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泡沫硝子  作者: 糸雨 冷
幻御前
3/6

後編

日増しに私の身体は弱りはて、ベッドからでることすらままならなくなった。

それでも優魅は以前と変わらず私に優しく、代わらず私の部屋に毎日綺麗な花を生けてくれる。


・・・・・・私は彼に、妻として何も返せないのに。


「ミオ、今日は天気がいいから少しだけ窓・・・開けようか。」


私の病状がどれだけ悪化しようと代わらず優しい貴方。

愛想を尽かすことも同情することさえなく・・・・・・もうすぐ死んでしまう私を妻にしたこと、後悔している素振りさえ見せない。

私は貴方を愛してる。貴方が私を確かに愛してくれていることもわかっている。

それなのに、私は貴方がわからない。


座敷童の幻御前。

人あらざる・・・幻の、妖しの存在。

その姿は年老いることなく、永遠に美しい人形のようで。


だけどそんな彼も、時々笑うようになった。

だんだん人に・・・近くなってきた。

それでもまだ、彼には一つだけできないことがある。


幻御前は・・・座敷童は、泣けない。




















「ミオが、意識を失った。」


優魅が少しばかりの買い物から帰宅すると、深刻な顔をした呼宝が彼に告げた。

それを聞いた彼はいつもと変わらない様子で黒目勝ちの瞳を数度瞬きさせる。


「容態は?」


そんなもの聞かなくても、呼宝の深刻な顔から予測することだってできる。

それに魅織はいつ亡くなってもおかしくないほどに、その身体は弱っていたのだから。


それでも聞いたのは・・・聞きたくなったのは、きっと優魅が否定の言葉を望んでいたから。


「今夜が、峠らしいよ。」


「そう。」


いつもと変わらない、抑揚のない物言いはこんなときですら変わることなく。

変わり続けるヒトとは違う彼を、呼宝は悲しく思った。

優魅は手に持っていた買い物袋の中から林檎をひとつ取り出し、残りが入った袋を呼宝に押し付ける。


「もうミオは、林檎なんて食べられないと思うけど。」


袋の中にはたくさんの林檎が入っていて、その中からひとつ取り出し、かじる。

林檎はしゃくりと音を立てて欠け、呼宝の口の中に甘い味が広がる。


甘い甘い、蜜林檎。

アダムとイヴが食べた、禁断の赤い果実。


「俺が食べるんだから、別にいいんだよ。」


魅織や呼宝と一緒のときでないと進んで食べることをしない優魅の珍しい言葉に呼宝は目を丸くする。


「ヒトにとって、林檎は禁断の果実だったそうだね。

ヒトに知恵を与え、恋を教えた禁断の果実。

林檎がヒトにとっての禁断の果実なら、座敷童にとっての禁断の果実・・・それがなんだったか、知ってる?」



その答えは、きっと白雪姫が知っている。























「昔々あるところに・・・



               その静かな部屋に、彼の声が響く。



黒檀のように黒く美しい髪と、雪のように白い肌と、血のように紅い唇の娘を・・・と、

望んだお妃様がおりました・・・・・・。

生まれた娘はお妃様が望んだとおりに美しく、白雪姫・・・と呼ばれました。」


手に持った絵本に黒い瞳をむけていた優魅はそこまで読んだところでパタンと音を立てて本を閉じ、自分が座る椅子の傍らのベッドで眠るミオに視線を向ける。


「ねぇ、ミオ。白雪姫は林檎を食べて死んでしまったというけれど、やっぱり俺は・・・林檎は禁断の果実だったと思う。

だって何も知らなかった白雪姫は、林檎を食べて恋を知ったのだから。」


白雪姫の食べた毒林檎。

彼女を殺すために用意されたそれは、彼女が王子様に出逢い、恋に堕ちる材料となった。


少女でしかなかった白雪姫は、林檎を食べて恋する女へとなった。


「恋を知らなかった白雪姫が林檎を食べて恋を知ったというのなら、恋を知らなかった座敷童は・・・なんで恋を知ってしまったの?」


ふと聞こえた愛しい人の声に、優魅はゆっくりと微笑む。

視線の先には漆黒の双眸でこちらを見つめる、優魅の愛しい白雪姫。


「何でだと思う?」


質問に質問でかえってきたことに、魅織は愛らしい顔を不機嫌そうに歪める。

そんな魅織を、優魅は先ほどと変わらない微笑みで見つめる。


「聞いているのは私だわ。」


少しばかり怒ったような、拗ねたような彼女の言葉に優魅はまた小さく笑う。

きっと優魅にとって、”笑う”ということも禁断の果実を食べてできるようになったことの、ひとつ。


「君が俺にとって、白雪姫じゃなかったから。」


まるで理解できない答えに、魅織は首をかしげる。

優魅はもう自分では動かせないだろう彼女の手をとり、その上に優しく、紅い林檎をのせる。

一口だけかじられた、禁断の果実。


「みんながミオを、白雪姫に似てると言った。

紅い果実を食べ恋を知った、あのお姫様に。」


黒檀のように黒く美しい髪、雪のように白い肌と、血のように紅い唇を持つ、端正な顔立ちの少女。


彼女を知る人は皆、口をそろえて白雪姫のようだと言った。

だけど優魅は、男である自分が黒檀のような漆黒の髪と雪のように白い肌と・・・血のように紅い唇を持つことを知っていた。

だから優魅は、魅織がそれに似ていることに知った。


「紅い、禁断の果実。

魅織が俺と言う白雪姫にとっての禁断の果実だったから、俺は君に出逢って恋を知った。」


ゆるり、ゆっくりとした動作で優魅の雪のように白い手が魅織の雪のように白い肌を滑る。

まっすぐ伸びた優魅の髪は黒檀のように黒く美しく、魅織の目の前で笑みを形どるその唇は血のように紅い。


白雪姫のようだと言われた魅織が愛した座敷童もまた、白雪姫のようで・・・。

もう動くこともできない魅織に優魅は満面の笑みを浮かべ口付けた。


「座敷童の愛した、愛しい愛しい林檎姫。

君に出逢って俺は恋を知り、人を知り・・・そして幸せの意味を知った。


俺を幸せにしてくれてありがとう。」






















灰色の煙は空へ向かい、いくら座敷童であろうともそれを繋ぎとめることなんて優魅にはできない。

手を伸ばしても煙は気体なのだから、優魅の小さな手の中に収めることはできない。


子供のような・・・小さな座敷童の手のひらは小柄だった魅織の手と幾分の差もなくて。

彼女はおそろいだと笑ったが、彼女に出逢って初めて優魅が大人になりたいと望んだこと、魅織は知っていただろうか?


160にも満たない小さな子供のような、女の子のように華奢な体ではなく、魅織の小さな身体を包み、全てのものから守りたいと思っていただなんて・・・無いものねだりが過ぎて、優魅にはとても口には出せない。


林檎姫、齧ることの許されない・・・禁断の果実の女の子。

ふわふわと揺れるその黒髪が愛しくて、穏やかに微笑む白い笑顔が眩しくて、優魅の名を呼ぶ紅い唇に囚われた。


座敷童が持ち得ないはずのその恋心は、紅い林檎の少女に手を伸ばしたときには、きっともうそこに存在していた。


花に埋もれ、炎に抱かれ・・・そして灰になった彼女を小瓶につめて、少しだけもらってきた。

彼女は墓の中に行ってしまったけど、夫である優魅が一緒にそこに入る日はきっと来ないから。


半透明の、紅い小瓶。

その中にいるのは、愛しい愛しい優魅だけの林檎姫。

どれだけ長い悠久のときを彷徨おうと、優魅は彼女のことを忘れないだろう。


「おやすみ、魅織。」


紅い小瓶に小さな口付けと一滴ひとしずくの涙。









『あのね、優魅。私も貴方に逢えて、とてもとても幸せだった。』

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