夏の部屋と過去
家まで送ってくれようとする三上と駅の改札で別れ、俺は帰宅した。ドアを開けるなり、こもった空気に出迎えられ顔をしかめる。窓を開け放って、換気を行った。夏の温い風が玄関から外へと吹き抜け、少しだけ頭がすっきりした。
カーテンを閉めて、姿見の前でワイシャツとインナーを脱ぎ捨てる。右腕の二の腕あたりから右胸、下は臍のあたりまで浮かび上がった大きな傷。それらは先刻まで存在しなかったもので。わずかな記憶と共に浮かび上がったもの。十年の間、色あせることなく、俺を縛り続けたもの。
いまだに十八歳の夏から一歩も前に進めていない。それをまざまざと見せつけられた気分だった。お盆の予定は、これで確定されたと言える。
一通りスケジュールを確認した後、別に報告する義務は全くないんだが三上に一報いれておくことにした。
『先輩、よもや私を置いて帰省するなんてこと、あるまいな?』
とりあえず駅で介抱してもらった手前、勝手に帰って何か言われるのを嫌ったわけだが、変な口調で返答が来た。ていうか何キャラだよ。
「おかしいな。何度考えてもお前を連れていく理由が皆目見当つかない」
『ご両親に挨拶をしなくてはなりませんからね』
「まだそのネタ引っ張るのかよ」
せっかくスルーしていたっていうのに。と、そこまで言ったところで、電話の向こうが静かになった。急に黙られると何かあったのかと気になる。少しだけ。
その微妙な間に、神妙な気配を感じ取った。思い詰めているような雰囲気だ。考えてみれば、別に目の前にいるわけでもないのに、どうしてこういう空気というのは伝わるんだろうか。すごいよな。
『先輩は、過去がとても大事なんですね』
咄嗟には、どんな意図で、どんな感情を乗せて三上が言ったのか、判断しかねた。
こればかりは、知らない人間には理解しがたいものかもしれない。自分の中に、知らない大きな空白の部分が存在する落ち着かなさを。自分の内側に、自分じゃない何かが棲みついているような不安を。それはきっと自分にとって大事な記憶だからこそ、余計に苦しい。知ろうと手を伸ばしても伸ばしても、煙のようにすり抜けて消えてしまう。
「ああ。大事だ」
他人から見れば、それは過去に妄執しているだけに映るかもしれない。過去にしがみついて、現実から目を逸らそうとしているだけに見えるのかもしれない。
ただ、この同僚にだけは、そう思われたくないな、と思った。
『だったら』
いつもの彼女からすれば、強い口調だった。
『だったら、なおさら私を連れて行ってください』
「理由を聞いてもいいか」
『身勝手な理由です』
「かまわない」
『……先輩が、独りでどこかに消えてしまいそうで』
以前、俺が怪我で入院した時にも三上はそんなことを言っていた。
仕事帰りに三上と帰っていたら、ドーナツ屋前の道路で車に轢かれたことがあった。ドーナツに夢中で気づかない三上を庇ったはいいが、その時に車と右腕が結構な勢いで接触してしまい、脱臼と打撲。小学生以来の入院で、しばらく不便な生活を送ったものだ。
「前もそんなこと言ってたけど、どこにも行ってないだろ?」
『……今回も行かない保障はないでしょう』
再び二人の間を沈黙がつないだ。気まずい。どうして沈黙しているだけで徐々に責められているような気分になるのだろうか。なにかそういう見えない攻撃でも受けているのか。女って生き物の神秘を垣間見た気がする。見なかったことにした。
「わかったわかった。止めないから、好きにし」
俺が最後まで言葉を言うのを待たずして、通話口からはいつもの能天気な声が剛速球で返ってきた。
『さっすが先輩、そう言ってくれると思いましたよ』
全部こちらの動揺を見抜いてのことだとしたら、こいつは本当に末恐ろしいやつだな。……しかし、奇妙な形だが、三上と実家に帰ることになるのか。
実家に帰った時の親のリアクションを想像してみる。
一、目をこすり「……現実?」と失礼なことを言う。
二、「どんな弱みを握られたの?」と失礼なことを言う。
三、近所一帯に触れ回り、どんちゃん騒ぎ。失礼なことをする。
……恐ろしいことに、一から三まで全部起こる可能性すらある。事前に連絡をしておこう……ただの同僚だと念を押したうえで。