6 奴隷と主人
あんなに強く激しく衝動に蠢いていた彼女の光だったが、次は見失ってしまった。彼女が背負った業そのものも、もしかすると消えてなくなったかもしれないとさえ思った。だが世界は、無慈悲に廻り続ける。
次の生で僕と彼女が生まれた場所は、海に隔てられていた。人種も違った。僕はスペインの貿易商の次男として生まれ、彼女はアフリカ大陸に生まれた。確か時代は、十七世紀程だったと思う。何しろ僕は前二回の生をほとんど森のなかで過ごしたものだから、町の変わりようには驚いた。
僕は肉体を持って生まれた後、自我と呼べるものを意識できるようになればすぐに彼女の光を見つけることができる。いや、それまではそうだった、と言うほうがいい。この生において、僕は自分の周りのどこにも彼女を見つけることができなかったのだから。少なくともスペイン(現在のイベリア半島を指して)にはいない。もっともっと遠くにいるのだとすぐに理解したが、この距離の差は、僕自身の衰弱を表していた。彼女に固執し続けることで、僕は明らかに自分の持つ大切なものを少しずつ失っているのだ。
だが僕と彼女が本当に離れ離れとなってしまうのは、まだまだ遠い先のことだろう。この生の時だって、僕と彼女は結果的に出会うことができたのだから。
彼女は今のナイジェリアに当たる地域にいた。僕は貿易商の次男として当時奴隷海岸と呼ばれていた場所へ赴き、スペイン人に捕まって奴隷とされた彼女と再会した。彼女は十四歳、僕は十八歳。森のなかで破壊衝動に溺れていた彼女の面影はどこにもなく、奴隷の彼女は、怯えた目で震えているただの少女だった。何の記憶も持ち合わせてはおらず、やはり消えていなかった彼女自身の業に気付くこともなく、時々自らの悲運を嘆いていた。
彼女は可憐な少女だという理由で、他の男達の奴隷とは別にされ、行き先もアメリカ大陸ではなく、スペイン本土にされていた。本土に着いた後の彼女の運命は明らかだった。体を綺麗にされて奴隷市場に出され、少女趣味の金持ちに買い取られて慰みものにされるのだ。いや、前の生で彼女が行ったことを考えると、それは当然の報いだと言えるのかもしれない。だが僕は違う道に、彼女の業を賭けてみたかった。
彼女が連れていかれる予定の前夜、僕は檻のなかでパン一切れと水しか与えられていない彼女に、チーズと豚肉の燻製、サラダ菜を与え、パンももう二切れ与えた。僕の姿に最初怯えていた彼女だったが、食べ物に口をつけた後は、まるで救世主と言わんばかりにすがりついてきた。彼女の肉体が彼女自身の真の記憶を隠しているとしても、僕に対する衝動は起こるのだ。
僕は看守から奪い取った鍵を使って檻を開け、彼女を抱きよせた。土の匂いと、酸っぱい臭いがして、僕は森のなかで傍若無人に振る舞っていた彼女を思い出した。怯えすがる彼女の瞳は小刻みに震えていて、やや血色を失っている唇に優しく噛みつくと、体をびくっと痙攣させ、彼女は僕の足元に膝をついた。彼女の手は震えていた。そして僕の股間をそっと撫で始めた。
この生の時、僕等が出会う前に彼女がどのような環境で育ったのか、それは今の僕も知るところではない。だから、この時の彼女の行動を、僕はどう理解すればいいのか分からない。あるいは、全ては生命の光に導かれたものだったのかもしれない。というのも、僕等の稚拙な淫行は、当時の僕の兄によって見つかり、がらがらと、業の車輪が回り始めたのだ。
看守に暴力を加え、奴隷を勝手に檻の外に出し、挙句は淫行にまで及んだ僕に、父が激怒した。父は全身を震わせ、僕を二回殴った後、彼女もろとも貿易港のすぐ側から広がる果てしない砂漠に放り出した。港は父の権限で封鎖され、僕等を見つければ有無を言わさず殺すよう命令が下された。最後に、兄が同情と軽蔑の混じった表情で僕等を見下げ、革袋一杯の水をくれた。
こうやって僕等は砂漠をさまようこととなった。広大な砂漠をどこにどう行けばいいのかなんて、磁石も持たない僕らには分かるはずもなかった。彼女にも、自分がいた集落への道が分からなかった。陽が昇ると、焼けつく太陽の日差しの下で、彼女は自らに降りかかった運命に声もなく泣いた。
思い返せば、最初から僕等は、この生のなかでこうなる定めだったのだろう。僕は前の生の時に彼女を殺した時から予感していた。だからこそか、僕は彼女が殺した商人の一人から生まれることを選んだ。
彼女の言葉を理解することはできたが、僕が喋るスペイン語は、彼女に通じなかった。当てはなかったが、昼間の暑さから逃げるように、僕等はふらふらと歩き続けた。彼女はオアシスの存在を話し、それがどのようなものかよく分からないまま、僕は水を求めて進んだ。革袋の水はすぐなくなったのだ。
僕等は、前の生で人間を殺し続けた。その報いはもちろん転生した人間から受けるものであるが、僕には足元の大量の砂こそが、報いの主のように思えた。それは僕等が見てきた死そのものであった。いや、あるいは、彼女が住み着いていた森の、目には見えない力が砂となって彼女を呑みこもうとしていたのかもしれない。彼女は前の生で、水や風を酷使してきたのだ。それを思うと、僕等の目の前にオアシスなど決して現れてはくれない気がした。
あの乾き、あの疲労、あの頭痛、吐気、高熱、一日ともたずにまず僕が倒れた。彼女は泣きながらも優しく僕を撫でてくれ、助けようとしてくれたことの感謝を何度も何度も口にした。夜が来て、急激に温度が下がってくると、土が死の匂いをあげ、僕は目を閉じた。
ぽたと、口元に水滴が落ちてきて、僕は目を覚ました。舐めると少しだけ塩辛かった。すぐに彼女の涙だと気が付いた。「歩けるなら歩こう」と、彼女は擦れる声で言った。いつの間にか、夜は過ぎ去っていた。僕はゆっくりと立ち上がり、朦朧とする意識を抱えて、どこへともなく歩いていった。彼女は僕の腕を支え、おとなしくついてきた。もしかすると過去の記憶を思い出したのかもしれないと思ったが、彼女の目はやはり怯えていて、死を嫌い、わずかに、ほんのわずかにではあるが、いつかと同じように恨みの炎がちらちらとしていた。
もはや僕には、業や転生のことを考える力などなかった。この時の確かな記憶すらないと言っていい。歩いていた間のことは曖昧で、気が付くと僕と彼女は、小さなオアシスに辿り着いていた。目の前に緑色の草が茂り、背の高い木が何本かそびえ、その下には水があった。大量の水、ここで一生暮らしていけるのではないかと、その時の僕は思い、彼女を見て、力なく笑った。時間は昼間だったが、吹く風が冷たくて気持ちよかった。
だがそれは一瞬のこととして終わる。結局僕等は、何も見つけられてはいなかった。僕の隣には、もはや動かない彼女がいて、目の前には、やはりどこまでも、地の果てまで、黄色い砂が続いていた。暑さに耐えられなくて、服を全部脱ぎ、汚れて異臭を放っている白いシャツに彼女を寝かせ、僕は走った。どこまでも走った。砂に足を取られて何度も転びながら、僕は走った。砂に小さな足跡を残し、走り続けた。
意識は突然途絶えている。僕はこの生の時の自分の最後を覚えていない。