挽歌らしいね、八番歌。
文法篇に比べると、論理の飛躍というか、偏見と妄想が過ぎる気がしますが、楽しんでいただけたら幸いです。
和暦から西暦への換算については、
「和暦から西暦変換(年月日) ‐ 高精度計算サイト」様(https://keisan.casio.jp/exec/system/1239884730)のお世話になりました。
『万葉集』巻一に収録されている「八番歌」(=八番目の和歌)。
「原文」扱いされている「漢字万葉仮名混じり文(ただし漢字はすべて新字体に改める)」で表記すると、以下のようになります。
「熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許芸乞菜」
これを「文法」第一主義で翻訳しようとすると、
「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ乞はな」
――と読む以外の選択肢がないにもかかわらず。
「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎいでな」
文法ガン無視ご都合主義の「契沖版」で親しまれている、「勇壮で華やかな」一首です。
この「最も名高い翻訳案」、実は八番歌にまつわる諸々のうち、特に重要な二点を無視することで、成り立っています。一つが以前お話させていただいた「文法」、もう一つが今回お話させていただく「左注」(和歌の左側にある注だから左注)です。
左注は以下の通り。
右(の和歌は)、山上憶良の『類聚歌林』で調べてみると、言うことには、
(右、山上憶良大夫の『類聚歌林』に検すに、曰く、)
【右、検山上憶良大夫『類聚歌林』、曰、】
「舒明天皇九年十二月十四日(637年1月4日)に、天皇と大后は伊予の湯の宮に行幸した。
(「飛鳥岡本宮御宇天皇元年(=舒明天皇元年。629年)己丑(=六十干支の二十六番目)、九年丁酉(=六十干支の三十四番目。先述の己丑から八年後だということが分かる)の十二月、己巳朔壬午(=六十干支の六番目・己巳を一日目とした時の、六十干支の十九番目・壬午の日。十四日目)に、天皇大后伊予の湯の宮に幸す。)
【飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月、己巳朔壬午、天皇大后幸于伊予湯宮。】
斉明天皇七年一月六日(661年2月10日)に、船は西に向かって出発して海路に就いた。
(後岡本宮馭宇天皇七年(=斉明天皇七年。661年)辛酉(=六十干支の五十八番目。先述の丁酉から二十四年後だということが分かる)の春正月、丁酉朔壬寅(=六十干支の三十四番目・丁酉を|一日目とした時の、六十干支の三十九番目・壬寅の日。六日目)、御船西征して始めて海路に就く。)
【後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月、丁酉朔壬寅、御船西征始就于海路。】
(同年一月)十四日(661年2月18日)、船は、伊予の熟田津の石湯の行宮に停泊した。
(庚戌(=六十干支の四十七番目。先述の壬寅から数えて八日後)、御船、伊予の熟田津の石湯の行宮に泊つ。)
【庚戌、御船、泊于伊予熟田津石湯行宮。】
天皇は「いにしえのなお残れるもの」を御覧になって、ただ今たちどころに感愛の情を起こす。
(天皇、昔日猶存の物を御覧じて、当時忽ちに感愛の情を起こす。)
【天皇御覧昔日猶存之物、当時忽起感愛之情。】
そういった理由によって(この)歌を作り、これを哀傷歌としたのである」と。
(所以に因りて歌詠を製り、之を哀傷とするなり」と。)
【所以因製歌詠、為之哀傷也」。】
言うまでもなく、この歌は斉明天皇の御製である。ただし、(石湯の行宮で詠まれた)額田王の歌は(この歌とは)別に四首ある。
(即ち、この歌は天皇御製なり。但し、額田王の歌は別に四首あり。)
【即、此歌者天皇御製焉。但、額田王歌者別有四首。】
左注を長々と眺めて参りましたが、「いにしえのなお残れるもの」を御覧になった斉明天皇が「哀傷歌(=挽歌=鎮魂歌)」として八番歌をお詠みになった、というのが左注のスタンスである、ということはご理解いただけたかと思います。
そこで気になってくるのが。
女帝は何を見たのか。
誰への哀傷歌なのか。
この二点なのではないかと思いますが。
これらを熱く語る解説書の類いというものを見かけることは、実はほとんどありません。
というのも、基本的には左注をガン無視なので、「女帝は何も見ていないし、そもそも哀傷歌などではない」というスタンスが基本だからです。
なんたって、主流が文法ガン無視左注ガン無視の契沖版八番歌ですから。
極々たまに、左注がつまみ食いされることはあるものの、その場合は判で押したように「(夫である)舒明天皇との行幸(二十三年前)の際に二人で見たもの」を懐かしく見、「舒明天皇への哀傷の気持ちを詠んだ歌である」と解されるのが一般的です。
正直に言って、違和感しかありません。
この違和感はどこから来るのかというと。
「有間皇子」ってご存知ですか?
「御霊信仰」ってご存知ですか?
ご存知ないという方のために物凄くざっくりと要約すると、有間皇子(六四〇年~六五八年十一月十一日。斉明天皇の甥)とは「若くして処刑された人」です。そして、「酷い死に方をさせられた人は怨霊となって祟るものだ」というのが御霊信仰です。もしもその祟りを回避したかったら、「景色の良い場所に豪勢な墓を作って埋葬し直す」とか「国家レベルで盛大に葬式をやり直す」とか「専用の神社に神として祀って崇める」とか、早良親王(七五〇年~七八五年十一月八日)しかり井上内親王(七一七年~七七五年五月三十日)しかり菅原道真公(八四五年八月一日~九〇三年三月二十六日)しかり、あの手この手で死者供養を大々的に行なうことこそが有効だと信じられていたわけです。「高名な歌人が死者と関係の深い場所まで出向き、死者にちなんだ内容を詠み込んだ歌を作って捧げる」というのも「死者の心を慰める」もしくは「死者の怒りを鎮める」という意味で大変に有効だと考えられていた方法の一つでした。とにもかくにも手段を択ばず「その人の魂を鎮め慰めるしかない」と全身全霊で信じられていた時代があったわけです。
実際、八番歌も集録されている『万葉集』には、皇子本人が護送途中に詠んだ自傷歌(死にゆく自分を悼む歌)(巻二・一四一~一四二番歌)は元より、皇子の死から数十年も経ってから処刑地となった「紀伊(現・和歌山県)」の「藤白の坂」を訪れた「後世の人々(長忌寸意吉麻呂(巻二・一四三~一四四番歌)・山上憶良(巻二・一四五番歌)・柿本人麻呂(巻二・一四六番歌)・持統天皇(巻九・一六七五番歌)など)」の手になる「皇子の死を悼んで詠んだ『哀傷歌』」もまた、いくつも収められています(有間皇子自身の和歌や関連の哀傷歌が具体的にはどんな歌なのかを知りたいという方は、『万葉集』(巻二・巻九)そのものを参照されたし)。
何を言いたいのかというと、つまり、わざわざ「伊予を訪れた時に詠んだ哀傷歌」と称する以上は、「(処刑先もしくは流刑先の)伊予で非業の死を遂げた誰かの魂を鎮めるために詠まれた歌ではないか」という偏見が捨てきれない、ということなんです。有間皇子の例があるだけに。
勿論、舒明天皇が伊予の地で非業の死を遂げたというのならぴったりだろうと思いますよ?
左注を読んで偏見を刺激された身としては、この先の航海の安全を祈願するために、祟り回避を目的として、「伊予の地で非業の死を遂げたことで当時の人々目線では地縛霊化してしまっていると信じられていた怨霊」に対し、「魂の解放を謳った歌」なのではないのかな、と思ってしまうわけです。その解放が「成仏」を意味するのか、「帰還」を意味するのかは分かりませんが。
そしてそのつもりで八番歌を読み直すと、
「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ乞はな」
これが怨霊目線の歌ならば、
「熟田津で船に乗って配所(=流刑地)から抜け出そうと、(私が)月の出(=夜)を待っていると、満ちていた潮も引き始めて船出にふさわしくなってきた、さあ、今こそ漕いでおくれ」
怨霊の船出を見守る女帝目線の歌ならば、
「熟田津で船に乗って配所(=流刑地)から抜け出そうと、(あなたが)月の出(=夜)を待っていると、満ちていた潮も引き始めて船出にふさわしくなってきた、さあ、今こそ漕いであげておくれ」
とかいう意味になっちゃうんでしょうかね。
ちなみに、死者なり怨霊なりによる「幻の船出」(魂の解放?)を歌っているというのであれば、「月待つ」は「月の出を待つ」でも「月が(雲か何かに)隠れてしまうのを待つ」でも成り立つような…?
まあ、該当者は、
軽大娘皇女(生没年不明。允恭天皇(三七四~四五三年)の第二皇女)(『日本書紀』説)か、
木梨軽皇子(生没年不詳。允恭天皇(三七四~四五三年)の第一皇子)(『古事記』説)くらいしかいないんですが。
伊予国=流刑地のイメージが強すぎました。