『大和撫子』のお礼
「蒼ー。おはよう」
翌朝、廊下を歩いていると背後から明るく軽快な声が聞こえた。振り返った蒼の視界に映ったのは柔らかい笑みを浮かべる少年だった。
「おはよう。圭人」
蒼はその少年――滝山圭人に挨拶をした。
圭人とは高校で出会い、彼から話しかけてくれたことがきっかけで仲良くなった。
茶色がかった髪と瞳に凛とした顔立ち。それでいて物腰も柔らかく誰とでも接することができて、みんなをまとめ上げることのできるリーダーシップも兼ね備えていることは学校の行事等で既に把握している。
温厚でカリスマ性を持つ人物であり、数える程度しかいない友人の中で信頼できる蒼の親友である。
圭人は蒼の隣まで駆け寄ったところで歩くペースを蒼に合わせる。
「今日も朝から冷え込んでるな」
「昨日に比べたらまだマシな方だろ。クソ寒いけどな」
外では強い風が吹き荒れていて、窓を強く打ち付ける。蒼も今日は制服の下には長袖のヒートテックシャツを着ている。
圭人は蒼の身体をジッとしばらく見つめる。そして口を開いて一言。
「蒼。お前また痩せたよな?」
「そうか?」
圭人の言葉に不安を覚えて今度は蒼が自分の身体を確認する。一見あまり変化がないようにも見えたのだが、言われてみれば心当たりがある。
最近制服のズボンが少し緩く感じてベルトをキツく締めたことだ。
「もっと食べて運動しないとだめだぞ」
「なんか近所のおじさんみたいな言われた感」
「ひでぇな。同い年じゃん」
だが確かに圭人の言葉は的を射ているところはある。
食に関しては、蒼は一般の高校生に比べると食べる量は少ないかもしれないが決して少食というほどでもない。
毎食料理好きな母親の栄養バランスが整った食事を食べているし、蒼自身も母親に習ってある程度のものなら作れる。
問題は運動の方だ。家でできることなら気が向いたときにやる程度で、ランニングなどは授業の体育ぐらいしかやらない。
蒼にアドバイスを送った圭人だが彼は趣味で身体を鍛えていて、筋肉隆々というほどではなく程よい筋肉が付いている。
「今度よく効く筋トレメニュー教えてやるよ」
「教えてくれるのはありがたいんだけどさ。いかんせん長続きしないんだよな」
何度か本気で取り組んだときはあるのだが、長くて一ヶ月が限界だった。それ以降はどうしても面倒臭さが勝ってしまい、また明日また明日と引き伸ばしてしまい続かなくなってしまういつもの流れになってしまう。
「そんなんじゃ風に吹っ飛ばされちゃうな」
「そこまで軽くないわ」
「冗談冗談。だけどいざというときに好きな女の子を守ってやれないぜ」
「なら大丈夫だ。お前と違って俺にはそんな存在なんていないから」
拗ねたようにそっぽを向いた蒼に圭人は慌ててごめんと手を合わせて謝ってきた。
だが悪びれたような表情は全く見せることなく笑っている。付き合いが長いからか、蒼の行動も演技だということが分かっている。蒼も逸らしていた顔を戻して小さく吐息を漏らした。
教室があるニ組に向かっている途中で、蒼は一組に視線が向いた。
その視線の向こうには昨日初めて話した少女――陽葵が席に座っていた。
「どったの?」
「いや。なんでもない」
「さてはあれだな。一ノ瀬さん見てたんだろ」
「まぁ……ちょっと視界に入っただけ」
「思わず見ちゃうのは分かる。美人さんだもんな。俺もついつい見ちゃうんだよ」
「それ、彼女持ちが言っていいセリフなの?」
力強く頷く圭人に蒼は訝しげな目を浮かべて呆れ果てたように言い放つと、視線を戻して三組の教室に向けて歩き出した。
蒼の目には、あそこに座っていた陽葵は美しくも今にも消えてしまいそうなほどに儚いように見えた。
☆ ★ ☆
授業を終えて放課後――
蒼は帰り支度を手早く行って鞄を担いで立ち上がった。
「もう帰るのか?なら一緒に帰ろうぜ」
椅子を引いた音に反応したのか、圭人は体の向きを変えて蒼の方に振り向いた。
蒼の席の前は圭人が座っていて、蒼にとって気兼ねなく話すことのできる人物がすぐ近くにいるという事実だけでかなり心が楽になっている。
「部活は?」
「休み」
「彼女と一緒に帰らないのか?」
「友達と遊びに行くんだと」
「そっか。んじゃ一緒に帰るか」
圭人はサッカー部に所属していて普段は部活漬け。休みの日は彼女と帰宅しているので、彼と一緒に帰るのは実は久々だったりする。
蒼も口元と目尻を下げて頷けば、よし、と圭人も爽やかな微笑みを浮かべて立ち上がり教室を出た。
階段を降りて校舎へと向かい、うち履きをしまおうとしたそのときだった。
「あ、あの」
細くて弱々しい声がした。
その方向へ顔を向けたその先には陽葵が立っていた。鞄を肩に担いでいたので陽葵も帰ろうとしていたところだろう。
昨日と同じで人形のように整った美形に申し訳なさが滲んでいる。
「その、昨日はありがとうございました」
「別に気にしなくていいって言ったのに」
「今日改めてお礼を言いたいと思っていたので。それでは」
陽葵はそう言って会釈をすると、自分のロッカーの方へと向かった。
陽葵との短い会話が終わると圭人に肩をポンポン叩かれたので振り向くと、驚きの色を隠せないでいた圭人がやや目を見開いていた。
「蒼。一ノ瀬さんと知り合いなの?」
「知り合いだとしたら随分と面白みに欠ける会話だったと思うんだが。昨日ちょっと助けただけだよ」
「なんでぇ。てっきり二人はそんな仲だと」
まさか、と蒼は肩を竦めながら淡い微笑を浮かべる。
そう。蒼が拾ったストラップがたまたま彼女のものだったというそれだけのこと。そんな仲どころか友達でもなんでもない。
この機に陽葵と仲良くなろうとなんて気はさらさらないし仲良くなれるとも思っていない、昨日初めて話した同級生だけというどこにでも至って普通の関係だ。
蒼は靴の踵を直すと、圭人と共に帰路についたのだった。
明日からしばらく複数話投稿予定です。
最初の投稿は7時を予定しております。