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エッセイ

コロナ禍で徒然、思うこと

作者: 月森 コウ




 先日、ニュースで見た街中のコメントが衝撃的だった。


 緊急事態宣言、初日・・

「閉じこもり過ぎるのもストレスが溜まって良くないんで……」


 コロナへの不安や怯え、憔悴しょうすいのかけらもない、天真爛漫な笑みだった。

 今、医療関係者は憔悴し、苛立ちながらも必死に仕事をしているかもしれない。

 たくさんの飲食店の人たちが、またも感染拡大したせいで自粛しなければならず、苦しんでいるかもしれない。

 この自粛でなんとか終わらせてくれ、これ以上、感染拡大させて、こちらへ迷惑をかけないでくれ、とやりきれない思いで、無警戒の人たちへ憤りを感じながら、祈っている人たちがいるかも知れない。


 そんな人たちのことが頭を過り、その落差になんとも言えない気持ちになった。


***



 対岸の火事。

 ピンとこない。

 周囲に感染者がいないから、どうしても他人事ひとごとになる。


 そんな発言がよく耳に入ってくる。

 こんなにも政府が、医療関係者やマスコミが必死に訴えているにも関わらず、だ。

 だが、この世界的な厄災の中で、今まで通り、あまり危機感を感じずに過ごせているのは誰のお陰だろうか。


 身近な所では、普段使っているお店。その企業努力のお陰だろう。会社のトップがコストをかけて対策のための物資をつぎ込み、末端まで指示を出し、徹底させるために次々と手を打っているのだろう。その物資だって、高騰し、品薄状態のものをかき集めるため、予算も考えながら四苦八苦している人たちがいるかもしれない。そのお店の従業員も上からの指示を必死で守り、一気に増えた多くの作業を毎日毎日、文句を言いつつも地道に繰り返しているのだろう。


 感染者が出た時に、濃厚接触者を特定するために動き、感染者に細やかな指示を出し、蔓延を止めるため動いてくれる人たちがいる。

 そして、感染した人を安全に治療するために、ミスが許されない、命を預かる現場で必死に働いている人達がいる。


 そういった人たちが頭を悩ませ、苦労し、必死になっているからこそ、私たちは危機感が麻痺するほど、いつもどおりの生活をしているのではないだろうか。

 そういった人たちへの感謝があれば、苦労している人たちへの思いやりの心があれば、何かする時に、「申し訳ないから、やめておこうかな」「自分の行動が迷惑をかけてしまうかもしれないな」と、躊躇する心が生まれるものではないだろうか。


 このままでは医療崩壊する、と神経をすり減らしている人が。

 コロナで亡くなった方と、そのご遺族の悲しみを目の当たりにし、無力感を感じる人がいる。

 自分は今日、どこへ行くのか。何をするのか。

 彼らの目をまっすぐ見つめ、説明できないことは控えるべきだと思うし、彼らを見て見ぬ振りで、自分の欲求を優先させるような人間にはなりたくない、と思う。


***




 人は小説に出てくる人物を、主人公と一緒になって批判するものだ。

 けれど、現実での自分の立ち位置が、批判される登場人物と同じだと気づける人は少ないように思う。

 誰だって、自分は正しい、と考えるものだ。もし、あなたは間違っている、なんて言われようものなら、顔を真赤にして反論するだろう。


 例えば、貴族が得ている全ては、平民の努力の結果なのに平民を蔑ろにしている、とか。

 中央の貴族たちは安全な王都でぬくぬくと過ごし、辺境という最前線で魔物たちと命がけで闘う冒険者を、騎士たちを蔑ろにしている。彼らの努力を無にするようなことを平気でしている、とか。

 家族に搾取されているヒロインの不幸の上で、自分の嗜好を満足させ、日常を謳歌する妹とか。

 ギルドに注意されても、無視して高難易度ダンジョンに入ってしまう貴族のパーティとか。

 そういった、自分のものさし・・・・を基準に行動し、他人の境遇や心に無関心な人々は、このコロナ禍の現実に通ずるものがあるのではないだろうか。


 他人の努力とか、苦しみ、悲しみ、苛立ちを。

 想像してみよう、と足を止めることもせず。

 思い巡らすこともせず。

 心を痛めることもせず。

 ただただ、自分の欲求に忠実。

 他人に厳しく、自分に甘い。

 そういった人間が口にする言葉は、だいたい決まっている。


「でも」「だって」「このくらい」

 ――理屈を捏ねて、自分を正当化する。


 「平気、平気」「大丈夫だって」

 ――根拠のない自信。


「気にしすぎ」「真面目すぎ」「あいつ、面倒くさい」「口うるさい」

 ――他人を貶めれば、自分は正しくなると信じてる。


 自分は本当に主人公サイドの人間だろうか。

 自分勝手で浅慮な、主人公たちに迷惑をかけるタイプの人間じゃないだろうか。


 他人に感謝できない、配慮ができない人間になりたくなければ、一度、手を止めて、思考を巡らせることが大事なのかもしれない。


***




 皆、もしも自分が感染したら、との想像が足りないように思う。


 社交的なある女性。彼女は友人と食事をした後、感染が発覚。

 友人から「あんたのせいで濃厚接触者になってしまったじゃない」と心無いセリフを言われたことがテレビで取り上げられていた。

 ちゃんと断らなかったくせに、相手のせいにして罵倒する人も。

 一番リスクが高いと言われている食事に大事な友人を誘う人も。

 私にとっては同類に見えたし、目先の楽しみに惑わされて、人々の信頼を失い、自分の未来の不幸の確率を上げてしまった可愛そうな人だと思う。


 そして、ある一節を思い出した。




 金は借りても貸してもいかん。

 貸せば金も友人も失い、

 借りれば倹約精神が鈍る。

 何より肝心なのは、己に誠実であること。

 そうすれば、夜が昼につづくように

 誰に対しても誠実にならざるをえない。――シェイクスピア(訳 松岡和子)



 これは言葉を入れ替えれば、そのまま、今の状況に通づるものがあるように思えた。

 今は自分を律し、自粛する時なのではないだろうか。

 律することができなければ、自分の健康も友人も失い、自身をコントロールできない人間性を助長する。

 何より大事なのは、面倒がらずに、自分の健康と未来を大事にするために必要なことを真剣に考えること。

 そうすれば、自分だけでなく、他人の健康や未来へも考えが及ぶようになるのではないだろうか。

 自分が真剣に災害やコロナに対して危機感を持ち、勉強し、実際に対策をとっている人は、周囲の人にも教え、心配して危険を指摘するものだ。思いやりとは自分を大切にして初めて発揮されるのかもしれない。自身のために真面目になれない人間は、他人をないがしろにしていても、気づけないのだろう。



 感染した場合、起こりうる悲惨な未来はいくらでもある。


 例えば、ママ友同士が子連れでファミレスに行く。

 または、ママ友が複数人でマスクを外し、食事しながら数時間にわたってお喋りする。

 もし、それが原因で子供が感染し、入院。子供に後遺症が残ったら、旦那さんとの関係はどうなるのだろうか。


 もし、ゴールデンウィークの約束を取りやめず、友人と遊びに行ったら。

 後日、「あなたが誘ったせいでうちの母親が死んだ」と責められたら?

 自分の母親がコロナで亡くなり、自粛中に遊び歩いていたことを、父親や兄弟に責められたら? もし、その場では責められなくても、何年も経ってから、喧嘩した兄弟にそのことで本当は憎んでいた、と言われたら?


 医療従事者だって、人間である。

 多大なストレスを抱え、心の余裕を失っているかもしれない、一個人である。

 もし、バーベキューで飲酒した団体がクラスターとなり、その一員のあなたが入院したとして。

 あなたは数日間もの間、治療を任せる医療関係者とどんな顔をして接すれば良いのだろうか。


 自分がかかる可能性。

 自分を介して他人が感染したことを知る可能性。

 その確率は低いのかもしれない。


 けれど、泥棒は必ず捕まる、という話を聞いたことはないだろうか?

 理由は簡単。

 捕まるまで、盗み続けるからだ。


 自分が感染して苦しむまで。

 自分が感染を広げて誰かを殺すまで。

 自粛もせず、咳エチケットを守ることもせず、正しい手洗い、アルコール除菌の仕方も知らないまま、コロナが収束するまで過ごし続けるのだろうか。


 もしかしたら、コロナはなんとか無事にやり過ごせるのかもしれない。

 けれど、その後も家庭で、会社で、地域で。

 忠告を無視する。

 自分には関係ないと、無関心を貫く。

 真剣に考えることを面倒がって、おざなりにする。

 その選択を積み上げた先にあるのは、どんな未来だろうか。


 今、目の前にある選択は感染予防についての選択に見える。

 けれど、本当にそうだろうか。

 今、選ばなければいけないのは、自分がどんな人間であるか、どんな人間になりたいのか。それが浮き彫りにされ、未来の自分のあり方を決める選択なのではないだろうか。



***




 ネット上には、政府やコロナの第一人者、マスコミは過剰に騒ぎ過ぎだという意見を拡散している人間がいる。

 本当は、コロナは大したことじゃない、というのだ。


 どちらが正しいのか、それはこの際どうでもいい、と私は思う。

 問題は、危険の可能性を虱潰しにしていくのが正しいのか、大丈夫なはずだ、という確実性のない話に迎合し、対策をしない方が正しいのか、ということだ。


 人の命がかかっている時に、不安要素を虱潰しにしないのは、私としては容認できない。また、仕事をしていれば、大抵の人が会社の責任として、事故などの可能性を潰すためにルールを更新していくことに慣れているものではないのだろうか。対策を取ることが、いわゆる「常識」という、社会的な行動ではないかと思う。


 人は我儘わがままな生き物だ。

 自分の意志と行動に規制が入れば不快に感じ、文句を言う。

 また、自分の「我儘な心」に味方するような意見があれば、何も考えずに飛びついて、やっぱり自分は正しいのだ、と偉そうにしがちである。

 そういった自分を客観的に眺め、律することができない人たちが、コロナ禍で浮き彫りにされているように思う。



 第一、国の方針はすでに政府が決めている。

 コロナが危険か、危険じゃないのか、それは問題ではない。

 人命を危険にさらさないために、非常に危険なものとして対策をとる。トップがそう決めた後に、影でコソコソと反対意見を一生懸命に広め、自分と同じ意見の仲間を増やすことに何の意味があるのだろう。決してその意見は多数派にはならないし、公的に認められた専門家、国でも最先端を行く人々と話し合っている政府の人間にとっては、取るに足らない意見だろう。

 一生懸命、ネットで意見を上げれば、反対の意見の人間の足を引っ張ることができ、政府の方針に従わない自分を正当化できる、ぐらいの考えなのだろうか。


 正直、そういったコロナ軽視の思想を広められ、一番困るのは経済界なのではないだろうか。特に、自営業の飲食店が一番、苦しむことになるように思う。


 政府はコロナを危険視し、感染が拡大すれば緊急事態宣言を出す、と決まっているのだ。

 その状況で、コロナを軽視し、自粛せず、感染防止対策をまともに取らない人が増えれば増えるほど、感染は拡大し、何度も何度も、連休という稼ぎ時に緊急事態宣言が出てしまう。そして、毎回、連休に遊びに行くのを止められるから、我慢できずに無視する人たちが出てくる、という悪循環だ。

 もういっそ、感染拡大していなくても、連休直前に緊急事態宣言を出しておけば連休は自由にできるのではないか、という気にもなってくる。


 感染を阻止する、というのは、緊急事態宣言を阻止する、ということ。

 経済を守る、ということに繋がるのではないだろうか。

 「お店を応援するため~」と言い訳に使う人間も多いが、応援するなら持ち帰りで注文すればいいし、一人で行けばいい。


 アルコール除菌はおざなりで手のひらのみ。指先は除菌しない。アルコールを使っているふりで済ませる、アルコールの量が適量でない。

 マスクを外す、鼻を覆わない。しょっちゅうマスクの表面を触り、その手で色々な物に触る。

 くしゃみ・咳をするときに、マスク・ハンカチを使わず手で抑え――手で何%の飛沫が抑えられているのかは疑問だが――、その手で様々なところに触る。


 基本的なことができていない人が、とても多いように思う。

 今は、検索すれば情報がすぐに見つかる時代だ。

 感染防止のために必要なことを調べる。気をつけて行動する。

 たったそれだけで、次の連休は遊びに行けるかもしれない。

 また? と文句を言う前に、自分にできることは意外と多いのではないだろうか。


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