った瞬間、安奈の目は驚いたように丸くなる。俺は歩みを止めずに進んでいく。


「それに俺はあんたの客じゃない。客はあんただ。キャラを保つのも大事なんだろうけど、これからしばらく俺は安奈の家にいる。店でもないのにキャラを作って生活するのは息苦しいだろ。お互いに」


 そう言って俺はポールモールに火をつける。安奈がついてこないので、振り返るとピアニッシモに火をつけて、紫煙を吐き出していた。


「……いつ気付いたわけ?」


「最初っから。怪談屋にきたとき。あんたさ、香水つけたあとで煙草吸ったろ。かすかに匂いがした。ピアニッシモが桃の香りだから、その香水を選んだのか」


「そういうわけじゃないけど。でも、鈴鹿さんの言ってた通りだね、ルリくんって」


 やっと本当の安奈の姿が浮かび上がってきた。俺は苦笑した。


「また妙なことを言ってたのか、あいつは」


「んーん。ルリくんの推察力を侮ってはいけませんよ、だって。あと、なんだって受け入れてくれる大きな器を持ってるから、安心してください。だって」


「持ち上げすぎだろ。それに、あいつも匂いで気付いてるじゃないか」


「でも、煙草のことだけじゃないでしょ。ルリくんが気付いたのは」


「……あんた、怪談屋で言ってたろ。同じやつから何十枚もラブレターが来て嬉しいとか。それにストーキング行為に対してもどこか淡白な感じだったからな。普通はもっと怯えるだろうし、ぶっちゃけ気持ち悪い、引っ越したい、そんな気持ちになる。なのにあんたは、ひと言も(・・・・)そうは(・・・)言って(・・・)いない(・・・)


 そう言うと、安奈は自販機でコーヒーをふたつ買って、咥えタバコのままひとつを俺に投げてよこした。


「あー、しくっちゃたね。まあ、たしかにお芝居はしてたけど、ストーカーはマジだし」


「そりゃそうだろうさ。ただ、あんたは動じていない、肝の据わったやつだ。精神的にも強い」


「ねえ、ルリくんって本当に十九歳?」


「老けて見えるのか」


「いや、なんていうか……どっか悟ってるというか。達観してるところあるよね」


「年相応に、斜に構えてるだけだよ」


「うっそだぁ」


 外国人を真似て大げさに肩をすくめると、安奈は甲高い声で笑って肩を揺らした。


 仮面をはがした安奈は、新宿の色をしている。けれどお姫さまのような笑い方よりも、俺はこっちのほうが好みだった。ひとしきり笑うと、安奈は俺の隣りに立ち、歩みを再開する。


「でもね、勘違いだけはしないでほしいんだ」


「あん?」


「私はこんなだけどさ。ユナちゃんとか、リリちゃんは本当に良い子なんだよ。ユナちゃんは声優になりたいって夢があってさ、リリちゃんは店での私みたいになりたいって頑張ってる。だから、本当の私を見て、みんな裏側ではそうだ、なんて――」


「別に俺は安奈が悪いやつだとは、思わないけどな」


「……え」


「ユナやリリのフォローをいれるくらい、好きなんだろ。仲間が。自分のせいであいつらが悪いイメージを持たれるのが嫌だから、そうやって俺に弁解までする。俺は別に吹聴したりしないし、イメージだけで人間を測るほど偉くないぞ。ただの――ろくでなし(・・・・・)だからな」


 本心だった。安奈は缶コーヒーを握り締めて、


「そんなこと、言ってもらえるなんてね」


「だいたい、夢を見せてやるのが仕事なら、プライベートくらい自由に生きろよ。煙草も酒もセックスも、好きなように好きなだけ。じゃないと、仕事なんてやってらんないだろ」


「あっはは。そこはドラッグじゃないんだ?」


 悪戯っぽく笑う。お姫さまは小悪魔に進化したようだ。進化と言っていいのか分からないけれど。


 しかしその本性のほうが、俺は好きだった。もちろん、ロマンス的な意味じゃない。俺の心は、先月上旬あたりに奪われてしまってる。


「クスリは嫌いなんだよ。ガキのころに飲まされた粉末の風邪薬で懲りた」


「だよねえ。まあ、煙草も似たようなもんだけどさ」


「ドラッグは心の自殺。煙草は(ゆる)やかな自殺ってな」


「なにそれ、いいじゃん」


「なかなかの名言だろ。ドラッグ禁止のキャッチコピーにしてもいいくらいの会心の出来だと思うんだけどな」


「自分で言っちゃうか」


 俺と目が合い、お互いに吹き出した。安奈も白い歯を見せて、顔をくしゃくしゃにして笑っている。


 そこには、妖精の影も、お姫さまの面影もない。安奈の本当の笑顔。やっぱり作りモノより、心からの笑顔が一番良いものだ。


 もしも心から笑えなくなったら、友達とのバカ話でもコメディ映画でも観てゲラゲラ笑ってみるべきだ。


 抱えてる不安も嘆きも不幸も、そんな笑顔には勝てはしない。ネガティブに白旗を上げさせるのはこの上なく気持ちが良いものなのだと、今はそう思える。



 ◇◆



 俺たちはコンビニで弁当を買ってアパートについた。部屋は三階で、玄関を開けて廊下。その右側に奥いきがあり、トイレと風呂。突き当りに洗濯機。


 短い廊下の途中に簡易キッチンと小型の冷蔵庫。なぜかキッチンの前に一脚の椅子があった。


 ドアを開くと八畳ほどの広さがあって、ベッドとローテーブルが置かれている。


 壁あたりに中型のテレビ、窓際にクローゼット。小さな棚が三つあり、そこにはアニメのDVDやライトノベルが数種類、綺麗にまとまっているくらい。散らかってはおらず、趣味以外の余計なものはないようだ。



「ミニマリストか」


「というより、趣味と家賃と光熱費でカツカツってところかな」


 よいしょ、とコンビニ袋をローテーブルに置いてからカーペットの上にそのまま腰を下ろす。


「あ、煙草はキッチンの換気扇の下ね」


 その言葉に、俺はあの椅子の意味を理解する。立ったまま吸うのは案外こたえるものだ。なによりリラックスが出来ない。


 だから彼女は換気扇の下に椅子を置いて、座ってゆっくりと一服するのだろう。俺の推理はどちらにせよこの家に来ればすぐに分かる程度のものだったってことだ。


「別にベランダでもいいだろ」


「ルリくんが好きなほうでいいけど、外は暑いよ?」


「なるほど。冬は寒いしな。合理的だ」


「でしょ?」


 苦笑すると、彼女はにんまりと笑う。俺は彼女の隣りに腰を下ろして、コンビニ弁当を開ける。俺はチキン南蛮弁当。彼女は唐揚げ弁当。あとはペットボトルの緑茶とほうじ茶。


 俺がどっちのお茶をセレクトしたかは、言うまでもないと思う。


「手紙は」


「んー、ここ」


 箸を咥えたまま、ベッドの下からアルミで出来た小箱をふたつ取り出した。ふたを開けてみると、雑然と放り込まれている。端が折れていたり、開けた痕跡がひとつもないものばかりだった。


「中身は見なかったのか」


「二、三枚と婚姻届けが入ってたやつだけ。どうせ似たり寄ったりだろうし」


「ほんと、良い性格してるよ」


 俺はチキン南蛮を頬張りながら、封を切られていない手紙を一枚、適当にとって開いてみる。


『私はあなたとやっと再会できました。これは奇跡、いいや運命と言っても過言ではありません。私とあなたの転生前の記憶を覚えていますか? 魔王の策略により決別を強いられたあのことを。私はようやく記憶を取り戻しました。一介の騎士であった私は、気高く高貴な姫君であるあなたの手を取り生涯を共にできなかったことを、今でも後悔しています。だから生まれ変わり、あなたとこうして再会したとき、心に決めたのです。魔王の手から今度こそあなたを守ろうと』


 言葉が見つからなかった。字体は三十代とは思えないくらいの丸文字。それが余計に不気味さを彩っている。


「なんて書いてあんの?」


 隣りで唐揚げを頬張っていた安奈は興味なさげにそう訊いてくる。


「よく分からん。ただ、こいつを素面で書いているってんなら、相当な猛者だな」


「猛者って。そんなすごいこと書いてんの?」


「読んでみるか」


「やめとく。食欲無くなりそう」


 そう言いながら安奈は麦茶を半分ほど空ける。俺も正直、胃が重くなるというか、胃がもたれるような文章に辟易した。たった一枚目でこれほどの威力。ストーカーの想像力のたくましさはすさまじい。


『今日はアイちゃんが使っているシャンプーとボディソープを買ってきたよ。アイちゃんはいつもこんなに優しい香りに包まれているんだね。眠るとき、なんだかアイちゃんに抱かれているような感覚になる。これが愛なんだね。僕はアイちゃんを愛している。とっても気持ちいいよ』


『好きです。好きです。好きです。好きです! 愛してます! あなたを! 私とともに、真実の愛を(たまわ)りましょう! 神から与えられた二人だけの幸福を、二人だけの世界で分かち合おう! 魔王の脅威を取り払って、ふたりだけの楽園を作りましょう!』


『アイちゃん、今日はなにしてたのかな。僕はアイちゃんとの写真を見て、気持ちよくなってました。また会いに行くね』


『私はあなたを守ると決めています。魔王の配下たちに、魔王にこれ以上好き勝手させません。今度こそ、絶対に邪魔はさせません! 愛に試練はつきものなのです。私はあなたを守る。その想いは転生前となんら変わっていません』


『あの人は誰なのかな。僕のアイちゃんと、対等に、しかもバカみたいな顔で写真を撮って。身の程をわきまえてほしい。アイちゃんも、いくら妖精だからといって、無理なことは無理だといってほしい』


『やらせてくれないなら、自宅に閉じ込める。どれだけ金をつぎ込んだと思っているんだ。僕の愛を受けとめろ。アイちゃんにはその義務を果たしてほしい』


『魔王だけではなく、魔王の配下までやってきました。気配を隠しているつもりでしょうが、私にはわかるのです。でも安心してください。私はあなたを守ってみせます。私はあなたとともに、もう一度幸せな世界を生きるのです』


『アイちゃん今ごろどうしてるのかなあ。アイちゃんのことばかり考えてるよ』


『やっと! やっとだ! 魔王を倒しました。これであなたと、幸せな世界を作ることが出来る。でもまだ安心はできません。魔王の配下は、まだ私たちを狙っているのだから。でも、恐くない。魔王の脅威はもうない。配下なんて私の力が覚醒した今、敵ではないのです。かならず最後まであなたを守ってみせます。安心してください。プレゼントを贈ります。魔王を倒したお祝いとして。けれど、わたしの戦いはまだ終わっていません。かならず、あなたを守りきってみせます』


 愛の言葉は呪詛と紙一重だ。そう思わせるには充分だった。俺は一気に食欲が失せていく。


「こんなのが何十枚もか」


「みたいだね。私が見たのはなんか、うーん。変な小説みたいな文章のやつと、変態っぽいやつと……婚姻届けのやつ」


「婚姻届けはいつごろのやつだ」


「んー。いつ来てたかは分かんないよ。郵便じゃなくてそのままポストに突っ込まれてるし、日付なんて書いてないし。だから読んだのは先週末だったかな。たまたま目についたから一回くらい読んでやろう、みたいな感じだった。それに、先々週は一回帰省してたから」


 ここまでの手紙を受け取っているというのに封も空けずに平然と生活を続けていたというのか。


 相手を侮っているからではなく、彼女の気質なのだろう。それは言葉の端々で分かった。むしろ俺のほうが軽い恐怖を覚えてしまっている。


 それよりも――。


「帰省? 安奈の地元は東京じゃないのか」


「私の地元は四国だよ。高知」


「……遠いな」


「でしょ。十八で上京して、大学中退して、色々バイトしてたんだけどさ。なんていうか、面白くなかったんだよね。違う自分になりたくなって、役者を目指そうとか考えたけど、性に合わない。だから――」


「妖精になったってわけか」


「そゆこと。でもさ、やってみたら面白かったんだよ。色んな人と話せるし、私もアニメとか好きだから。中学時代に借りたアニメでハマって、実家にはまだそのグッズとかあるよ。こっちで働き始めてDVDも揃えて、その棚にあるし。まあ、マイナー過ぎて人気が出なくて二期はもう絶望的だけどさ。なんて、そういう話が仕事でできるのって、楽しいじゃん」


「キャバにはいかなかったんだな」


「言ったでしょ。私には合わなかったって。キャバのお客さんとか先輩たちは良いひとだったけど、なんかノリについていけなくってさ。まあ、私の性格の問題ってわけ」


「高知に――地元に戻ろうとか考えなかったのか」


「ないなあ。帰省はするけど、私は安芸(あき)市ってとこに実家があってね。繁華街からもめちゃくちゃ遠いの。しかも山と川と畑しかないような街でさ。親も農家やってて、今は弟が継ぐみたいなこと言ってるし、戻ったところで」


 そこで一拍、安奈は言葉を(つぐ)んだ。


「戻ったところで、私が好きな私にはなれない」


 なるほどな、と俺は息をつく。空になった弁当を袋に入れて、ペットボトルのほうじ茶に口をつける。やっぱり鈴鹿の淹れたほうじ茶のほうが美味い。当たり前だけど。


「さて、シャワーどうする? 先に入る?」


「じゃ、お言葉に甘えるか」


「うん」


 バスルームに入り、シャンプーをしながら俺は考える。佐久間はなぜ、手紙を寄越すのか。想いを伝えるためだ。そこに設定がある。これはどういう意味なのだろう。前世は騎士と姫。本気で書いているのか、暗喩、比喩の類なのか。俺にはわかりそうにもなかった。


 それに安奈のことも気になった。彼女は自分を好きになろうとしている。いや、今の自分が好きなのだろう。


 けれど、地元に戻れば彼女の理想も壊れてしまう。きっと安奈が本気で恐怖するのは、そこなんじゃないかと睨んでいる。なぜなら――。


 ストーカーに遭っても、彼女は平然としているからだ。それくらいじゃ、自分の理想は壊せない。言外にそう言っているような気さえする。


 そこにある頑固なまでに堅い意志は、高知の女が強いと言われる由縁なのかもしれない。


 そんなことを考えつつ、俺も手早くシャワーを済ませた。スウェットにTシャツに着替えて戻ると入れ替わりで安奈がバスルームへ向かった。



◇◆



 安奈がシャワーを浴びている間、俺はベッドに背を預けて何十枚ともあるラブレターの封を切っていった。


 大概が愛の言葉で、想いを伝える文章ではあるのだが、それは片思いの相手に対するそれじゃない。


 まるで付き合っている恋人――いや、それもどこか齟齬(そご)があるような違和感を覚える。


 なんだろう、佐久間 桐生という男は、眞城 安奈という女になにを見ているのだろうか。


――ストーキングをするやつらに見えてるのは、一般人が見ているものとも、私たちが見ているものとも、また違う世界だ――


 紅葉の言葉を不意に思い出す。紅葉たちが見ている世界、幽霊のいる世界。一般人の見ている世界、あるがままの退屈な現実。ならば、彼は――どの世界を覗いて生きているのだろう。


『アイちゃん、アイちゃん、アイちゃん、アイちゃん、アイちゃん、アイちゃん、アイちゃん』


 ただ名前を――それも妖精の名前を――羅列しただけのものもある。しかも、その枚数は五十枚にも及んだ。意図が読めない。住所を特定しているんだ、安奈の本名を知らないわけじゃあるまいに。


「……本名?」


こいつの手紙には、安奈の文字がない。あなたか、アイちゃん、つまり仕事上の名前だけがある。


 こいつは――こいつが見ている世界は――


「妖精の世界か」


ぽつりと口を突いて出た。


「ルリくん?」


 だとすれば、キャラに惚れたということだろうか。安奈本来の性格ではなく、アイというキャラクターを演じる安奈に。


 けれど、なぜ家まで突き止めて、ベランダで私生活を覗いて本来の姿を見ているはずなのに許容せずにストーキングをしているんだ?


 それに、一人称が『僕』になったり、『私』になったり――この統一感のない、ちぐはぐな感じが薄気味悪い。


「ルリくんってば」


 そこでハッとして顔を上げる。いつの間にか俺の前で座っていた安奈と目が合う。シャワーから出てきて、何度か名前を呼んでいたらしい。


「お待たせ」


「待ってないけどな」


「つれないなあ」


 そう言って笑う安奈はキャミソールにふとももの出たホットパンツ姿。体のラインが強調されて艶めかしく、健康的な白さが目に眩しい。


 風呂から上がってしばらく経つというのに、俺は瞬間的にのぼせた。安奈は隣りに腰を下ろし、華奢な二の腕が触れる。


「なにか飲む?」


「なにかある?」


「ビールなら」


 俺は頷いて、しかしその視線は安奈のふとももに釘付けだった。なるべく見ていることを悟られないように視線を逸らせるが、どうしても気になってしまう。


「私、脚太いかな」


 見ていることはすぐにバレた。俺は何気ない風を装いつつも、鼓動が昂ぶっているのを感じる。つつ、と脚を折って安奈の手が滑る。なんとも言えない、滑らかで艶やかな仕草。


「いや、そういうわけじゃないけど。男の前でそんな恰好するなよ」


「お互いに気を遣って息苦しいのは嫌なんでしょ」


「そうは言ったけどさ」


「じゃあ、別にいいじゃん」


 挑発的に足を伸ばして、組む。俺は視線を上げても、実った果実がふたつあることで、目のやり場に困っていると、安奈の腕が俺の腕に絡みつく。


「ルリくんって、素直だよね」


「……唯一の長所はそこだけだからな」


 軽口を叩いて強がってみせるけれど、下半身がひどく刺激されて今にも騒ぎだしそうだったので「煙草を吸ってくる」と告げて逃げるように部屋を出てキッチンに座り、ポールモールに火をつけた。ダメだ。こいつはいけない。俺には心に決めた相手がいるだろう。


「ルリくんってさ」


「なに」


 少し開いたドア越しに見ると、安奈がこちらを見ていた。


「童貞なの?」


 その言葉にむせた。ひどくせき込む俺に対し、安奈はケラケラと笑う。


「答えるわけないだろ」


「私は経験済みだよ」


「訊いてないって」


「私は言ったんだから、言ってよ」


「……」


「ねえってば」


 俺は石のようになっていた。ほらみろ、鈴鹿。男を女の家にやると、どうしたって妙な空気になるだろうが。この場合は俺がさらりと躱せないから――自業自得だとしても。俺だって、男なのだ。そんな言い訳を頭の中で済ませる。


 安奈はドアを開けてキッチンで座っている俺の後ろに立ち、包むように抱きしめてくれた。そして耳元で囁くように、


「私ね、年下の子としたことないんだよね」


「――は」


「ルリくん、かわいいから」


 安奈はポールモールを俺から奪って、喫っている。何度も言うけれど、俺だって男なのだ。ここまで露骨に誘われて我慢しろというのは、酷な話だろう。それに据え膳食わぬはなんとやら、だ。我ながら言い訳の陳腐さに嫌気がさすけれど。


 煙草を喫い終えた安奈は俺をスタンドライトだけにした部屋に、手を引いて戻るとそのまま押し倒す。顔が近づいてきて、鼻が触れ、吐息を感じる。シャンプーの香り。唇が触れるかどうかのところで、安奈の左手が俺の下腹部に伸びる。


「ねえ、どうなの」


「……俺は男子校だった。あとは言わない」


「じゃあ、初めては私がもらうね」


「ちょっと待ってくれ」


「だめ」


「まだ俺はあんたのことを、良く知らない」


「別に関係ないでしょ。私はお店で最初に見たときから良いなって思ってたよ」


「それでも――会ったばかりのやつとは、出来ない」


「うそばっかり」


「ほんとだって。これ以上は、理性が効かなくなる」


「別に、いいじゃん」


「俺にはもう決めてるやつがいる」


「んー? 聞こえないなあ」


 右手の親指が俺の唇をなぞる。左手が下腹部に触れ、俺の鼓動が激しく昂ぶる。押し付けられた双丘に伝わっていると思えば、情けない話、緊張する。


 彼女の息遣いが俺の耳朶をかすり、首筋に唇をつけた瞬間――俺の理性が吹っ飛びかけたその瞬間――スマートフォンが鳴った。


「……悪い」


 なんとなくもったいない気持ちと、ホッとした気持ちがない交ぜになっている俺に、彼女は「あっ」という顔をしていた。


 なにかを思い出したような表情。それを不思議に思いつつ、通話をタップすると、くくく、と低い笑い声が聞こえた。魔女の嘲笑。


『よう、ルリちゃん』


「……ちゃん付けはやめろ。なんだよ、こんな時間に」


『こんな時間に、じゃなくて、こんな美味しいシチュエーションに、ってはっきり言ったらどうだ』


 言われた瞬間、血の気が引いていくのが分かった。一瞬で火照っていた身体が、(たぎ)っていた血が冷えきっていく。


「な、なんっ、なんのことだ」


『鈴鹿にカメラの設置を依頼されてね。妖精ちゃんからも許可をもらってその部屋の色んなところにつけてる。しかしまあ、あんたが押し倒されるとはねえ。私はてっきりあんたが先に暴走するもんだと』


――だから、あのとき怪談屋にきたのか。俺が外に出されている間、鈴鹿が紅葉を呼んだのだ。そして一日。時間が空いたのは、俺が着替えや準備をするためでもあり、紅葉が部屋にカメラを設置する時間でもあったというわけか。


「先に教えといてくれよ!」


『鈴鹿から聞いてると思うだろ、普通』


「で、なに。俺がクライアントに手を出さないようにカメラを設置するように言われたのか」


『バカかあんたは。ストーカー野郎がベランダから覗いてるって話もあったから証拠集めのためだよ』


「……」


『まあ、そこの妖精ちゃんも忘れてたみたいだし、あんたが押し倒されてんだから鈴鹿には内緒にしといてやるけどさ。やるならホテル使えよ。こちとら、知り合いのセックスを見せつけられるなんて、たまったもんじゃない。あと、浮気はダメだぜ、ルリちゃん』


 そう言って通話が切れた。俺が振り返ると、


「……あっはは。カメラあるの忘れてた。ごめん」


 両手を合わせる安奈を前に、俺は怒るよりも先にうなだれた。言葉もない。そんな俺に名案だとばかりに両手を合わせて、


「だったら今からホテルにでも行く? 近くにあるんだよ」


 なんて言った。据え膳食わねばなんとやら――俺の男としての本能は、ひどく揺らいでいた。その甘美で鋭敏な言葉は俺の中のバカな部分を刺激して、吸い込もうとしてくる。蠱惑的で魅力的なブラックホール。けれど。


「いや――悪いんだけど、やっぱり初めては惚れた相手がいい。だから、そのときまで取っておくことにするよ」


 我ながら最低で情けない強がりと言い訳だ。それでも本音だった。さすがろくでなし。自覚はある。これは罵られても仕方ないだろう――そう思っていたが、


「なあんだ。残念。でも鈴鹿さんは本当に綺麗だから、勝てる気がしないや。でも、チャンスはまだあるし、負けてあげるつもりもないんだよね」


 なんて冗談とも本気ともつかぬことを言って安奈は悪戯っぽくにやりと笑った。魔女から告げられた女難の相。わりと当たっているのかもしれない。それとも俺がヘタレなだけなのだろうか。


 後者じゃないことだけを祈りつつ、俺はため息をついた。



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