第三話
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しばらく打ち合わせをするからと、俺は休憩をもらった。実のところ十五時にももらったが、今回の休憩はバイト代に反映させないというので甘えさせてもらうことにして、怪談屋の外でポールモールに火をつけて、しばらく新宿の狭い空を眺めていた。
表通りから宣伝車のスピーカーやウーファーの重低音、献血を訴える声、それぞれの目的地に向かう匿名の喧騒がかすかに聞こえるけれど、モア三番街の狭い路地みたいなところでは人もまばらだ。
じりじりと焦がす太陽は今日も相変わらず。ただ、この通りは比較的に陰があるから、路上喫煙に適した隠れスポットである。
周りには缶コーヒー片手に一服しているサラリーマンやラーメン屋のバイトがスパスパとせわしなく主流煙を肺にため込んでは、濁った空気に副流煙を吐き出している。
俺たち喫煙者はまるで車の排気ガスと同じだ。
ただ違うのは車の燃費は時代とともに良くなっていくけれど、俺たちの燃費は悪いってところと、最近は車体も部品も揃っているし、壊れれば代替車もあるし、少し待てば直る。
軽自動車だって車内もそれなりに広い。けれど俺たちはたったひとつの命を、ひと息ずつ削られて交換が利かず肩身が狭い。
煙草を吸い過ぎて肺が傷んだので予備の新品へ交換してください、なんて出来やしない。臓器移植ってのはそんな身勝手な理由でするものではない。色んな意味で適応外だ。
「よう、ルリちゃん」
「ちゃん付けするな」
十分ほど過ぎて首を鳴らしたところで声がかかった。反射的にいつものように返す。
視線を向けると、CBX400Fビート仕様のブルーカラーを脇につけながら、くだんのあくどい魔女のような友人――阿久良 紅葉が、にやりと笑っている。
栗色のマッシュ・ボブに白地のプリントT、黒いテーラージャケット、デニムのショートパンツからすらりと伸びた脚の先には黒の編み上げブーツ。
この魔女も、俺と同じだ。似たような服ばかりを買いそろえているらしい。
ただ、俺がセレクトショップのセール品なのに対して、こいつはオーダーメイドだというから、こんなときに格差を感じる。
だが、値段じゃないのだ。俺はこのフラットさとリーズナブルなところが一番自分に合っているし、気負うことなくファッションを楽しめる。
オーダーメイドで何万もするシャツなんてのは、着たところで肩が凝るだけだ。なんて、負け惜しみでしかないけれど。
その切れ長の目は射すくめるほどに鋭く、スマートな体型に丸みを帯びた中性的な顔。性格もスタンスも鈴鹿とは正反対に位置する“同業者”で、鈴鹿の“親友”だ。
ただし、同業者といっても怪談屋ではなく――霊能力者として。(しかし、霊能力者ってのは言葉にすると陳腐になるのはなぜだろうか)。
さらにその能力だけでいえば鈴鹿よりも優秀で、こいつの敵になった者は容赦のない罰を受ける。
それも、死んだほうがマシだと思えるくらいに。七夕事件で、俺は嫌というほどそれを痛感した。
鈴鹿いわく情に厚いというが、それはあくまで紅葉の敵ではないという前提がある。俺だって結果的には助けられたわけで、しかし敵になってしまったやつは廃人になってしまった。とにかくやりすぎる性質らしい。
だが、こうやって話している限りでは気のいいやつ、気楽に話せるやつくらいの感想しか抱かない。
「サボりか、ルリちゃん」
「休憩だっつの。あんたはなにか用なのか。今は来客中だぞ」
「知ってるさ。ストーカーに遭ってるんだろ」
そう言って肩をすくめる。本当に底知れない女だ。
「そこまで知ってるなら、ここで煙草でも吸ってろよ」
「なに、私と一服したいのか。ダメだぜ、浮気は」
「……言ってろ。事務所まで行って怒られてこい」
俺は紫煙を吐き出してそう言うと、そうするかね、と紅葉は本当に階段に踏み込む。俺は止めそうになって、しかし口にするよりも早くやつはさっさと上に行ってしまった。
「……知らねえぞ」
まあ、鈴鹿が怒ったとしてそれで懲りるような女じゃないってことも、分かってはいるのだけれど。
◇◆
さらに二十分が経って、そろそろ焦れはじめたころに安奈が降りてきた。
「終わったのか」
「はい! ありがとうございました!」
「……あ、ああ。うん」
やっぱり――そう思ったけれど口には出さない。ついでに頭を下げたお姫さまの揺れる胸元から目を逸らした。
どうにも油断すれば下心が顔を出す淋しい性である。時刻は十九時。そろそろ陽も暮れかけてキャッチ注意のアナウンスが流れ始めるころ合いだった。
「送っていくか?」
「いえ、今日は大丈夫です! 明日からよろしくお願いします!」
明日から――それはどういう意味だと問いかけようとして、彼女よりも鈴鹿に聞いたほうが早いと判断し、そのまま安奈を見送ることにした。彼女は靖国通りの方へと向かって行った。
それからしばらくして、紅葉が降りてきた。
「怒られたか」
「さてね。しかしまあ、あんたも大変だね。金銭感覚の狂ってるお嬢さまと虐待を受けてた女の子の次はお姫さま――いや、妖精さんのボディーガードか。女難の相でもあるんじゃねえの」
「ほっとけ」
三本目の煙草に火をつけると、紅葉もラッキーストライクに火をつけた。
「ルリちゃん、今回はちょっと厄介かもしれないぜ」
「あん? どういう意味だよ」
「そのままの意味」
「だったら、あんたも手伝えよ」
「悪いね。私は別件で忙しいんだ」
「……また別件か。忙しそうでなによりだ」
「“また”じゃない。七夕の件は鈴鹿から依頼の横入りで一旦中断しただけだ。そいつはずっと続いていて、終わってないんだよ」
「――そっちのほうがよっぽど厄介じゃねえか」
「だな。でも、あんたも気を付けろ。ストーキングをするやつらに見えてるのは、一般人が見ているものとも、私たちが見ているものとも、また違う世界だ――だから、厄介なんだよ」
咥え煙草のまま、口角だけを上げてみせる紅葉に俺は眉間にしわを寄せる。なにが厄介だ、見えてる世界が違う? そんなことは関係ない。
たかだか陰湿なストーカーの行動をまとめて、あとは追っ払うなり警察に突き出すなりすればいいだけだろうに。
それを言うと紅葉はじきに分かるさ、と笑ってから、
「――これ。あんたにやるよ」
紅葉が投げてよこしたそれをキャッチする。それはネックレスだった。小さな長方形のペンダントがついている。
それは細く小指の第一関節くらいの大きさで、板状のそこにはなにか模様が刻まれている。
梵字に似ているような気もするが、そもそも梵字に詳しくない俺からすればどちらにしろ変な模様がついたネックレス、程度の感想だった。
「なんだこれ」
「いいから。外さずつけとけよ。風呂も寝るときも。肌身離さず」
「……相変わらず意味が分かんねえ」
「女からのプレゼントだ。ゲスな勘繰りは感心しねえな」
「魔女からのプレゼントは勘繰るだろ」
そう言うと、一瞬、紅葉は目を丸くしてから、吹き出した。
「あんた、たまに鋭いとこを突くな」
「あ?」
「魔女は――私の二つ名だ」
ブルーカラーの魔女、ってな。
紅葉はそう言ってひとしきり笑ったあとで、「そのネックレス、毎日つけとけよ」と残してCBX400Fをまたがり、モア三番街から出ていった。
鈴鹿が“咎ざらしの朱猫”と呼ばれるように、あいつにももうひとつの名前があったことは、心底からの驚きだった。
たまたま思ったことで軽口を叩いただけだ、なんてとてもじゃないが言い出せない。だからそれを顔には出さない。
意地や見栄も張れなくなったら、男として終わってしまうような気がする。
そんなことを考えてる時点で情けないってことも分かってはいるのだが、虚勢だけは忘れずにいたいものだ。
◇◆
「先ほどは、強く言ってしまい申し訳ありません」
俺が怪談屋に戻ると、鈴鹿は小さく頭を下げた。俺は慌てて、
「いや。謝るのは俺のほうだ。今度からはちゃんと敬語を使うように気を付ける。悪かった」
と言えば、鈴鹿は首をかしげて不思議そうな顔になる。
「いえ、ルリさんは敬語を使わないほうがいいんです。私が言っていたのは、無理して敬語を使おうとしていたから、注意をさせていただいたのですが」
その言葉に今度は俺が驚く番だった。
「待て、敬語は必要だろ。その、接客の仕事だし、その分、給料をもらってる。だからその、俺の意識が低かっただけで――」
「いいえ、ルリさんはそのままでいいんです」
鈴鹿は柔らかい微笑みを湛えて、俺を見据える。なんとなく紅葉とは対照的な、包み込むような視線に耐えかねて逸らしてしまった。
「私は幼いころから、家族と呼ばれる方々にも敬語でした。そう教育も受けてきたからです。ですが、このお店をやっていると、どうしても相手は畏まって、萎縮してしまいます。それは私の望みではありません」
それは敬語だからではなく、鈴鹿があまりに美しいからではないか。俺はそう思ったが、口には出せなかった。
それを語る鈴鹿の表情が、やけに淋しそうに映ったからだ。それを彼女の容姿のせいにしてしまうのは、鈴鹿の美麗さにひびを入れるようなものだ。
それに家族と呼ばれる方々――その言葉にも、俺はなにも言えなかった。そこに鈴鹿の私生活に関する深い溝が横たわっているような気がして。
彼女はお嬢さまだとそう思っているが、実際、彼女のプライベートを、そのバックボーンを、その半生を、俺は知らない。
そのふんわりと、それでいて飄々とした雰囲気に色々と訊くのも憚られて、結局はなにも知らないのだ。
俺は。この美しさの権化のような、宝石の塊のような、歴史に残るほどの美麗さを兼ね備えた機械音痴のお嬢さまのことを。
「でも、さすがに接客業で敬語なしってのはな」
「いいんです。それが、ルリさんの魅力なんですから。それに、無理に敬語を使おうとするとき、ルリさんの表情は硬くなります。それでは、お客さまは安心してお話ができません」
「……恐い顔してたか、俺」
「ええ。いつもの――今のルリさんは優しい顔をしています。ですから、無理に敬語で話そうとしないでください。フラットで気さくなあなたには似合いませんし、なによりそのほうがお客さまも話しやすくなります」
「そういうものか」
「そういうものですよ。皆さんは、それぞれに自分の中に構築した世界というものがあります。一見、非常識ともとれる言動でも、その世界の中では平常である――つまり、ルリさんの構築した自我の世界では、敬語というのが流通していないんです。だから、無理に使おうとすれば表情が硬くなるんです」
「自我の世界?」
「ええ。私には私の、ルリさんにはルリさんだけの世界です。けれど、ルリさんの自我の世界は、常識的観点から見れば――非常識です。敬語を使わない、相手によって態度を変えないというのは社会では通用しないものでしょう」
「だったら、なおさら敬語を使うべきだろ」
「いいえ。この場所は怪談屋です。現世と幽世の狭間にあるような――そんなお店です。社会と密接な関係性にありながら、そこには大きな境界線――そうですね、喩えれば川が流れているようなものです」
「三途の川ってやつか」
「それだと私たちのお店は幽世にあるということになりますよ。あくまで喩えです。金銭的なやり取り、売買というのは社会性を孕んだものですが、売り買いするのは怪談です。それも、お客さまが持ち込んだ、それぞれの“世界”の恐怖体験です。そこに入り込まなければ、その恐怖を堪能することはできませんし、相手の非常識的な解釈も、理詰めで解体されてしまいます。そこが、社会性との乖離した部分でしょう」
「――小難しいな」
「彼、彼女らの世界を客観性で見ると、怪奇現象は怪奇現象ではなくなる、ただ妙な妄想を言っている――そう取られるということです。けれど、彼、彼女らの自我の世界に入れば、それは“怪奇現象”になる。彼らの追体験をすることになり、また、彼らの一見すれば奇妙な仮面も剥がれ、本質を見ることが出来る――ということですね」
「誰かの妄想を形として見ることが出来るってことか」
「そうです。話しを戻しますが、ルリさんの世界は拓けていることが特徴的です。普通ならば自閉してしまいがちで、相手の考えていることが分からない、なんてこともあるのですが、ルリさんは思ったことを、感情のままに話します。それは、相手に直接届くことでしょう。それが意味するのは、あなたはお客さまに親近感を抱かせるということです」
「こんなナリをしてんのに?」
俺は立ちあがって両手を広げる。金髪の両サイドを刈り込んでキャップを被り、ピアスだらけ、おまけに手の甲にはタトゥー入り。こんなやつに親近感を抱くだろうか。俺ならまず避けて通るかもしれない。我ながら悲しい結論だが。
「外見ではないんです。たしかに先入観として外見は重要ですが、さっきも言った通り、あなたの世界は拓けている。つまり、その世界に入り込みやすいということですね。そうすれば、敬語が出来ないことに違和感を持つ方は少ないでしょう。仮に持ったとして、その世界の中に入れば、つまり親睦を深めれば――ルリさんの魅力に触れ、親近感を覚えるのです」
世にも美しいお嬢さまは満足そうに語り終えると、ジャスミン茶でのどを潤していた。
「いつかクレームが来ても知らないぞ」
「苦情があったとしても、それを受け付けるのが、店主である私の仕事でもありますから」
俺はその言葉に深くため息をついた。短い付き合いだから仕方ない――そう言われてしまえばそれまでだけれど、鈴鹿がなにを考えているのか分からないときがある。
しばらく沈黙が続いて、俺はデスクで冷たいジャスミン茶の香りを楽しんでいると、鈴鹿が口を開いた。
「けれど今回の件、危ないことをさせてしまいます。もちろん、断ることも出来ます。ルリさん、どうしますか」
鈴鹿と目が合い、俺は笑った。
「バイトの責任を取るのが店主の仕事なら、店主のお願いを聞くのは、バイトの仕事だ」
「――ありがとう、ございます」
「それで、計画を訊かせてもらいたい。俺はどう動けばいい」
そう言うと、鈴鹿もジャスミン茶でその触れれば弾みそうな瑞々しい唇を濡らした。
「明日の二十二時に、眞城さまはお仕事を終えるとのことです。ルリさんはその二時間前にお店にお客さまとして来店してください」
「……は」
「そのあと時間がくれば彼女が退店しますので、家まで同行してください。その際――周囲に気を配ってください。もちろん、店内でも同じように。出来ればその気さくさで、周りのお客さまとコミュニケーションをとってくださればなお良いです」
「待て、俺がメイドカフェに行くのか。ひとりで?」
「ええ。そうです。もちろん、お店での出費は必要経費という扱いなので、こちらが持ちます。食べ物でも飲み物でも、好きなものを注文していただいてかまいません。あとは――しばらく、眞城さまのご自宅で過ごしていただきたいんです」
「……ちょっと待て。自宅で過ごすって、安奈の家でしばらく泊まれってことか?」
「はい。そうでなければ、佐久間さまが来たときに対処が遅れます。あとは、出勤、退勤時の送り迎えです。ただし、その際はお客さまとして接してください。彼女が出勤して、二十分ほど時間をおいてからお店に」
「つまり、眞城目当ての常連になれってことか」
「俗な言葉で言うと、そうです。カモフラージュで、佐久間さまが出てくるのを待ちます。もちろん、眞城さまには許可を取るために相談をさせていただいて、彼女も快諾してくださいました」
とんでもないことを言うお嬢さまである。俺を餌にしてストーカーを釣り上げるために、年頃の男を妙齢の女の家にやる。いくら護衛、ボディーガードとはいえ、あやまちがないとも言いきれないだろうに。
「紅葉はやっぱりダメなのか」
「はい。別件で忙しいらしく――今回もあまり時間は割けないとのことです。それに、七夕のときに無理を言ったこともあります。さすがに彼女の仕事の邪魔を続けるのは、親しい友人とはいえ礼儀に欠けると判断しました」
「別件ね……。あいつはその別件が終わってないとか言ってたな。なにを追ってるんだ、あいつは」
俺の言葉に、鈴鹿は小さくかぶりを振った。
「彼女の仕事に関しては、私の口からお話することはできません。紅葉のお仕事にも守秘義務がありますから」
「なるほど。なら、こっちの話だ。今日、俺は家で安奈の家に泊まる準備をしろってことであいつを先に帰したんだろ」
「やっぱり、ルリさんは察しがいいですね。その通りです。さすがに大荷物とはいきませんから、一週間分の着替えなどを用意してください」
「でも、もし安奈の家に入るところをストーカー野郎に見つかったらどうするんだ」
俺は自分で言って、その瞬間、理解した。鈴鹿はそれを見越したように、オレンジ色のライトの中、ふ、と息をついて艶やかな笑みを浮かべている。
「――その時点から、彼は動き出すでしょう」
そのための餌なのだ。訊くまでもない話だった。佐久間という男がどういうやつか知らないが、少なくとも気に入った女の家に男の出入りがあったら、じっとしていられないだろう。ストーカーの心理は分からなくても、それくらいは容易に想像できる。
よもやその餌に釣り針がついているなんて、きっと考えもしないだろうな。




