日常
目が覚めて、途端に停滞していた世界が進みだす。人の声、足音、エアコンの稼働音、パソコンを操作するマウスの音、耳元で聞こえる荒い息遣い。それらが思考を否応なしに断ち切った。勤務先のオフィスは、社員一人の居眠りになど気づかなかったようだ。慌てて口元に垂れたヨダレを拭う。
「んふぅ、秋元くん、おはよう」
荒い息遣いに音声が加わって右の耳に届く。俺は意識から除外した上で気にしないようにしていたのだが、向こうから接触されてしまった。
「……おはようございます、大嶋部長」
眉ひとつ動かさず、視線は眼前に固定。先ほどから感じていた気配の主はわかっている。夏には顔を見るだけで不快指数を跳ね上げる四十代未婚の脂ギッシュ上司だ。絶対に見ないぞ、という鉄壁の意思で挨拶を交わす。言うまでもないが、明らかに距離感がおかしい。これで人事部長というのだから、この会社の神経を疑う。面接の時とかどういう距離で接しているんだろう。キャバクラみたいに隣に座ってたりするのか。
もて余したわがままボディの熱が空中に層を形成し迫ってくる。ぬるりとした粘性の空気に肌を撫でられ、鳥肌が立った。勘弁してくれ。
「昨日はお愉しみだったのかもしれんがなぁ……仕事中は起きてなきゃダメだぞ。ぐふふ、次にやったら、どうしよっかなあ……」
台所で皿洗いをしていたら無防備な足元をゴキブリが元気よく出てきた時のように、つま先から頭の先までが不快感に震えた。
「ええ、気を付けます」
返事に気を良くしたのか、部長は小言もほどほどに退室した。居眠りした以上、大きな口は叩けないので、ガマ蛙みたいな顔しやがって、と心の中で悪態をついておくに留めた。
「んふぅ、先輩、おはようございますぅ」
そんなことを思っていた瞬間だったので、心臓が大きく跳ねた。左耳に、先ほどの部長とのやり取りを思わせる声がささやかれたのだ。椅子ごと身体を右にのけぞらせた音に反応して、周囲の視線が集まる。俺は周りの人に頭を下げ、声の主をにらみつけた。
「三上、やめろ。まじで」
「先輩、居眠りなんて珍しいですね」
にやり、と笑う表情が地味によく似合うこの女は、同僚の三上奈津。歳は俺の五つ下で二十三歳。大卒で入社した俺と高卒で入社したこいつは年の離れた同期だ。俺のことを先輩と呼んでいるが、「年上だし、先輩って響きがいいですよね」というのが理由らしい。
そんな経緯もあってかこいつはいつも俺に付きまとう。軽口を叩く間柄ではあるが、互いに色っぽさの欠片もないためか、社内でも「賑やか兄妹」とひとくくりにされている……らしい。
「ああ、居眠りもそうだが、それよりも寝起き早々に部長の顔を見たことで気分がすぐれない」
「心中お察しします」
くすっと笑う彼女に合わせて、うなじのあたりで左にまとめた髪がぴょんと跳ねる。それを見て「こいつの前世って兎とか狐なんかの小動物なんだろうな」と益体もないことを考えた。
「ですけど、あんまり無理はしないでくださいね。大嶋部長とのラブロマンスするエンドなんか、見たくないですからね」
先ほどの意味深な発言を指しているのだろうが、どんな思考回路をしていたらそういう方向へぶっ飛んでしまうのだろうか。こういう思考回路か。
「空想でもそういうことを考えるもんじゃない」
一瞬だけ想像してしまったことに、その後三時間ほど体調不良に陥った。「早退理由 大嶋部長とのラブロマンスを想像したことによる嘔吐、発熱」……さすがに受理してもらえないよなあ。