3 世界の色、血の話
次の話がいつのことであったか、僕は詳しいことを覚えていない。しかし時代で言うならばある程度覚えている。宗教革命、いや、産業革命よりもずっとずっと前、ヨーロッパのほとんどが森に埋もれていたころだ。そのころは僕も彼女も文字を読むことができなかったし、お互い西暦を気にするほどの余裕もなかった。自分達がどのあたりにいたのかも、正確には分からない。覚えている言葉の感じから、ドイツ語圏であったことは確かだ。
僕等はその当時ヨーロッパ中に広まっていた恐ろしい死の病から逃れるために、その日暮らしの旅をしていた。僕と彼女は旅芸人で、人を笑わしたり驚かしたりしてわずかなお金や食糧をもらっていたけれど、病が本格的に猛威を振るい始めてからは、誰も僕等を見てくれなかった。その病は残虐だった。数え切れないくらい人が死んだ。僕らの目の前で息絶えた人も多かった。
お金も食べ物もなくなると、僕等は盗みで生きながらえた。だけれど逆に、僕等の持ち物を盗まれたこともあった。それを天罰のように感じながら、なおも盗みで何とか死なずに、僕等は病のない場所を探してさまよった。僕等は何ヵ月も体を洗わなかったけれど、それ以上の耐えられない悪臭がどの町や村にも蔓延していた。人がいるところはどこも黒と赤の色で穢れていて、とうとうこの世の終わりかと思っていた。
いくつの町や村を転々としたころか、彼女が、確か十九歳の時、とうとうこの病に罹ってしまった。右の内腿が大きく腫れあがり、彼女はほとんど何も言わなくなって、どこか遠くを見つめていた。二日後、僕等は静かな村に辿り着いた。そこにはまだ病もなく、この病のことも知らない様子だった。彼女の体調が悪いことを言うと、善良な村人の一人が家に来るよう言ってくれた。僕等はそこにお邪魔し、いくらか栄養のあるものを食べることができたが、彼女の病は治らず、咳が酷くなり始め、村についてから三日後には、彼女の全身には黒いアザができていた。それは、僕らがそれまでにいくつも見てきた、死のはっきりとした予兆であった。
何も知らない村人達は、彼女の病気が早く良くなることを祈ってくれたが、僕はもう、諦めていた。僕は自分の唇を、渇ききって土のような彼女の唇に押し当てて、「愛してる」と言った。彼女は頷くこともできず、わずかに涙を流した。
次の日、彼女は大量に吐血して、その後わずか数分のうちに死んだ。やはり、白いシーツの上だった。彼女の死は、あらゆる生命の静寂を呼び起こした。いつの間にか、血で汚れたシーツは赤黒くくすんでいて、その色は、僕らがその村に辿り着くまでに何度も何度も見てきた、この世の終わりの色だった。部屋の、少しだけ開いた窓から黄金色の光がゆっくりと射し込んできて、彼女の顔と、シーツと、僕の体を照らした。何かが燃えるような臭いがして、ろくに見えもしない窓の外に目を移すと、風に揺らめく細い糸のようなものを感じた。彼女の光だった。手で触れようとすれば、僕の感覚の内から消えてしまう。目を閉じれば、家の材料として使われている全ての木材の存在が消え、純粋に、僕の周りに彼女の光が漂った。何も不幸など感じはしない。むしろその時の僕は幸せですらあった。おそらく数日のうちに僕も同じ病で死に至ることを理解していたからだ。彼女の光を見失わずに済む。それは、その時の僕の生のうちで食べたどんなものよりも安心感を生み、どんな寝床よりも心地良いことであった。
家の主人が部屋に入ってきて悲鳴を上げた。それは、村に鳴り響く鐘そのものであった。死が始まる。何も知らないその村に黒い死がはびこる。陽が沈み、闇が、悲鳴に満ちた闇が、村に降り立った。その後、村がどうなるかを見届ける前に僕も死んだ。記録も残らない時代である。僕らが善良な人間達の何人を殺すことになってしまったのかは、今でも分からない。