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マドレーヌ・シトロン

作者: キャロリーヌ・ド・インシュリン


「――本日の水出し。」


ぶすくれた表情の店員がいつも通り、気配を感じさせることなくサーブしてくれた。


ここの店員さんはいつもそうだ。

音も立てずにさっとオーダーを置いて、去り際ぶすっと注文品名を呟いていく。

初めてこのサービスを受けた際は面食らったものだが、慣れてしまえば逆に心地よく感じられるのだから不思議なものだ。


さて、とグラスを口に近づけたそのとき。


「マスターから。サービス」


微かな風圧と共に、コースターの傍らに小さな焼き菓子が載ったお皿が置かれた。


「あ、ああ。ありがとう。」


「お礼はマスターに」


「そうだったね。わかったよ。」


…店員が立ち去らない。こう、黙ったままこちらの斜め後ろで佇んでいる。まあ、これも初めてやられたときは少々戸惑ったものだが、今となっては慣れたものだ。大概こういうときはマスターからの言付けがあるのだ。


グラスをコースターに戻し、待つことしばし。


「…新作、あんたがひとりめ。」


絞りだすようにつぶやいて、今度こそ店員は去って行った。

少年よ、えらいぞ。ドリンク名を口にするのも一苦労している様子の若き店員が、二言以上頑張ってひねり出している様子に、私ももはや「こどものはじめてのおつかい」を見守るような気持ちだ。そんな道義もないのだが、勝手ながら誇らしさすら感じてしまう。


さて。たのしみにしていた水出しコーヒーも早く飲みたいが、どうしても注意は焼き菓子に向く。


何を隠そう、この「マスターのサービス」は毎度毎度、物凄く美味しいのだ。時々しか出会えない非売品ゆえ、こうやって出してもらえたときは物凄く嬉しい。私のように堂々とあまいものを買いに行きにくいような人間には二重に有難い。


ころんとしたコキーユ型のフォルム。

黄金色に焼きあがった生地。

置かれただけでほんのかすかに漂う乳酪の香り。

ここまでなら、常連誰でも知っている。時折気紛れにマスターが出してくれる焼き菓子のひとつ…と思われる。が、だ。


店員も「新作」と言っていた。


親指と人差指とでそっと摘まみ上げて、違和感の正体に思い至る。

今日出されたこの焼き菓子の表面には、どうも薄っすらと乳白色の膜がかかっているようで、透けて見える黄金色の生地をどこか涼やかに見せている。手に取ってわかる。指先から伝わってくるその感触も実に期待をそそられるものだ。パリッと面を為しているが、ほんのわずかな力を加えただけでさくりと点になってほどけていきそうな気配がある。


口に運ぶと強まるいつもの乳酪の香り。

いや、それだけじゃない。


カリっ。


まず口内に広がるのは爽やかな甘酸っぱさ。

そうだ。今は夏も盛りを迎えつつある。道中の青物売りも「プラム、アンズ、レモンープラム、アンズ、レモンー」とがなっていたではないか。


これは、マスター特製焼き菓子の、夏(Ver.)に違いない。


そして使われているのはまちがいなく我が街名産のレモンに違いない。

同じ夏の酸っぱおいしい果実のなかでも、こういった手で摘まめる焼き菓子と特段相性が良いレモン。甘味に負けない、けど主張しすぎない酸味と香り。


いや、この合わせ方。

甘味に負けないどころか、甘味を昇華させている。


この瞬間の幸せを演出するために天上の神は太陽に灼熱を放たせ街を地獄とさせているのではないか…とすら感じてしまう。


そう妄想している間にも、焼き菓子のガワを覆っていた膜は溶けていく。

シャリっと歯にあたり、ほろほろ、じゅわー、とほどけていくさまがなんとも心地よい。ほどけだすレモンの香りに、乳酪の効いた生地のうまみが加わる。秘められし黄金の生地が、レモンの香りと酸味に引き立てられより一層濃厚に感じる。


恍惚としているうちに口のなかが空っぽになっている。

もうひとくち食べたい。あのしゃくりとした感動を再びあじわいたい。


だがどうしたものか。

この焼き菓子、あくまでサービスというだけあってそう大きいわけではない。ニ、三口でなくなってしまう。ああどうしよう。


なかば無意識にグラスの水出しコーヒーをひとくち。

ああやはりここの水出しはおいしい。私は家でも旅先でも隙あらばとこの黒い液体を飲んでしまうし、何だったら朝いちばん自分でも淹れたりする。家に帰ってからも自分で淹れたりする。それでも、家に帰る途中で寄ってしまうのはここのコーヒーは別腹だからだ。


冷えたコーヒーはそれだけで香りが薄まって感じられるものだが、ここのは冷たくとも、どこかふくよかなお味なのだ。


慣れた美味にひとごこち付くも、視線は再び焼き菓子に向く。

あのしゃくりとした初手の感動を忘れられず、これまた気付けば小さな黄金(コキーユ)を手にし、口に含んでいる。


肌寒い季節はあたたかいコーヒーと素晴らしいハーモニーを奏でてくれる小さな黄金(コキーユ)が、こんなにも今私に幸福をもたらしてくれるなんて、夏の精霊ですら想像できただろうか。


しゃくり、ほろり。じゅわっ。




「――本日のマドレーヌ・シトロンも、たのしんでいただけたようで何よりです。」


あまりの幸せに、会計を済ませた記憶もなく、いつの間にか店の間口でマスターに話しかけられていた。


そうか。

今日の至福には名があったのか。

マドレーヌ・シトロン。その響きだけでふたたび天国を見ることができそうな、甘美な字列だ。


あの感動をあたえてくれたマスターに余すことなく感謝の意を伝えたい。産地季節に合わせ常に最適なコーヒーを淹れるだけに留まらず、さらにはあのような美味を生み出すとは。前から常々思っていたのだが、このマスター、只者ではない。


ああ。今日の新作の感想を、正直に、詳らかに話してしまいたい。


一方で私にも一応体面がある。私が恍惚としているうちに客が増えた店内に数名顔見知りもいる。あれらから見た自分の評判、見た目は重々理解している。だからあまり素直に喜びを表現するのも憚られるのだ。


ど、どうしたものか。


「…ああ。マスターの淹れるコーヒーが好きで通わせてもらっているが、たまにはああ言うのも悪くない。」


ち、ちがう。もっと、もっとあの感動を伝えたいのに…!


「ええ、わかっております。カッソナードさまは当店でも指切りの珈琲愛好家(アフィッショナード)。」


くすりと笑いながら、男のくせにやたら小綺麗…

いや、なよやかだ。

男のくせにどこかなよやかなマスターはさらりと付け加える。


「だからこそつい腕試しをさせていただいてしまうのです。季節柄、水出しに合うお口直しを用意したくて。珈琲を目当てにお越しいただいているカッソナードさまが完食できる甘味でしたら、ほかのお客様にもきっと満足いただけますから。」


なんてことだ。

マスターの発言と、ぶすくれ顔の店員がテーブルを片づけている様子を見るに、いつの間にかコーヒーもお代わりしていたようだ。まったく記憶がない。


それにしても本当に不思議だ。こちらがこうやって言葉に詰まろうとも、気まずくて内心吐きそうになっていても。マスターはするりと心地よい発言で、気持ちよく送り出してくれる。


出来た人物だ。

こんなにも素晴らしい人物だからこそ、あんなにもうまいコーヒーを、あんなにも幸せな甘味を創り出してしまうのだろう。


「腕試しなぞと、言い過ぎだ。また邪魔させてもらう。」


「ええ。またのお越しお待ちしております。」



足取り軽く帰路に着く。


マスター、今日もありがとう。明日もトラブルが無ければ伺わせてくれ。

マドレーヌ・シトロン、来年の夏も会えるのだろうか。来年と言わず、明日にでも会いたいものだが。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 意識高い感じ。小難しいおしゃれな響きから、少しずつシンプルになっていって、結局分かり易くレモンと名言するところ。 [気になる点] ジャンル。ファンタジーなのかは疑問。 [一言] ファンタジ…
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