昔話
十年と少し前まで生活していた部屋は、物置部屋特有の停滞した空気が我が物顔で室内をうろうろしていた。前の主が戻ってきたというのに、気を遣うこともなく喉へと迫ってくる。「げほっ、ごほっ」換気しよう。
窓を開け、差し込む陽光に目を細める。じりじりと瞼を焼く熱から逃げるように室内を見回した。積まれた段ボールには、おそらく俺の私物が無造作に詰め込まれているのだろう。その隣には両親の衣装ケースが並んでいる。パッと見でニットなどの厚手の冬服が入っているのがわかる。父も母も共に物を捨てら
れない性格なものだから、結構な量がある。俺は親を反面教師にしたのかね。
そこらの段ボールの上に腰掛けて、懐古の念にしばし浸る。この部屋に特筆すべき思い出があるわけではない。けれど、小学生にあがってからここをあてがわれ、そこからは実に十二年間を過ごした。大げさに聞こえるかもしれないが、この部屋はまさに俺にとっての城だった。
元々アウトドアな人間でもないわけだから、必然、室内で過ごす時間は多かった。ついぞ友人や女子を部屋に通すことはなかったのは青春的には悔やまれる。
耳を澄ませば、外からはセミに混じって鳥の木を叩く音。田んぼの周りではしゃいでいるのだろう、子供たちのはしゃぐ声。風に木々が揺れる音。都会とは違う音に満たされた世界の輪郭をなぞる。
心が次第に落ち着いていく。ゆったりとした時間の流れに身を任せる。ああ、やっぱり。都会は息苦しい。常に急かされている気分だ。その中に融けこんだ自分が言うのもなんだが、どうしてあんなに急いでいるんだろうか。周りを見る余裕もなく、心の拠り所もなく、精神をすり減らして。自分さえわからないままに。
こらえきれずにこぼれた欠伸がひとつ。瞼が重くなるのを感じたが、抵抗はしなかった。長旅で、自身が気づかない程度には疲れていたんだろう。段ボールに背中を預けて、まどろみに沈んでいく。
ぼかしフィルターで濁された背景は天井のようだ。
絵が描いてあるようだが、ピントが合わずにぼんやりとしたままで判別できない。どうやら膝枕をされているようだった。覗き込む姿もまたぼんやりとしているが、輪郭や布地越しに伝わる太腿の柔らかさから女性だとわかる。
口元がかすかに動いているようだが、相変わらず一切の音が伴わない。
いつもと変わらぬ夢に、いつもと変わらぬ言葉。
変わらない、変わらないはずだったのだ。
だが、激しい違和感が俺の背筋を鋭く迸った。
――――ごめんなさい。
意識はそこで浮上する。
「ごめんなさい……先輩、ごめんなさい……寝顔、可愛すぎ……あとでお叱りは受けますから……はぁはぁ……」
…………。
「何してる」
「はあっ、せせせ先輩、起きてしまったんですか」
目に見えて狼狽している三上をじろりとにらむ。
「ああ。で、何してる」
三上は手に持ったスマホをばつが悪そうに背中へと隠した。
「先輩の寝顔がですね、その、超キュートでしたので、フォトジェニックな感じで」
「消せ」
「嫌です!」
データを抹消してやろうと手を伸ばすが、一歩後ろへと退かれてしまう。小動物のごとき素早さで逃げ回られるともうどうしようもない。空を切った手を力なく降ろし、さっきまで見ていた夢を思い出す。いつもはすぐに忘れてしまう内容が、今回はかなりハッキリと覚えていた。
夢の最期のセリフ、こいつの独り言が割り込んできたんじゃないだろうな……。
「先輩」
「何だよ」
「私は、先輩に逢えてとっても幸せですよ」
「いきなりどうした」
「いえ、先輩の幼少の写真なんかをお母さまに見せていただいて」
「おぉいゴラぁ! 母さんふざけんなよマジでっ!」
肖像権とかで文句言ってやる。脳内で果敢に抗議する自分を思い浮かべる。だが、『昭三券ってなんですかぁー昭三さんを一日こき使える便利なチケットですかぁー?』と一瞬で地に臥せられてしまった。脳内でさえ全く勝つビジョンの見えない母親である。
「先輩、これからどうしますか?」
「ホテルのチェックインまではまだ時間があるから、少し休んで行くか」
三上は小さく頷いて、ぐるりと室内を回った。いや、室内で回った、と言ったほうが正しいか。文字通り身体ごとぐるりと回転し、しばった髪が遠心力に振りまわされる。
「先輩はここで育ったんですね」
三上は、衣装ケースと段ボールに支配された部屋に、かつての内装を思い浮かべているようだった。決してこだわりのある部屋ではなかった。ベッドがあり、机があり、テレビがあり、ゲーム機があり、本棚があり、エロ本はベッドの下の衣装ケースの奥。そんなところまで無個性な部屋だった。それも当然だろう。こんな田舎では家具や何やらを買える場所がない。バイトをしていたわけでもない俺には、そもそも買うためのお金もなかった。
「友人らしい友人はついぞ招くこともなかったな」
なんともしょっぱい過去だ。もう少し人生の春について、思慮をめぐらした上で前向きに泥臭く足掻いておけば良かったとつくづく思う。あの頃の俺は何を思い、生きていたのか。過去に戻れるというなら、とりあえず正座をさせて叱り飛ばしてやりたいと強く思う。
三上は、そんな俺の顔を見て小さく笑った。
「では、私が先輩の初めてをもらったということですね。友人枠というよりは、嫁枠、ですけど」
いたずらっ子のようにニッと歯を見せて破顔する三上に、呆れて何も言えなかった。
他愛のない会話は、人工甘味料のような甘さを漂わせながら空気にゆっくりと融けていった。三上はねだるようにして次から次へと俺の昔話を訊いてきた。
高校にあがるまで焼肉というものを秘匿されていたことや、お小遣いは出来高制だとか、学生の頃はズボンをだぼっと着るのがカッコいいと思っていたとか、アシンメトリーに謎の魅力を感じて片方だけめちゃくちゃ髪の毛を伸ばしていた時期とか(さすがに黒歴史なので写真は残っていない)、そんな二時間もすれば忘れてしまいそうなものばかりだった。
そんな奥様方の井戸端会議なみに中身のない話を、三上は熱心に、目を輝かせながら聴いていた。
「あ、もうこんな時間なんですね」
ちらりと左腕の時計を見れば、話し始めてから一時間半も経過していた。道理で喉が渇いているわけだ。
身支度を簡単に整え、俺たちはホテルへと向かうことにした。