2.『鍵穴と迷路』
カタン 本棚に本を直すと、小さな音がした。
静かな図書館の中でその音は響いた気がしたけれど、決して大きな音ではなかったし、ここら一帯にいるのは俺だけだから、きっとこの音を聞いたのも俺だけなんだろう。
近くの本棚からまた別の本を出して、近場の机まで歩く。
座敷童子。
そう呼ばれる存在である俺には当たり前のように戸籍なんてなく、身分を証明することもできなかったから貸し出しカードを作ることもできなかった。
・・・まぁ、調べている本の内容から目的が呼宝にばれて何か言われるのも面倒だからいいけれど。
ミオが・・・魅織が死んで、もうすぐ1年になる。
ずっと以前・・・歌乃に見つかり、人間と関わりだす以前に戻っただけのことなのに、歌乃と出会って・・・魅織と出会ってから俺の歯車は壊れてしまったのか、やはり以前のようにいられなくなった。
そう、ミオが死んでもう1年になる。
二人でいた頃、歌乃の家の離れに俺たち夫婦は住んでいて・・・一人になったあの離れに、俺はまだ住み続けている。
朝起きて、朝食を食べ、歌乃の店の手伝いをし、昼食を食べ、仕事に戻り・・・そんな風に、当たり前の毎日を過ごしている。
たまに・・・3日に一度くらいだろうか?
歌乃はふらっとやってきて、何を確認するのか、何も変わりないことを確認するのかして、母屋のほうに戻っていく。
何も、変化なんてない。
ミオが死んでから・・・俺の心には波風一つ立たない。
「こんにちは、高美さん。」
柔らかな声にニセモノの名前を呼ばれ、振り返る。
高美というのは、ミオの名字だった。
でも・・・優魅というのも、何百年か前に棲んでいた家の子供の名前をもらって、自分の名前としたんだった。
あの頃は、座敷童子ではないにしろ別の妖怪もそこらに生息していて、そいつらとよく話したりもした。
「・・・・・・こんにちは、歌萱さん。」
鸚鵡返しのように挨拶を返し、近場の机へと再び足を進め出す。
あぁ・・・取り出し忘れた本はないだろうか。
歩き続ける俺の隣を、彼女はちらちらこちらを見ながら歩いている。
あれから歌萱美織は俺によく話しかけるようになった。
他愛ない・・・特に意味もない会話をして、適当に切り上げて自分の仕事に戻る。
その相手をする俺はというと、特に意味もない会話を面倒だと思いつつも、一人でずっと資料を読んでいると、終わりのない暗鬱とした思考に囚われてしまうので少しだけありがたいとも思っていた。
殺したい神は、座敷童子というものだった。
俺は・・・ミオが死んでしまって一人で生きるのが嫌になったんだ。
***
夢を、見る。
魅織の夢を。
何もない空間に、俺と魅織が座り込んでいる。
魅織は小首をかしげて俺に淡く微笑んでいて、その笑みを見てると俺はとても満たされた気分になる。
ずっと俺の中は虚無であったのに、魅織だけが俺の中を暖かいもので満たした。
微笑む魅織に笑みを返し、ゆっくりとした動作でその滑らかな頬に手を伸ばす。
だけどお約束というべきか、その手が魅織に触れた瞬間、俺は虚無の現に戻された。
***
虚無な現実は終わることなく続いていて、満たされた夢は壊れたテープのようにその先なんてなかった。
魅織や歌乃と出会う前、睡眠なんて必要なかったはずの俺の身体はいまや当たり前のように睡眠を欲し、いくらその眠気に耐えても、いつの間にか寝ていた・・・ということまであった。
そして今日も、限界まで睡眠を耐えていた俺は、図書館で本を読んでいる途中、机に突っ伏して眠ってしまった。
そのことに複雑な心境になり、俺は読んでいた本を閉じて、別の本を探しにいく。
「やっぱり・・・高美さんのほうが背が高いですね。」
その途中で出会った歌萱さんにふと、そんなことを言われ首をかしげる。
別に俺の身長なんて老いることも年をとることもないんだから変わるはずなんてなくて。
つまりは、今更何を言い出すのか・・・そんな俺の疑問に気づいたのか、彼女は慌てて口を開く。
「あ、いつもは私、ヒールのある靴を履くことが多いんですね。
でも今日の靴はヒールじゃないから、やっぱり高美さんのほうが背高いですね。」
そう言って、確かに僅かに低い位置から彼女は俺を見て笑いかける。
だからなんだって言うんだろう。
別に俺は呼宝のように身長が高いわけでもないし、平均女性ほどの身長しかない。
決して背が高くなんてなかったミオとだって、数センチしかその差はなくて。
「やっぱりさすがに、女子の平均しかない私よりは、背高いですよね。」
「・・・?別にそれなら、同じくらいじゃない?俺、157しかないから。」
「あれ?じゃあ前測ったときより伸びているのかもしれないですね。
私の身長が157だから、160は超えてると思いますよ。」
迷路から抜けるのに必要な鍵は、最初から俺が持っていた。
入り口から入り、出口を探している気になっていたけど、最初から入り口も出口も何もなかった。
だって答えは、俺の中にあったのだから。
***
「あれ?優君、おかえり。」
「ただいまっ!」
「珍しいね、母屋のほうにやってくるな・・・ん・・・て?」
きょとんと首をかしげたままの歌乃に叫ぶように返事を返し、バタバタと彼の横を通り過ぎる。
確か物置に、まだあれがあったはず。
ガタガタと音を立てて物置をあさる俺を、歌乃が不思議そうな顔でこちらをうかがっている。
結局、そのことに気付いてしまった俺は、バタバタと歌萱さんに持っていた本の片づけを押し付け、家へと帰ってきた。
目的のものを発見した俺は歌乃を物置から追い出し、戸を閉めて俺は自分の予想を確かめる。
何度目を擦っても、俺の身長を正確に計ったはずのその身長計のメモリは162センチを示していた。
何十年も・・・いや、何百年も前から俺の身長は変わらなかった。
当たり前だ、老いることも死ぬこともないのだから。
何年か前・・・魅織と歌乃が子供だった頃、この身長計で自分の成長を確かめる二人と共に、俺も身長を測らされたこともある。
5尺2寸・・・俺の身長はずっと、157センチだったのに。
不変が不変でなくなった。
俺は、不老不死の座敷童子ではなくなったのだろうか?
***
遠い昔に棲んでいた家で、その家にいた付喪神にとある噂を聞いたことがあった。
俺はまったく信じてなかったし、悲しいだなんて思うことに当時の俺は出会ったこともなかったから、馬鹿馬鹿しいとその話を一蹴し、当たり前のようにその話を信じてなんていなかった。
だけどその付喪神は、俺が座敷童子であることを、ひどく羨ましがったんだ。
『泣くことを覚えた座敷童子は、人間になれる』
そんな噂が、妖したちの中でまことしやかに噂されていた。
***
しとしとと降り続ける雨はまるで空が泣いているようで、もう神を殺す方法なんて
必要なくなった俺は、呆然と目の前の本をただ見ていた。
白雪姫
ミオが死んだあの日に俺が読んでいた本は、ミオと一緒に灰にした。
俺が一緒の墓に入る日は来ないから、せめて俺の代わりになるように。
ミオと一緒の墓に入ったその本と同じものを、図書館で探して開いた。
あぁなんて皮肉なんだろう。
俺が白雪姫で、ミオが林檎。
だから俺はミオに出逢って恋を知った。
そう・・・ただの少女でしかなかった白雪姫が林檎を食べて恋する女になったように、恋を知らなかった座敷童子は林檎姫に出逢って恋をして・・・ただの恋する人間になってしまった。
彼女を永遠に、喪ってから。
***
その日の高美さんは、いつもと少し・・・違って見えた。
とは言うものの今日はいつも彼がやってくる水曜日ではなく、木曜日で。
昨日も先週と同じように資料を読んでいた彼が新たな本を探しに行くときにいつものように声をかけ、いつもと同じように少しだけ他愛ない話をしたはずだった。
そう、何の意味もないような世間話。
だけど彼はその途中、動きを止めてすごく驚いた顔で私を見つめたと思ったら、慌てて持っていた本を私に押し付け、帰っていってしまった。
何か変なこと、いっただろうか?
そう思って一晩考えてみても、答えなんてわからなくて。
夜が明けて仕事に来てみたら、木曜日だというのに彼は図書館にやってきて、いつも読んでいるような資料とはまったく方向性の違う、童話の本棚から1冊持ってきて、ずっとそれを見つめている。
読んでいる、ではなく見つめているのだ。
それはいっこうに彼はページを進めてないことから、明らかで。
「えと・・・おはようございます、高美さん。」
昨日も今日も様子がおかしいことがどうしても気になり、私は彼に声をかけた。
ずっと見つめていた私の視線には気づかなかった彼も、さすがにそばで声をかければ気づくのは当たり前で、本に向けていた視線をあげる。
本に描かれているのは地に伏したお姫様とその隣に転がるかじられたりんご・・・白雪姫だ。
「・・・・・・。」
無言のまま、高美さんは言葉を発することなく、
不審に思った私は本に向けていた視線を高美さん本人に向ける。
確かに高美さんは饒舌なほうではないけれど、挨拶はきっちり返してくれる人だったのに・・・。
そう思って彼を見て、私はひどく驚いた。
いつも淡々とした無表情を浮かべていた彼が、なぜか今にも泣きそうな悲痛な表情を浮かべている。
とても辛そうな彼は私と視線が合った瞬間、ふっとその視線を逸らし、机の上にあるそれを見つめた。
紅い半透明の小さな瓶に、半分ほど何か粉のようなものが入っている。
そしてその隣には、ネックレスチェーンに通された指輪。
「あの・・・それ、なんですか?」
私の問いに、彼はひどく悲しそうな顔のまま、再び私を見た。
何でこんなに心がざわつくの?
悲しそうな彼の顔は、まるで取り残された子供のように絶望に満ちていて、それを見ているだけで心臓を摘まれた気分になる。
あぁ、何であなたはそんなに辛そうなの?
「毒林檎の、灰。」
白雪姫の絵本に、毒林檎の灰。
それが何を意味するのか私にはわからなかったけれど、そう呟いた彼の声はすごく悲しそうで、私はそれ以上何も聞くことができなかった。




