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Summer Refrain -狐の嫁入り-  作者: ジャこ
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初めての鼻フック

「初めての鼻フックはせめて先輩の家が良かった」


 抗議の声は無視。いたたまれなくなって店を出た俺たちは、駅の外に設置されたベンチに腰掛けてドーナツを食べていた。あ、ちなみに持ち帰りは店員さんが気を利かせて箱に入れてくれた。その動きは迅速で、客を待たせない精神がしっかりと感じられたものだ。いやあ、教育が行き届いてるなあ。


 ……早く帰っていただきたいという思いがあったわけではない、よな。次からあそこに行きにくくなってしまう。まあ、毎回のことではあるから、ブラックリストぐらいには入っているだろうけど。

 駅を行きかう人の流れは、いったんの休憩をはさんでいた。五時から六時半ごろまでが帰宅ラッシュで、そこからは飲みの街となる。その間は驚くほどに人が通らず、そして、九時ごろから再び酔っ払いたちの帰宅ラッシュが訪れる。

 なので、駅の木製ベンチは、酔っ払いのベッドと化す前はカップル専用としてよく使われていたりするわけだ。


「先輩……私……もう、我慢できません……」


 日ごろキリッとしたハスキーな声が、角砂糖をふんだんに溶かした甘さで俺を呼ぶ。肩にかかる体重が重くなる。徐々に身体が倒れそうになる。このシチュエーションには見覚えがあった。既視感バリバリだった。愛読成年コミック・サガハルの作品に出てくるヒロインたちの決め台詞だ。家のベッド、公園のベンチ、露天風呂、とにかく女性側がこう、男をゆっくり押し倒して上から見下ろす、そんなシーンが。その決め台詞は決まって「もう、我慢できません」というもの。そして当然、この女はそれを理解したうえでそんな発言に及んでいるというわけだ。


「個人情報筒抜けか! なんで知っているんだよ!」


 ぐいっと肩から押し返す。わざとらしさを隠そうともしない芝居に付き合うほど暇でも純情でも経験不足でもない。


「ちぇっ、先輩の理解度テストなら満点を取れる自信があるのに」


 そんな自信は溝にでも捨ててしまえ。

 俺の反応を見るためだけにこういう衆人環視の中でおふざけするのはどうにかしないといけないな。きつく何か言ってやろうと決意し三上を見るが、彼女は既に興味を失ったのかドーナツをもふもふとかじっていた。かじるという表現が似合う食べ方で、髪の毛が身体に合わせて揺れていた。やっぱり小動物だ。


「お前って本当にドーナツ好きだよな」


 上機嫌に鼻歌でも歌いそうな様子の三上は、もふもふしていた口を休めて俺をちらりと見る。


「先輩が私にドーナツなんて麻薬のような食べ物を与えたからいけないんですよ。それに、顎クイッとか頭ナデナデとかオプションつけるもんだから、もう私ってばドーナツ好きになるしかないじゃないですか責任とってくださいよね」


「つけた覚えのないオプション料金で架空請求されている俺の身にもなってほしいもんだな」


 断じてそんなことをした覚えはない。最近、ドーパミンの出し過ぎか虚言妄言が増えてきた同期の身を案じて、良い腕の医者がいる病院を調べておこうかと考えた。脳外科になるんだろうか。


「時に先輩」


「なんだ三上」


 指についたクリームを舐めとりながら、三上が俺に視線を寄越す。赤い舌がちろりと動くその様子は精神的によろしくないほど煽情的だ。こんな意味の分からないやつでも、そういうところはドキリとさせられる。自分でも耐性が無いな、と悔しくもある。高校生じゃあるまいし。


「お盆休みのご予定は?」


 ああ、そういえば。


「……実家に顔出さなきゃなーとは思ってる」


「そうですね、私もそろそろご両親に挨拶をしなくてはなりませんからね」


 どうも耳の調子がおかしいようだ。年取ったせいだろうか。ジト目で見てくる隣のアホは無視して街並みに目と耳を投げる。行き交うタクシーの明かり、白く光る外灯、駅前ビルの液晶から漏れる音声、カップルたちの睦み言。意識を変えるだけで、世界はこれだけの情報に溢れている。


 生きている人間たちの往来に、俺はちゃんと紛れているのだろうか。あの夏に、一度死んでしまったんじゃないか。常に頭の一部が白く塗りつぶされた感覚は、奥歯にネギがいくつも挟まったようにもどかしい。


 手に持ったドーナツに視線を落とす。輪っか状で、中心には穴がぽっかりと開いている。穴はなんだかそれだけで人を引きこんでしまう謎の魅力がある。ブラックホール、ブルーホール、ダム穴、ドーナツ、それらは時に恐怖と高揚をセットで与えてくれる。さすがにドーナツに恐怖は感じないか。あ、油分量的に女子なんかは怖がるかもしれんが。


 ドーナツの穴からは舗装された地面が見え、描かれた模様をなんとはなしに眺めた。

 流線と流線が秩序と法則性を持って絡み合い、それらは生い茂る緑を連想させた。記憶とそれらの線は結びつき、脳裏をある情景がぼんやりと浮かび上がった。

 地元の景色にそれは似ている。背の高い草や生い茂る樹木の枝葉をかき分けて、俺は何かを追っていた。まるで探検でもしているような、非日常さを心の片隅に抱きながら。それにしても何を追っていたのだろうか。……ダメだ、思い出せない。


「――……あの日も、俺は……」


「どうかしたんですか?」


 覗き込む三上と目が遭った瞬間だった。

 全身が雷に打たれたかのような強い衝撃に跳ねあがった。


「先輩ッ?」


 何が起こったのかを理解できなかった。数瞬遅れて激しい痛みが胸のあたりから右半身へと伸びていく。呼吸すらままならず、かすれた吐息だけが漏れる。


「ッ、――――ッ!」


 どうしていいかもわからずに、両手で胸を強く握りしめて苦痛に耐えようと試みる。だが、一向に痛みは治まる気配を見せない。頭の中で打上げ花火が一斉に炸裂したかと錯覚するほどの明滅。視界は暗転し、意識がさざ波のようにフェードアウトしていく。朦朧とする意識の中で、三上が俺の名前を呼んだ気がした。


 その声を遠くに聴きながら、言いようのない懐かしさを覚えたのは、いったいなぜだろうか。


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