向き合うべきもの
小さめの旅行鞄には、着替えを数セット、整髪料、道中に読む小説を二冊詰め込んだだけだ。二泊三日なんてそれだけあれば十分だろう、というのが俺の考えである。
元々、荷物が少ない人間で、海外旅行なんかも鞄ひとつで収まることが多い。対照的に物が多い友人からはよく「鞄はその人の器の大きさを表すんだよ」などと揶揄されるのだが、それなら俺は小さい器で構わない。重いものを持って歩き回りたくないのだ。
セミの鳴き声によるコンサートは視聴者のことなんて眼中に無いようで、周りの声や駅内アナウンスすらかき消してしまう。いつまでもこんなところにいたら鼓膜がどうかなりそうだ。腕時計に視線を下ろしてため息をこぼす。三上のやつ、いつになったら来るんだ……。
待ち合わせは九時だというのに、時計の針は九時二十分を示していた。時間が押しているのだが、一向に待ち人は現れない。自分がついてきたいと言っておいて遅れるとはいったいどういう了見だろうか。文句の一つでも言ってやる。
「――ぃ、――たせ――」
セミの鳴き声に混じって、か細く何かが聞こえた。遅れて肩を叩かれ、振り返る。
「おまたせしました! ごめんなさい!」
大層なキャリーケースを引きずった三上が、走ってきたのであろう珠の汗を額に滲ませて頭を下げた。
ノースリーブのパーカーに、ショートパンツ。すらっとした手足を惜しげもなくさらした服装は、日に焼けるということを知らない白さだ。髪は仕事と同じようにうなじあたりでまとめていた。いつもと違うのは、左手にまかれた赤と白のミサンガぐらいか。
「先輩、どうかしました?」
「いや、女子高生かと思った」
服装のセンスが若い。というより、幼い。
「……先輩の言う”女子高生”は別に褒め言葉ではなさそうですね。日ごろスーツに見慣れてるからそう思えるだけですよ」
唇を尖らせて、少し拗ねたように抗議の声をあげる三上。その仕草はまさに小動物のそれで、思わずほっぺをつつきそうになった。慌てて指をひっこめる。
夏の熱気に、どうやら俺の頭もゆだっているようだ。熱を冷まさないと、無意識に変な引力に引き寄せられてしまうかもしれない。
地元に向かう電車は、ローカル線を乗り継ぎ三回の計五時間強。一時間もすれば三上は想像通り飽きたらしい。ふくれっ面でダダ絡みされた俺の気持ちはどうか察してほしい。
窓の外では田園風景が広がり、電車は水路の隣を走る。舗装された長い一本道と並走するように、俺たちの視界も流れていく。空に浮かぶ雲が風に流れるように、都会の喧騒も遥か遠いところへと置き去りにしてきた。こうして改めて見ると、そこまで田舎じゃないと言い聞かせていた地元は、紛うことなきド田舎だった。
交通系ICカードなど提示しようものならキセル乗車と扱われて料金を二重で払わされること間違いなしの有人改札を抜ける。既に体力を消費してしまった。
容赦なく降り注ぐ日差しに、全身の水分が蒸発するような錯覚を抱く。隣を見れば、同じようにぐったりとした三上の姿があった。
財布から五千円ほど取り出して、突き出した。
「……なんです、このお金」
「このお金で、引き返してもぞぇっ!」
五千円をひったくられた上に全力チョップをいただいた。舌を噛んでしまい、鉄の味が口内を満たした。せっかく気遣ってやったというのに、この仕打ちである。
「このお金で冷たいものでも買いましょう」
最近できたというコンビニ(聞くところによると午後八時には閉店するらしい)にキャリーケースをごろごろ引きながら入っていく三上。あいつといるとどうにもペースを乱されてしまう。困ったものだ。
立ち止まっていると、頬から顎へと汗が伝った。何はともあれ、まずは涼みに行こう。
両開きのドアを開けて、店内へ入る。空調が効き過ぎているようで、身体がぶるりと震えた。体温調節できなくなりそうだ。
大手コンビニなどでは断じてなく、全体的に土気色した配色のそのコンビニ擬きは、品ぞろえも決して褒められたものではなかった。ひとまず冷蔵のショーケースから、あまり見たことのない炭酸飲料を取り出した。ラベルの配色もなんだかパッとしない。百円の自販機にでも投げ売りされてそうなデザインだ。
「先輩、こっちこっち」
振りむけば、レジ前で三上が俺に手を振っていた。近寄ってみれば、その両手には大量のドーナツが抱えられている。こんな炎天下でそんなもの食べたら一瞬で干からびそうだな、とぼんやり考えた。
「私の分も飲み物買っておいてください。見てのとおり、両手がドーナツで塞がっておりまして」
移動で突っ込む体力も失ってしまった俺は、特に苦言を呈するでもなく再び飲料の前へと向かう。あいつ、何が好きだったっけ。イチゴミルク?
イチゴミルク、置いてっかなーと物色するが、それらしいものは見当たらない。しかたがないので俺と同じものを買っといた。旅は道連れ世は情け。あれ、意味が違う気がしないでもない。まあいいか。
レジでは、店長らしきおじさんが新聞を読んでいた。客を歓待するつもりが欠片も感じられない。田舎特有の緩い空気は、都会に慣れてしまった人間からすれば逆に新鮮で心地よい。
支払いを済ませて、外へ出る。「ありがとよー」というこれまた緩い定型句を背中に浴びて、俺たちは再び太陽の下へと歩み出した。
「はい、おひとつどーぞ」
「……」
手渡されたドーナツを受け取り、代わりに飲み物を渡す。三上はラベルを一瞥したあと、目に見えてがっかりした。せっかく買ったんだからせめてもう少し隠せよ、と思わないでもない。
「悪かったな、イチゴミルクは売ってなかったんだ」
袋を掲げてみせる。三上と同じものだ。
「お揃いならしかたないですね、えへへ」
本当に、単純というかなんというか。
二人同時にキャップを開栓。プシュッと爽やかな音が心地よい。まるで子供が大人の真似ごとをするように、自然と手に持った飲み物をぶつけ合う。乾杯。
喉は自分では気づかぬほどに渇いていたらしい。炭酸の弾ける爽快さと、喉を潤す液体に身体が喜んでいるのがわかる。
「……これ、何味ですかね。美味しいは美味しいんですけれど……」
「元気がハツラツしそうな飲み物にメロンクリームソーダを混ぜたような味」
「あー、なんとなく近いです」
しばらくの間、俺たちはドーナツをかじり、渇いた喉を謎の液体で潤す時間を堪能した。
田んぼに張られた水が陽光に煌めく。蛙の鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。
空は水色で、浮かぶ雲と相まってかき氷を連想させた。よく縁日で食べたな。ブルーハワイ味の練乳掛け。そういえばかき氷のシロップは色味と香料が違うだけでベースの味は一緒だと知った時は驚いたものだ。そんなことで議論を交わす、わたがしのような幼い頃を確かに覚えている。
都会に比べて湿り気のない空気を胸に吸い込んで肺を満たしていく。古き思い出が、ちゃんと胸の内側にまだ存在していることに安心する。
隣の三上をちらりと見れば、彼女はまだドーナツに夢中のようだ。黙っていると周りがほっとかないだろう無垢な笑みは、いまは俺だけが見ていられる。だからなんだという話だが。
さて、現在地から家まではまだまだ時間がかかる。これからのことを考えるようとして、急ぐ必要もないかと思考を放棄した。
十年前、か。十八歳の俺は、この景色に何を思って生きていたのだろう。