ガラスの靴、魔法の靴
ガラスの靴、推定二十八センチ。
どういうシンデレラだと言いたいのをぐっとこらえ、その違和感の塊を検分する。
造形は文句なしに美しい。が、一体これはどういうことなのか。僕は困惑して持ち主を見やった。
大きなアーモンド形の瞳は僕と、自分の手元にあるオーバーサイズのスニーカーの間を行ったり来たりしている。誰が履くにしても大きすぎるスニーカーだけど、目の前の彼女にはそれはあまりにも大きすぎた。
マジックテープ留めの、動物の描かれたスニーカーを履いているようなその少女には。両足いっぺんに突っ込んでも、少女の小さな足なら難なく透明な靴の中におさまるだろう。
その持ち主とのギャップも含めて、何もかもが違和感と異彩を放っていた。
だから僕は、
「無理、じゃないかな?」
よくよく考えなくても出るような、当たり前のことを口にした。
我ながら工夫がないとは思うけど、だって仕方がない。そうとしか言いようがないんだから。
なのに少女は、何を言っているのか分からないといった様子できょとんとして、小さく首をかしげると、もう一度同じことを言った。
「この靴を履いて、走りたいの」
いや、だからさ、
「その靴はたぶん、履いて歩くようにはできて」
「大丈夫、だってこの靴は」
少女は月の明かりを受けて青白く輝いた靴を大切そうに抱きしめて、
「魔法の靴だから」
少しだけ嬉しそうに、そう告げた。
「空だって、飛べるんだよ」
飛べねぇよ。
だって、魔法の力は永遠に失われたんだから。
大昔、まだ世界中に人間が溢れていて、好き放題繁栄して、思い通りに世界を作り替えていた時代には、そういうものがあったらしい。
永久に動く動力炉や、どんなに遠くへも瞬きの間に行ける船、願うだけで食い物が出てくる泉なんていう、それこそ神様のような力を思いのままに使い、人間は我が世の春を謳歌していた。らしい。
たしかにその名残のようなものは世界中に落っこちているけれど、そのどれもこれもが「そんな過去がありました」という、おとぎ話を今に伝えるだけだ。
どうやっても作ったのかもわからない、何の役にも立たない変な形の棒きれが地面に突き刺さっていたのを見たことがある。だから、魔法ってのは本当にあったのかもしれない。
でも、神様のような力を、神様は許さなかったらしい。
ある日、人間は魔法を失い、魔法で成り立っていた自分たちの世界を失い、何もかもが一気に崩壊した。
好き勝手に星を動かしていたとばっちりで、世界は死の雨に洗われた。
手を使って作り出すことを忘れた人間は、自分の餌一つろくに作り出せなくなった。
世界の形を好き勝手につくりかえた人間は、自らのつくりかえた世界のどこにいるのかが分からなくなり、隣人を失った。
そうして人は、緩やかに死に至る病にむしばまれていった。
「今思えばさ、その時が最後のチャンスだったんだよ」
ガラクタを拾いながら、僕は歩く。
創り出すことを忘れた人間は、じゃあどうすればいのか? 簡単な話で、出来上がったものを食いつぶして生きるだけだ。
神の力でなければ支えられないほどに増えてしまった人間は、あっという間に足元から崩れおちていった。
奪うために殺し、殺すために奪い、だけど戦争をすることもままならないほどに人は、生き物として疲弊していた。
「あのときに、ちゃんと魔法なんてないんだって納得してさ、ちゃんとこうやって手と足で稼ぐ生き方でやってく覚悟をしてれば、そんなにひどいことにならなかったんだよ」
そう言う僕が拾っているのも、その時代の落とし物とか、残りかすなんだから大きなことは言えないけど。
学のない僕には、難しい物言いも賢い選択もできはしない。
それでも、ちゃんと胸を張って言えることが一つだけある。
「だから変な夢とか見ないでさ、ちゃんと現実見た方がいいよ」
何に使われていたのか分からない、ちょっと大きめの黒い箱を拾ってリアカーに乗せる。ついでという感じで、リアカーの縁でぷらぷらと足を揺らして座る少女に目を向けた。
その背中がもたれかかる、彼女の車いすと一緒に。
よくある話だ。
自分一人が食べていくのにも苦労するこの世界、食いぶちを減らすために子供を捨てるなんて珍しくもない。ましてやこの子のように、体が不自由で働けないものであればなおさらだ。酷な話だけど。
「これは、何?」
興味深そうに、今拾ったばかりの箱に手を伸ばす。
「さあ? 何かはわからないけど、この箱を買ってくれる人間がいる。だから僕は拾う。それだけだよ」
機械であればばらばらにして必要な部品だけを取り出したり、それでも必要なものがなければ溶かして鉄にしたりするらしいけど、あいにく僕にはそういう知識はない。けれど十分だ。箱は食べられないけど、パンは食べられるから。
「魔法の箱かな?」
「それはない。魔法なんてもうないんだよ」
「もう」なんて言ったが、本当にそんなものがあったのかどうかも疑わしいと思っている。せいぜい、魔法みたいなすごい機械とかがあっただけなんだろう。
「ちょっと前に歴史を研究して旅をしているという変なおっさんから聞いた話だけど、本当はものすごく進んだ科学があって、でも戦争か何かで滅びたんじゃないかって言ってた。それを、ちょっとだけ後の人間が魔法みたいなもんだって言って、いつの間にか『魔法』ってことになったんじゃないかって」
ジャンクヤードは広い。
この仕事を始めて数年になるけど、いまだにこのヤードの端っこを見たことがない。一度試しに行ける所まで行ってみようと思って、食い物と水を用意して勇み足で出発したことがあった。けれど、わかったのは人間の足じゃとてもじゃないけど端っこになんてたどりつけないってことと、下手をすればジャンクの山で遭難するってことだけだった。
だって、どこに行っても落ちているものは変わり映えしないから。目をつぶってその場で回ったら、よく知った場所でも一瞬どっちがどっちか分からなくなるくらいだ。
それでも拾うものがなくならないのは、地震のおかげだ。
大昔の、世界をいじくった人間のせいだって言われる地震が時々ジャンクの山を揺らす。小さいものだと座っていても分からないものから、大きなものだと山が移動するぐらいのものまで。
そうすると、今まで埋もれて見えなかったものが顔を出すので、それを拾い集めるというわけだ。
だから、同業のやつらがいても縄張り争いになんてならないし、仕事もなくならない。
そんな場所での毎日だったから、きっと僕も退屈だったんだ。
見も知らない、自分ひとりじゃあるけない女の子を拾ったんだから。
最初はお化けでも出たのかと思った。だって、ジャンク山のふもとで、車いすに座った女がじっとこっちを見つめていたんだから。
ちょっとだけ腰が抜けてちびりそうになったのは、絶対に内緒だ。
(にしても、親もひどいよな。いくら捨てるにしても、ジャンクヤードって)
もっと人の多い町なら、ただ捨てるにしても貰い手はすぐに見つかっただろうし、幼い女の子なら足ぐらい不自由でも、もしかしたら買ってくれる人間もいるかもしれない。その、よくわからないけど、たまにおっさんたちが「女を買う」って言ってるぐらいだから。
「あなたはどうするの? あたしを連れて行って、ばらばらにするの?」
突拍子もないことを言われたので、思わずリアカーを引く手が滑りそうになる。
「は!? そ、そんなわけ、ないだろ! 人間をばらばらになんて」
「でも今、拾ったものは売られてばらばらって」
「ばかっ! それは機械の話。それに、人間なんてばらばらにしても売れないだろ?」
たぶん。
「そうなの? あたしはてっきり捨てられて、拾われて、今度はバラバラにされるんだって」
「しねぇよ! どんだけ世間知らずなんだよ、お前」
この業界、ちょっと足りないやつが騙されてるのなんかはよく見かけるし、僕もきっと知らないところで買値とか騙されてることもあると思う。それでも、僕はここまで世間知らずなやつは見たことがない。少なくとも僕の周りにいる人間に、ここまで何にも知らないやつはいない。
「お前、もしかしてすっげぇ金持だったのか?」
それならおかしな話じゃないのかもしれない。こんな汚い、最底辺の仕事にかかわらずに、こんな世界を見ないで済むんだろう。よく見れば服も靴もきれいだし、そもそも足が不自由だからって車いすを与えられるのなら、それなりには育てるつもりのある親だったんだろう。
「わからない」
「あっそ」
くりっとしたアーモンド形の瞳は、ちょっとだけ安堵したように微笑み、再び手元にあるガラスの靴に落とされる。
つられて、月の光を飲み込む靴に目が行った。
「それ、そんなに大事なのかよ?」
「うん。だって、これがあればあたしも、いつか歩けるんだって、空だって飛べるんだって言ってたから」
「誰がだよ」
「おじいちゃん、そう言ってた。そう言って、たくさんのかわいそうな人に、魔法の道具をあげてた。それで、この靴もそうだって」
「ああ、そういうことか」
その「おじいちゃん」っていうのが本当に血のつながりがあるのかどうかは知らないけど、一つだけ俺にもわかることがある。
その爺さんは、詐欺師だ。
俺みたいに底辺の生活をする人間のところには、特にそういう奴らが寄ってくる。
ふらっと現れたそいつは、いかにもいわくありげなブツを取り出して、奇跡のナントカだ、神のナントカだ、魔法のナントカだって言いながら、ただの皿や水を売りつけに来る。ちょっと前に俺たちの前に現れたのは、そこに入れた水を飲めばたちどころに病気やけがが治る魔法の皿、だった気がする。
こいつはその片棒を担がされていたんだろう、きっと。
何を売っていたのかは知らないが、体の不自由なこの子も奇跡のつぼの力のおかげでほらこうして車いすに乗れるようになりました。きっとこの足も、そう遠くないうちに歩けるようになるでしょう、ってな。
そう言っておけば、効果がじわじわ出てくるような錯覚をさせられて、それだけ逃げる時間が稼げるだろうしな。
それだったらこいつがこんなところにいて、中途半端にきれいな服を着てるのもうなずける。人の希望を集める女の子が、汚い恰好じゃ説得力がないからな。
で、その爺さんもドジを踏んでハッタリがばれたんだろう。逃げるのに邪魔な、足の悪いこいつを捨てて逃げた。その時に、それらしいことを言ってあの靴を渡したのは、爺さんの最後の良心だったのかもな。
「じゃ、その爺さんが戻ってくるのを待つのか?」
「ううん。この靴を履けるようになればあたしはもう大丈夫だからって、お別れした。いつまでも一緒にはいられない、って」
ものは言いようだ。
「あのさ」
本当のことを、
「なに?」
やめた。
いくつなのかはわからないけど、僕よりもずいぶん年下なのは明らかだ。そんな、年端もいかない、しかも体の不自由な子供の希望をわざわざ壊すことはない。
どうせ今日明日にはいなくなる相手だ。そんなやつのために気を揉むのもばかばかしい。僕が考えるのは、明日のこの女のことじゃなくて、明日のパンのことだけで十分だ。
じっとこちらを見つめるまん丸い瞳に居心地の悪さを覚えて、再びリアカーを引く手に力を込める。
歩きなれた道なので迷うこともないし、気をつけなければいけない場所も全部わかっている。何もかもがこれまで繰り返してきた毎日と変わらない。
なのに、今日の道はずいぶんと短かった気がする。いつもの半分も歩かないうちに、寝床のある掘建て小屋にたどりついたように感じたほどだ。
「おかえり」
近くに、同じように小屋を構えて暮らしているおばさんが声をかけてきた。この人はいつも僕のことを気にかけてくれる。ずいぶん昔に自分の子供を事故で亡くしたらしいけど、僕はきっとその代わりなんだろうな、と何となく勝手にそう思っている。
「ただいま」
「今日は遅かったじゃない。大丈夫?
「大丈夫だよ。ちょっと遠くまで行ってみただけだから」
「そう。あら? その子は?」
リアカーにちょこんと座る女の子に目を留めたおばさんはちょっとだけ驚いた顔をして、すぐに頬を緩めて笑みを浮かべる。
「拾った」
「拾った、て」
「拾った」
としか言いようがないんだから、仕方がない。
それを察してくれたようで、おばさんも「そう」とだけ小さくつぶやいて、自分の小屋に引き返すと、すぐにまた出てきて、
「はい」
「え、これ」
差し出されたのは、少しだけ硬くなったパンだった。
「この歳になると、硬くなったものは食べられなくてね。その子と食べなさい」
いつもこんな調子だ。
そして、
「でも別にこいつはすぐにどっかにやるし、僕だって自分の分ぐらいは」
ぐぅぅぅ
いつだって腹の虫は、僕の名誉や意地を笑い飛ばすほどに正直だ。
おばさんの、何もかもわかったような笑顔をまっすぐに見られずに、僕はそっぽを向きながらパンを受け取る。
「よかったねぇ」
女の子の声が背後から、花弁のように僕の頬をなでる。
顔が燃えるように熱くて、僕はその場から逃げだすようにしてリアカーを引いた。
そのパンは、おばさんが言った通りちょっとだけ硬かったけど、小さな女の子と二人で食べるには十分だった。
次の日は雨だった。
雨なんてめったに降らないんだけど、降ってしまうと仕事ができなくて、何もすることがなくなる。
だから、雨の日はそんなに好きじゃない。
だけど、今日だけはどうやらそんな退屈な一日を送らずに済みそうだった。というのも、
「ねぇ、どうしてあなたは魔法を信じないの?」
「は? そんなのないんだから、信じるも何もないだろ?」
「でも、すごく昔にはあったって」
「それだってほんとにあったかどうかわからないんだから」
薄っぺらいトタンの屋根をたたく雨の音はうるさかったけれど、もっとうるさいのがずっと僕に話しかけてくるからだ。
「でも、おじいちゃんは魔法の靴をみんなに」
「だーかーら、魔法の靴なんてないの。それに、あったとしてもお前の足じゃそんなにでっかい靴履けないだろ? なんで履いて、さっさと自分の足で歩かないんだよ?」
言った瞬間慌てて口をふさいだけど、もう遅い。
飛び出した言葉はとっくに女の子に届いてしまった後だ。
どんなふうに取り繕おうかと必死に考えて、恐る恐る少女の顔に目をやると、
「だってそれは、その……この靴は、あたしのための靴じゃないから」
困ったように、照れるようにちょっとだけはにかみながら、女の子はもじもじしていた。
よかった。どうやらひどいことを言ったことに、気づいてはいなかったようだ。
「なんだ、わかってんだ。だよな、さすがにそんなでっかいサイズなら、気づいてるよな」
そりゃそうだ。いくら子供だからってちょっとバカにしすぎていた。
けれど女の子は、
「そうじゃなくて、その、えと」
何か伝えようと一生懸命に言葉を選んでいるようだけど、気持ちばかりが焦って、酸欠の魚みたいに口をパクパクさせるばかりだ。
とそこへ、
「いる?」
扉の向こうから、聞きなれたおばさんの声がした。
「なに?」
うんうん唸るばかりの女の子をしり目に、僕は扉を開けておばさんを迎え入れる。この雨の中、いったい何の用だろう?
「ああ、よかった。あんたのことだから、こんな天気でも仕事に出てるんじゃないかって思ってたよ」
「雨の日は無理だよ。車が引けないし。それに、濡れた電子部品は危ないからね」
これはまだ小さなころ、周りの大人が教えてくれたやり方だ。もちろん親切で教えてくれる人もいたんだろうけど、その頃の僕は他人の手足になって、実際の収穫よりもずいぶん少ない稼ぎで働かされていた、体のいい小間使いだった。今となってはいい経験ってことだ。
「それもあるけど、雨が降るとすぐに山が崩れるからね。それだけが心配で……私の子も、それで……」
「ふぅん」
どうやら、事故でなくなった自分の子供と僕を重ねてそんなことを言いに来てくれたらしい。この人にとって僕は、本当に亡くなった子供の代わりなんだな、と改めて思う。
いやじゃないけど、ちょっとだけ面倒だ。
「大丈夫だよ。このあたりの危ない個所は大体わかってるし。それより、何の用?」
「ああ、いやね、スープを作りすぎちゃったから、その子と一緒にどうかと思ってね」
そう言って、蓋をした鍋を差し出す。
たぶん作りすぎたなんて嘘なんだろうけど、僕はあえてそれを口にしない。それが大人の付き合いってもんだって、ちゃんと分かっているから。
「ありがとう。雨の日は冷えるから、ちょうどいいよ」
そんな子供っぽいことだって、言ってみせる。
結局その日は、もらったスープとパンの残りでおなかを満たして、女の子の話を聞いているうちにあっという間に過ぎてしまった。
退屈しないどころか、一日がこんなにあっという間だったのは初めてのことだ。
まあ、こんな雨の日に女の子を追い出すこともないよな。さすがの僕でも、そのぐらいの器量は持ち合わせている。
翌日は、昨日の雨がうそのような青空が広がった。
湿気のせいで少し動くとすぐに滝のように汗が流れたけど、一日休んだ体にはそれも心地いいほどだった。
明け方に起こった少し大きめの地震のおかげで、昨日の休みを取り戻してさらに余裕があるほどの収穫があって、僕は我を忘れて仕事に没頭した。
何故かくっついてきた女の子は、そんな僕の様子を楽しそうに眺めて、時折目が合うと小さな手を振って微笑みかけたりしてきた。
本音を言うと、たまにその笑顔が見たくて、必要もないのにそっちを向くふりをしてみたことも何度かあった。
翌日も、そのまた翌日も、驚くほどの収穫があった。
それまでは半分も埋まれば上出来だったリアカーには、気をつけないとこぼれてしまいそうなほどの荷物が積みあがり、うっかりすると僕一人の力じゃ引けないので、せっかく積んだ荷物を捨てて帰らなきゃいけないこともあったぐらいだ。
そんな日が続いて有頂天だった僕は、油断していたんだと思う。
ある日の朝も、
「今日も来るのか?」
なんて聞いてみたけど、女の子と一緒に行くのが楽しくなっているというのが本音だ。ここ何日かの好調も、もしかしたらこの子のおかげなのかも、なんてことまで思う始末だ。
「うん。お仕事見てるの、楽しい」
そんな風に言われて、さらに僕は胸がドキドキするのを止められない。
今日も仕事の合間に何度となくこの笑顔を見るんだと思うと、僕は早く仕事を始めたくて仕方がなくなっていた。
こんな気持ちになるのは、初めてだった。
これまでも仕事に行きたくなることはあったけれど、それは今夜のパンもなくなって、早く稼がないとやっていけないという焦りがそうさせただけだった。
でも今の僕は、ただ働くことが楽しい。
働いて、その姿を彼女が見てくれて、僕はそんな彼女を見る。
そのことだけが、ただただ僕の気持ちを高揚させた。
ガラスの靴を抱きしめる彼女をリアカーに乗せ、いつもどおりに出発する。
そう、僕にとってそうすることが、たったの数日で「いつも」になっていたんだ。
そしてそのいつもは、ずっと続くはずだった。そう、思っていたんだ。
その日も、先日の雨と地震で崩れた山の発掘作業をする予定だった。この山は、どうやら当たりの山だったようで、ここから出てくる物は結構な値段で買い取ってもらえることも多い。
だけど、今の僕にとってはそんなことはもうどうでも好くって、ただ毎日彼女とこの場所に来ることそのものが目的になっていた。
といっても、もちろん二人分の食いぶちを稼ぐのは楽な話じゃないので、品定めは入念に、だ。
山の上まで登り、勘と経験だけを頼りに高く買ってもらえそうなものを掘り起こしてはリアカーまで持って降りる。その合間に何度も彼女と目があって、そのたびに僕は、自分の頬がへたくそな笑みを浮かべるのも分かっていた。
その時も、一抱えほどもある銀色の箱を掘り出したばかりで、そのことを早く彼女に報告したくて焦っていたんだ。だって、こんなにもきれいで、中身が詰まっていて、高く売れないわけがない。
前に「ぱそこん」とかいう箱を買ってもらった時には、びっくりするほどの売値がついて、後から計算を間違えた業者のオヤジが取り返しに来るんじゃないかってびくついたことがあるほどだ。
こいつももしかしたら、ぱそこんかもしれない。
そのことを一秒でも早く伝えたくて、近くで笑顔が見たくて、
「あ」
足元がなくなったことに、しばらく気がつかなかった。
雨のぬかるみは数日残ることもある。そこに地震が重なると、見上げるような山でもあっという間に崩れてなくなってしまうことだってある。
そんなことは、ずいぶん前に教えられたはずだった。
そんなことにならないように、いつだって足元を見て歩いてきたんだ。
なのに、今、僕はそのことを忘れていた。
上を見て、前を見て、女の子ばかり見ていたから。
手を離してしまった銀色の箱はあっけなく崩れた山の向こうに消えて、なだれ落ちる瓦礫は、巨大な手のひらのように僕に掴みかかって放そうとしない。
足首をつかまれ、ひざを飲み込まれ、いくつもの塊にもみくちゃにされた僕の手は、空に向かって延びた。
届くはずもないのに。
痛い。
熱い。
冷たい。
苦しい。
いたい、いたい、いたい……
瞬きほどの時間に数え切れない感覚が襲いかかり、そして、僕の意識は真っ黒に塗りつぶされた。
最後に見た彼女の顔は、笑っていなかった。
ゆっくりと目を開けると、見なれた天井があった。
薄汚いランプの明かりも、自分で修理した雨漏りの穴も、全部知っている。
「よかった! 気がついた。よかったよ、ほんとによかったよ」
かすれるようにそう言っているのは、聞きなれたおばちゃんの声だった。
こちらを覗き込む目の端っこには、うっすらと涙まで浮かべている。
「あれ? 僕、かえってきたの?」
「あんた大けがをしたんだ。それを、私らがここまで運んだんだよ。もう駄目かと思ったんだからね、ほんとにもう……でもよかった」
「そっか、僕、山から落ちて」
ぐしゃぐしゃだった記憶が少しずつ鮮明になって、何があったのかをゆっくりと思い出し始める。と、そこで、
「あ、あの」
安堵のため息にへたり込んでいるおばちゃんには悪いけれど、僕の目は必死になって別のものを探していた。
あの子は? まさかあの子も巻き込まれて。
そう考えるだけで胸が張り裂けそうになって息が苦しくなる。目の前もなんだかぐにゃぐにゃに歪んで、ちゃんと考えることができなくなる。
狭っ苦しい家なのに全然全部を見渡せなくて、焦りに泣きそうになったところで、
「よか、った」
ぽつりと呟く、小さな姿を見つけた。
部屋の隅っこで小さくなっているけど、怪我をしている様子はない。疲れたような顔をしているけど、もしかして僕が心配をかけたせいだろうか? だとしたらすごく悪いことをしてしまった。
「あの、ごめん。ぼくが、あっ」
起き上がり、彼女に歩み寄ろうとして、転んでしまった。
「あれ? おかしいな。なんかふらふらするし、それにうまく、歩け、あれ?」
みっともなく転んだところを見られたのが恥ずかしくて、照れ隠しに笑いながらもう一度起き上がる。両手をついて、立ち上がろうとして、
「あのね、あんたね」
引き寄せた足が、宙をかいた。
「足、ね」
また、転ぶ。
今度は顔からみっともなく。思い切り鼻をぶつけたけど、不思議と痛くなかった。
「駄目だったんだよ」
もう一度引き寄せて、手を伸ばす。
「うそ、だろ?」
太ももに触れる。
膝に触れる。
でも、そこまでだった。
僕の足は、そこまでしかなかった。
「瓦礫の山にのまれたときに、ひしゃげて……もう、駄目だったんだ」
ジクジクとした痛みが、今更のように背筋を這い上がってきたけれど、それさえも自分の痛みだとは思えなかった。
僕にできたのは、そこまでだった。
後のことはあまり覚えていない。
なんでも、雪崩の大きな音に気がついた何人かの同業がやってきたときには、僕はもうがれきの下敷きになっていたらしい。何とか掘り起こしたけれど、両足とも膝から下がどこに行ったのかもわからない状態だったらしい。
それが二日前のことで、僕は丸二日もずっと眠っていたそうだ。
「これからのことは、ゆっくり考えな」
帰り際にそう言ってくれた、おばちゃんの優しさは痛いほど胸に染みた。けど、今の僕にはそれさえもが、切りつける刃物のように冷たく突き刺さった。
まだ血の滲む包帯は、もうお前は歩けないんだと僕に突きつけるように赤く染まり、その色から目を逸らすことができずにいた。
もう、彼女を乗せたリアカーを引くことも、彼女の笑顔を見ることもないんだ、と。
いったいどれほどの時間そうしていたんだろう。
何も考えられなくなって、考えるのはただただ絶望だけになって目、の前まで暗く染まり始めたところに、
「ねぇ」
彼女の声がした。
動かない足を引きずりながら、這うようにして寄ってくる彼女は、いつものアーモンド形の目で僕をまっすぐに見つめている。
お願いだ。見ないでくれ。
こんな僕を、見ないでくれ。
もう君のパンを買うこともできない。拾った瓦礫を自慢することもできない。魔法の話を聞くことも、もう、できないんだ。
その辛さに、僕は彼女を見ることができずにいた。
それでも彼女は、僕に語りかける。
「ねぇ……これ、あなたにあげる」
そう言って差し出したのは、いつも大事そうに抱えているガラスの靴だった。
「これさえあれば、あなたも」
その先は、聞きたくなかった。
だから僕は、
「うるさい! 魔法なんて、あるわけがないんだ!」
いつも彼女に向けていた言葉を口にした。
自分でも驚くほどのきつい口調になったけど、でも、そうしないといられないほどに、胸が苦しかった。
「魔法で歩けるように? ならないよ! なるわけないだろ! そんな、ガラスでできた靴を履いて歩けるなら、お前はとっくに歩いてるだろ? 見ろよ、そんなバカでかい靴を! そんなの履けるわけがないんだよ!」
推定二十八センチ。
どんなおとぎ話も出てこないバカげたサイズ。
誰も履けない、魔法の靴。
「魔法なんて、ないんだよ! 見ろよ僕の足を! もう靴もはけないんだ! もう、歩けないんだ!」
心が壊れたように、薄汚れた言葉ばかりが胸からあふれ出す。
「お前のじいさんってのも、そうやって詐欺をやって稼いでたんだよ! わかれよ! 魔法なんかで歩けるようになるんなら、お前はとっくに歩いてるんだよ!」
そうやって、黒く淀んだ壁で心を守らないと、もう生きていられないとでもいうように。
「僕はもう歩けないんだ。瓦礫拾いもできない。パンだって買えない。もう、終わりなんだよ、何もかも!」
もう「いつも」のように、彼女の笑顔を見ることも……
「あるよ」
そんな僕に向かってにっこりと、彼女は微笑んだ。
両手に収まるサイズの靴を差し出しながら、
「魔法、あるよ。だってこれは、魔法の靴」
月の光のないこの場所で、月の色に輝いたガラスの靴は、少女の頬笑みと、僕のぐしゃぐしゃの顔を映しだしている。
「空だって飛べる、魔法の靴」
少女はあっけにとられる僕をよそに、手にしたガラスの靴を僕に履かせようとする。
今はもう失われてしまった足に、けれど、まるでそこに足があるようにやさしい手つきで、少女は靴をはかせてくれる。
いつの間にか僕の足にぴったりのサイズになっていた、一足のガラスのスニーカー。
「これは、あたしの魔法の靴。だから、私はあなたに履かせるの」
「それって」
いつか言っていた。この靴は自分の靴じゃない、って。
それって、つまり、
「魔法はね、誰かのために使わなきゃいけない。自分のために使うから、神様は人に罰を下して、魔法を取り上げたんだ、って」
左右両方の靴を履かせ終えると、彼女はゆっくりとこちらを振り返り、いつもと同じ笑顔を僕に向ける。
「だから、あたしの持っているこの靴は、誰かの、ほかの人のための靴。だけど、本当に、魔法の靴」
両足が光に包まれて、徐々に痛みが薄れてゆく。
それと同時に、失われていた足の感触がゆっくりと戻ってくる。
「この靴は」
「魔法の……靴」
「これさえあれば、歩くことも走ることもできるんだよ」
今ならわかる。
そして、今なら僕は、空だって飛べる。
ガラスの靴。推定二十八センチ。
僕はその持ち主をそっと抱き締めた。
僕の、シンデレラを。
「じゃ、今日も行こうか」
いつもどおりにリアカーの荷台に彼女を乗せ、僕はリアカーを引く。
「瓦礫拾いのお仕事、いつかあたしも手伝えればいいのにな」
そう言ってぷらぷらと揺れる彼女の足には、マジックテープ留めの、まだ一度も歩いたことのないかわいらしいスニーカーが光っている。
「大丈夫、いつか手伝えるよ。だって」
今から僕が向かうのは、ただの瓦礫拾いじゃないから。
「今度は僕が、僕のガラスの靴を見つけるから」