前編
真っ黒なその部屋には、相変わらず大きな鏡と椅子のみが置かれている。
鏡の隣に置かれた豪奢な椅子に座り、手の中の林檎をもてあそんでいた黒髪の青年――呼宝と名乗った彼は小さな声で歌を口ずさむ。
「あかぁいりんごをしゃくりとかじり、白雪姫は、死にいたる・・・。
慌ててやってきた王子様は・・・。」
そこまで歌い彼は口を閉じ、手の中の林檎を見つめたあと、それを一口かじる。
しゃくりと林檎は音を立て、食べられた分だけ欠けていく。
その林檎にはもちろん毒など入っておらず、呼宝が白雪姫のように倒れることも、死にいたることもない。
そして呼宝は、自分のかじった林檎を見て、静かな声で呟いた。
「だけど王子様は人間であった白雪姫とは違い、人あらざるものであった。
白雪姫はそのまま死の世界へと堕ちてゆき、人でなかった王子様はその場に立ち尽くすことしかできなかった。」
それが、幻御前の泡沫硝子である。
俺の知る白雪姫は、絵本にでてくる白雪姫と同じような特徴を持つ俺の友人である。
黒檀のように黒く美しい髪は長く、緩やかに波打って彼女の華奢な背を流れる。
雪のように白い肌は一点の曇りすらなく、陶磁器のように滑らかで。
血のように紅い唇はみずみずしく潤い、白い肌の中で色づく。
幼い頃に両親をなくした彼女は遠縁である俺の家に引き取られ、俺と彼女は兄弟のように育った。
だけどこの泡沫硝子は幻御前のものであり、白雪姫に似た彼女のものではない。
幻御前・・・そう呼ばれるものは男であった。
だけど彼は人間ではなく、俺の家に古くから住む・・・座敷童という妖怪だった。
160にも満たない背丈。
肩ほどまである黒髪は伝承の中での座敷童のように切りそろえられたおかっぱということもなく。
男にしては愛らしすぎるその顔立ちも立ち振る舞いも普通の子供と大差なく、座敷童だと彼が言わない限り、誰も気づかないだろう。
手を繋げばぬくもりがある。
肌に触れれば人と同じ感触がして、人と同じように心が・・・喜怒哀楽がある。
食事や睡眠を取らずにいることもできるらしいが、彼は俺たちの前では人である俺たちと同じようにあることを心がけ、行動してくれた。
俺たち人間と彼という座敷童の違いは、成長するかしないか・・・死ぬか死なないかの二つだけでしかなかったのに、どうすれば思いが止められたというのだろう。
幻御前と呼ばれる座敷童、彼は自分の名を優魅であると言った。
そんな彼を白雪姫に似た容姿を持つ彼女・・・魅織―――ミオは愛してしまったのだ。
死ぬことも、老いることもない男を。
「ねぇ呼宝、知ってる?
不老不死を望むのは、それの本当の意味を知らない愚か者だけなんだよ。
老いることも死ぬこともないというのは、ひどく異常で、異端で、悲しいことなんだよ・・・。」
優しい朝の光が差し込むその時刻、私は優しい旦那様の声で目を覚ます。
「ミオ・・・ミオ・・・魅織、起きて・・・朝だよ。」
重たいまぶだを開けると視界の先に優しく笑う、旦那様の姿。
私、魅織は若干18歳にして目の前の彼・・・優魅の妻である。
そしてわたしの旦那様である彼も中学生にしか見えないほどに幼い容姿をしているが、その年齢を見た目で計ることなんてできやしない。
彼は、不老不死の座敷童だから。
「ミオ、今日は天気がいいから外で朝食食べようか。」
そう言って優しく笑う、愛しい人。
何も心配することなんてありやしない。
例え彼が不老不死の座敷童で、例え私の身が一年にも満たぬうちに朽ちてしまおうとも・・・それでも私は彼を愛していて、彼は私を選んでくれた。
未来なんて誰にも予測できないこと・・・明日の自分を100%保障できる人なんていないのだから、私にとって何も心配することなんてなかった。
彼に出会ったあの頃・・・私は今とは違い、健康体を持つ普通の少女で、彼は今と変わらず年齢不詳の不老不死の座敷童だった。
冷たいように見えてさりげない優しさを持った、人に無関心な風を装いながら周りに気を配れる人だった。
彼の隠された一面に気づくたび、私は彼に惹かれていった。
気がついたときにはもうどうしようもないくらいに彼が愛しくて・・・恋はするものじゃなく堕ちるものなのだと、彼に出逢って初めて知った。
最初で最後の、最愛の人。
「何一人で笑ってるの?」
私が座る車椅子を押しながら、小さく笑みを零した私に彼は聞いてくる。
細くてさらさらの黒髪が私の顔を覗き込んだ彼の動作に合わせて揺れる。
私の癖のある黒髪とは違った、まっすぐでさらさらの髪。
とても・・・キレイ。
「何もないわ。ただ少し・・・昔のことを思い出しただけ。」
『シラユキヒメ』という物語を俺は彼女に出逢うまで知らなかった。
もともと異国の物語だというし、俺は呼宝に出会って魅織に出逢うまで、人とは関わらないように・・・そして不老不死の座敷童である自分の存在が明らかにならないようにしていたから。
以前宿っていた家がなくなり、新たな家を探していたとき、ふと目に付いたその洋館。
昔ながらの日本家屋にばかり座敷童は棲むと思われがちであるが、大事に人が暮らしている建物はどんなものであり座敷童にとって心地いいものなのだ。
ふらりと立ち寄り、棲みついた些か冷めた雰囲気の父子が住むその洋館に彼女がやってきたのは、俺がそこに隠れ住んでどれくらいたった頃だったろうか。
何年目かは覚えていないが、その頃にはすでに、人でないものを見つける力に長けていたその洋館の一人息子・・・呼宝に俺の存在は知られ、何気なく寄って来る呼宝と友人のような関係になっていた。
「この子、ミオって言うんだ。それで、こっちは優魅君。うちに棲んでる座敷童さんだよ。」
今よりもずっと幼い声でそう言った呼宝の声を、俺はそのとき心あらずといった調子で聞いていた。
俺の中の何かが、変わる音がした。




