序章
ゴールデンウィークが明けた五月某日、窓から差し込む夕日に照らされながら、俺は勤め先の教員室で自分のノートPCを鞄にしまってた。その背中に声をかけられる。
「御前先生、今帰らはるところなんですか」
授業で使う道具の入った小さな籠を片手に、同じ非常勤講師の北岡先生が話しかけてくる。コンピューターシステムの概論を教えてる初老の先生や。
「ああ、お疲れさんです。先生んところの学生の数ってどうでした?」
「いやぁ、やっぱり減っちゃってますわ。いつものことですけど」
苦笑しながら北岡先生が返事をしてくれた。
新しい学期が始まってもう一ヵ月が過ぎてる。教師も学生も授業に慣れてきたところや。そこへゴールデンウィークなんてゆう大型連休がやってくると、姿を見せんようになる学生がちらほら出てくる。開放感からたがが外れてしまうんやろう。もはや大型連休後の風物詩といえる。悪い意味でやけど。
「私もですわ。しかも三割」
「三割! そりゃ大変ですなぁ。うちは一割くらいですねん」
俺は中堅システム開発会社に勤めていた関係から、今はこの専門学校でウェブ関連の授業をいくつか担当してる。前の時間に教えていたのは、とあるプログラミング言語の実習や。
「まぁ、私の授業は選択科目ですから、単位を落としてもそこまで痛くないですけど」
「けど、その調子ですと、学期末は大変そうですねぇ」
その通り。これから出席者の数が減っても増えることはあまりない。去年までのことを考えると、七月の末には六割おるかどうかやなぁ。
高校までと違って、専門学校やと授業に出るかどうかは基本的に学生任せとなる。必須科目と違って選択科目なら尚更や。けど、さすがに脱落者が五割となると授業の進め方を問題視されかねん。下手をすると教員の俺が呼び出しをくらうことになる。
北岡先生の言葉はそれに対するものや。
「はは、そうなったら洒落にならないですねぇ。何とか学生には出てきてもらわんと」
「お互いがんばりましょう」
北岡先生は道具の入った小さな籠を棚に置かはった。中のマジックペンやプロジェクターのコントローラーが擦れ合って小さな音を立てる。
それを見た俺は休めていた手を再び動かして、ノートPCの電源コードを鞄にしまった。さて、これで後はタイムカードを押して帰るだけや。
「お先に失礼しまーす」
周囲の非常勤講師に軽く挨拶をしながら自分のタイムカードを取り出して、機器に差し込む。極めて機械的な動作を思わせる駆動音とともにカードが飲み込まれ、印字されてから出てきた。
そのとき、教員室の向こう側にある廊下が騒がしくなってることに気がついた。扉はあるものの、教員室と廊下は壁で隔たれてるからはっきりとしたことはわからん。タイムカードを元に戻しながら、俺はしばらく他の先生らと一緒に廊下に面した壁を眺めてた。
少しすると、事務員が慌てて入ってくる。
「誰か何人か一緒に来てくれんか!」
「何があったんです?」
廊下の様子をうかがおうと、扉の近くまで移動していた北岡先生が事務員に話しかけはった。
「山下先生が殺されたんや!」
漫画やゲームやと殺人なんて珍しくもない。けど、現実の世界で普通に生活してて殺人に遭うことなんてそうそうないやろう。少なくとも俺はこれが初めてやし、周りにいる先生もみんなそのはず。
俺達は最も縁遠いと思っていた言葉を聞いて、しばらく呆然としてた。
事件発生から数日が経過した。とりあえず表面上はいつも通りやけど、もちろん学内は先日の山下先生殺人事件の話題でもちきりや。ただ、殺した方も殺された方もみんな知ってるから、教師も学生もまるっきり他人事としては話をしにくい。
そして、全教師と全学生に対して学校側からメールが送信された。色々と書いてあるが要するに不用意な発言はするなということや。特に校外には報道関係者が待ち構えているから当然やろう。向こうは向こうで仕事なんやろうけど、取材される身としては嫌なものやなぁ。
「あらぁ、御前先生じゃありませんかぁ」
昼休みに教員室のテーブルで昼ご飯を食べてると、語尾を中途半端に伸ばした声をかけられる。振り向くと予想通り仁科先生がいはった。俺よりも一回り年上の非常勤講師で、大のおしゃべり好きな女の人や。
周囲を見ると今日はたまたま誰もいない。しもた、ということは今日の昼の相手は俺がせなあかんのか。
仁科先生は俺の様子にかまうことなく、自分の鞄を持って俺の正面に座らはった。食べ終わったら寝ようかと思ってたんやけどなぁ。
「ねぇねぇ、御前先生ぇ。例の事件のこと、聞きましたぁ?」
「聞いたって、何をです?」
俺が知ってることといえば、先日の殺人事件で殺されたのは専門学校の専任講師兼職員の山下清彦先生で、非常勤講師の佐竹勝先生が階段から突き落としたことくらいや。どっちも顔見知りの先生やさかい気分が悪い。
「ほら、山下先生が大変なことになっちゃったことですよぉ。三階と四階の間にある踊り場で説教されていた佐竹君っていう学生を、佐竹先生がかばったことが原因らしいですわねぇ。元々仲の悪いお二人でしたから、こうなってもある意味しかたないですわよねぇ」
何とも返答に困る話やな。
山下先生は、非常勤講師に対して小馬鹿にするような態度で接することで知られてた。特に佐竹先生とはそりが合わんかったことから、よう衝突しとった。そして、事件当時山下先生に説教されてた佐竹君ってゆうのは、その佐竹先生の親戚で佐竹昭彦ってゆう名前や。もちろん教師の間ではみんな知ってたことやから、そのせいで山下先生に目をつけられてたって聞いたことがある。
「それで、我に返った佐竹先生は、急いで事務室に駆け込んで救急車を呼ぶように頼んだそうよぉ。そして一緒にやってきた警察に自首したんですってねぇ」
「へぇ、そうなんですか」
「まぁ、ここだけの話、亡くなったのがあの山下先生だっていうのが不幸中の幸いですわよねぇ」
仁科先生は少しこちらに顔を寄せつつ、後半の言葉は声を小さくして語りかけてきはる。ああもう、相槌しにくい話に持っていかんといてください。
「学校は、山下先生の担当授業を誰にやってもらうかってことで悩んでるらしいですね」
「確か、画像処理の授業でしたわよねぇ。御前先生ならできるんじゃないですかぁ?」
「いやぁ、私、ウェブ関連はできますけど、画像処理はちょっとねぇ」
残念ながら今の俺には無理や。春休みや夏休みに準備期間がとれたらどうにかできるかもしれんけど、さすがにいきなりはな。
その後、徐々に話題をずらすことに成功した俺は、他の話題で仁科先生の雑談相手を続けた。できれば途中退席したかったけど、結局昼休みぎりぎりまで相手をすることになってしもた。