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7 無人の教会

 静かな時間が流れた。彼女の光は躍動しながらもおとなしく、一度見失いはしたものの、大した焦燥感に駆られることもなく、僕等は次の生を迎えた。彼女が繰り返さなければならない業はいくらか穏やかな波となり、僕等は静かに出会った。

 十八世紀後半ごろ、僕は劇作家としてイギリス領のある塔に住んでいた。窓を開ければ海が見え、海岸線に沿っていけば、山の麓に建つ壊れかけた教会が見えた。彼女はその教会に通うシスターだった。そして人嫌いな性格を持った僕の代わりに必要なものを買って、塔まで持って来てくれた。この関係の契約が、僕と彼女のこの生における出会いだ。その時、僕は二十九歳、彼女は二十六歳だった。

 黒と白のシスター服を着て、彼女は塔にやってくる。窓の下で彼女は僕の名前を呼び、僕が手振りで入ってこいと伝えると、彼女は入り口まで戻ってドアをくぐる。石造りの塔は冷たく、冬など自分の部屋から出たくなくなるが、彼女はいつでも気温に頓着しない顔で登ってくる。

 彼女は敬虔なシスターらしく、感情をむやみに表したりはしなかったが、僕に好意を寄せていたのは間違いない。それは、彼女がどんなに神のみに愛を捧げようとしたとしても抗えない力なのだ。

 ある時、僕は彼女を呼び止めて、部屋に入れた。僕等は向かい合って座り、開けられた窓からくる柔らかい風を頬に受けながら、静かに話をした。かすかに聞こえる波の音が、まるで時計の秒針のように僕等の時間を捉えていた。

「君がシスターの道を選んだ理由は?」

「静かに、償いと奉仕に身を捧げたかったのです」

 彼女が言った償いという言葉が、彼女自身のどの部分から発せられたのかは分からない。彼女はキリスト教的に償いという言葉を意識していたが、彼女の光は、もっと過去の償いを求めていたのかもしれない。

「こう言うと君には失礼かもしれないが、キリストの行為をどこまで信じている?」

「全てです」

 彼女は躊躇うことなく答えた。この、僕の問いには深い意味があった。それは、僕と彼女の、本当の最初の出会いにまで遡る。もちろんそれを彼女が覚えているわけはない。その、記憶にないものが、今の彼女の行為のどこまでに影響を与えているのか、僕はそれを試したかったのだ。だが、その答えを今の彼女の言葉から察することは不可能だった。もちろんそれが分かっての問いではあったが。

 風が吹き込み、木製の両開き窓がばたばたと音を立てて閉まった。その音に彼女は体をびくっと動かし、すぐに心の乱れを恥じるように瞑想した。

「潮風のせいでここの窓はすぐに傷んでしまう。これもそろそろ変えなければな」

「窓の手配もいたしますよ」

「では頼もう」

 僕は窓際まで行き、閉まった窓をゆっくりと開けた。風はもう落ち着いていて、潮騒に目を瞑った。

「今度、君がいる教会に行ってみようと思うのだが」

「また何の用事で? 何もございませんよ。あなた様が来られるようなところではありません」

「なんとなく、行ってみたいのだ」

「御信仰もないくせに」

 彼女は目を伏せながらふふっと笑うそぶりを見せた。特に幸せというわけでもない。だが今までにない安心感が僕等を包んでいた。僕等を迫害する者はおらず、僕等が仇とする者もいない。自分達のために時間を使うことができる、それが嬉しくて、僕も笑った。

 だが、僕等のささやかな幸福は、長続きしたわけではない。この生こそはと思っていたが、僕等を捉えている巨大な力は、やはり影をそこに落としていく。最初は薄く、しかし気が付けばいつの間にか色濃くなっている。最初の予兆は、塔から浜辺に降りたすぐの場所に野宿を始めた老人だった。彼女に教えられて初めて知った僕は、自室の窓を開けて見下ろした。今にも風に飛ばされそうな簡易テントを張って、ほとんど髪のない老人が浜に座っている。ずっと見ていると、老人もこちらの視線に気が付いたのか、驚いたように振り向いて、僕の顔をぎょっと見つめてきた。

「一体何をしているのだろう」

「訪ねてきましょうか」

「いや、僕が行く」

「それはいけません」

 すっと動いた僕を彼女は手で制して、きっと睨みつけてきた。彼女らしからぬその態度に驚いて、僕は後ずさりをしてしまった。

「すみません、びっくりさせてしまいました。しかしあなた様はここを降りてはいけません」

「どうして?」

「何か、そのような気がするのです」

 窓から浜辺を見ると、老人はまだこちらを見つめていた。彼女の胸騒ぎをどう受け止めるべきか、僕には判断が付かなかった。というのも、この時、本当に彼女自身にも、胸騒ぎの原因は分かっていなかったであろうから。しかし僕は、ここで感じた影に、彼女の業はまだ終わっていないという事実を思い知らされた。

「決して、決して、この塔から降りてはいけません。私が言うまで、絶対に降りないでください」

 彼女は僕の手を取り、額に付けた。彼女は少しだけ震えていた。

 次の日の朝、窓を開けて浜辺を見ると、テントの数が増えていた。一晩のうちに計五つの簡素なテントが張られ、そしてその下で、何かを畏れるような態度の者達が寝ている。そこには老人だけでなく、若い男女もいた。そして僕が見下ろしていることに気が付くと、皆それまでの行動をやめて、一斉に塔を向いて祈りだす。

 彼等の正体はすぐに分かった。生命の光を見ることができる僕にとって、自分と関わりを持つ人間の業はすぐに分かるからだ。彼等は今まで僕等と生や死を共にした者達ではなかった。彼等も僕と同じように、生命の光を感じることができる者達だった。そして彼等は、塔の下で、塔の上にいる僕に敬意を持って佇んでいる。きっと彼等には、僕の光がどこから来て、どこへ向かうのか、それが分かっていたのだろう。変な見つかり方をしてしまった。しかし謎が解けると、僕の不安は消えた。彼女が降りるなと言ったのも、ただの気の迷いだと早合点して、僕は塔を出て、ぼろぼろの教会まで歩いた。

 一体何がどう僕等を運ぶものか、それは今でも分からない。不安が次には安心に変わり、しかしその安心のせいで別の不安が生まれる。あるいは、僕等の生に破綻の兆しが現れる。この生の時、僕が彼女と長い時間を過ごすためには、彼女が言った通り、僕は決して塔を降りてはいけなかったのだ。

 教会に辿り着いた僕が見たものは、三体の人骨と、ぼろぼろになった三個の十字架だった。教会の屋根はところどころが破れていて、その隙間から差し込んでくる光の線が、人骨と十字架を悲しげに照らしていた。教会は無人だった。僕は息を呑み込み、そっと足を踏み入れた。人骨はまだ幼い人間のもので、話しかけても応えてはくれない。まさか、と一瞬思った直後、背後で彼女の悲鳴がした。振り向くと、真っ青な顔をした彼女は、僕に視点を合わせることもできず、その場で崩れ落ちた。

「許して下さい。私の罪を許して下さい。許して下さい、許して下さい……」

 彼女はただそれだけを繰り返し、僕が抱きあげて話しかけても、もはや会話にならなかった。錯乱する彼女の精神を落ちつけようと、僕は彼女を強く抱きしめた。すると、彼女は体から力を抜き、僕の耳元で小さく「ごめんなさい」と呟いた。

 僕はこの時、束の間の安心を感じたが、今思えば、それさえも見えない光や業の流れであったのだ。安心に浸ろうとして、僕は彼女を押し倒し、服を脱がせた。しばらく彼女はなされるままにしていたが、僕の体を受け入れた直後、突然体中を硬直させて、僕を跳ね飛ばした。そして震えながら大声で喚き、やがて教会から走り出ていった。

 人骨を振り返ると、わずかに見えない光が滲んでいて、僕はそこから、三つの人骨が彼女の子供だと知る。生まれて間もなく死んだのではなく、生まれてすぐ殺されて、ずっとこの場所に置かれていたのだ。それを彼女は三度やっている。この時、僕はやっと、この生で彼女がシスターとなった本当の理由を知った。彼女は、自分の魂と肉体の調和を取ろうとしていたのだ。それも、無意識のうちに。殺しの代わりに性的行為がこの生の彼女に快楽を与え、生まれてくる子供達は、前の生で彼女を砂漠に放り出した者達であり、彼女の業が殺しを命じた。だが彼女の心は深く傷ついた。そのあまりにも残酷な自らの行為に。

 彼女はその後、きっと精神錯乱をきたし、もはや正常な心の入る隙間はなくなっていたと思う。僕は塔に戻り、さらに増えているテントの群れを見下ろした。おかしな気分だった。彼女は殺人者であり、業の奴隷、そして僕は、テントの群れ達の崇拝対象なのだ。そんな思いで見下ろしている時、突然部屋に入ってきた彼女に、僕は背中を刺された。テントの下の者達が一斉に大声を出し、慌てふためき、何人かは卒倒していた。僕の背後の彼女は奇声のような泣き声を出して力強くナイフを差し込み、そして思い切り引き抜いて、自らの胸にも突き刺した。

 血が流れた。大量の赤い血が石の床に広がった。僕は彼女の首からロザリオをちぎり取って床に置いた。口と胸からだぼだぼと血を流す彼女を抱きしめて、頭を優しく撫でた。彼女の瞳から涙が伝い、僕等は床に倒れ込んだ。血はまるで薔薇のようだったと思う。真中にロザリオを置いて、広がっていく血の薔薇。この時ばかりは、彼女の下に白いシーツを用意できなかった。

 ああ、こんなことをしていてはいけない、僕はふっと、そう思った。あの時の、感動を、思い出したからだ。受肉したキリストが磔刑となり、そして復活したあの奇跡を。僕はその時生まれていなかったが、あのキリストの行為が、僕をこの世での生に駆り立てた。もはや衝動としか呼べないその力に身を任せて、僕はこの世界での初めての生を受けたのだ。彼女と出会う前、僕はキリストへの純粋な愛を持って生まれた。そして、彼女と出会い、愛が堕落した。

 僕は消えかけている意識のなかで、彼女の手を握った。すまない、すまない、そう呟きながら、それまで忘れていたひとつの事実に気が付いた。これらは彼女の業ではない。僕が、僕が彼女に与えてしまった、罪深い業なのだということに。

 だが僕等は転生してしまう。肉体に引き寄せられるかのようにこの世に戻り、彼女は僕を求め、僕は彼女を助け出そうとする。その行為がそもそも間違っているのだと分かっていながら、もはやどうすることもできない運命の流れのなかに、僕等は浸かってしまっている。彼女の心は僕を忘れられないし、僕もまた、助けるという口実のもと、彼女の肉体を追い求めてしまうのを止められないのだ。



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