2 墓地と骨達の話
いつも、生き残るのは僕だ。彼女を失ったあと、僕は彼女の本当の美しさを表す目には見えない光を必死に追う。見失ってしまったら最後、僕はもう二度と彼女に出会えなくなる。内臓が裏返ってしまいそうなほどの焦燥感に駆られて僕は疾走する。それでも、僕は彼女の光を見失うのだ。そしてそのたびに絶望し、また彼女に会えた時、世界の全てに感謝する。その繰り返しを何度してきたか。見失い、再会する。それなのに僕は、必ず再会できるとは限らないと考えてしまう。
さあ、そろそろ話を始めようか。この物語の始まりは彼女が死んだところからで、僕は、墓の前だ。その時、彼女の墓の周りには、たくさんの墓が同じように並んでいた。それらの下の骨は、僕等が生きた時代の昔話をしてくれた。骨も、時にはどこかに行きたいと思うようで、せめて重い石の下から這い出て、墓地のなかくらいは歩いてみたいそうだ。骨にはもう、しっかりとした足もないのに、彼らは「歩く」という表現を使う。
「彼女はどうしてここに来たのだい」と、すぐ側の骨が聞いてくる。病死だと、僕は小さな声で、ぽつりと呟く。骨の彼女は恥ずかしがってなかなか喋らない。何しろ、彼女は若くして死んだものだから、周りの年季が入った骨達のなかで、恐縮してしまっているのだ。
こんこん、と、彼女の上に乗っている石を叩いて、僕は問いかける。「君は今、どこにいるのだい」と。「骨は、骨。その他の部分は知らない」いつも同じ答えが返ってきて、僕はいつも失望する。墓の下の骨は、彼女であって、もう彼女ではない。
僕は行き場のない気持ちを少しだけでも楽にしようとして、隣の骨達に話しかける。「あなたは誰ですか」すると、工場で働いていただとか、お寺にいただとか、いくつも海を渡っただとか、そんな答えはたくさん聞くのに、誰一人として、自分の名前を言う者はいない。僕はそこまで入り込まない。きっと彼女の骨に聞いたとしても、名前を言ってくれることは、おそらくなかっただろう。
ある日のこと、彼女の墓がある墓地を歩いていると、「君、君」と声が聞こえたので立ち止まった。周りを見ても誰もいない。その墓地は郊外の丘の上にあって、中に入ればどこにいても全体が見渡せる。いや、一本、大きなイチイの木が立っていて、そのすぐ向こう側だけは分からない。しかし自分とイチイとの距離を考えると、とても人の声が届くとは思えない。気のせいにして歩き始めたら、また「君、君だよ」と声がした。もう一度止まって見回すと、僕を中心にしてイチイの木と対称になるくらいの位置に、骨が立っていた。骨は少しくすんでいるが、五体満足そうで、綺麗なS字の曲線を描く背骨で真直ぐ立っていた。彼は手振りで挨拶をした後、僕に話しかけてきた。
「君はこんな昼間から、仕事もしないで毎日ここに来ているね」
「仕事はしています。午前だけですが」
「いやいや、君を見ているととてもかわいそうでね。つい今日は声をかけてしまった」
「それはありがとうございます」
そんなやりとりをして、僕は深々と頭を下げたが、その骸骨に特別な感情は抱かなかった。と言うのも、骨達とは話こそできるが、彼らはあくまで骨でしかないのだ。僕は骨と話す時、いつも――それは彼女の骨と話す時も――物と話している気でいる。心は通じ合わない。共感もできないし、感動もない。ただ、空しくなるだけだ。
頭を上げるとすぐに、僕は足を進めた。すると骸骨はカタカタと軽い音を立てて、「待ちたまえ」と言い、さらに言葉を続けた。
「君に用事があるのは私じゃない。君と話したがっている方がいるんだよ」
足を止めて振り返ると、風がわずかに吹いて墓と墓の間に生えている雑草達が揺れた。骸骨はまたカタカタと音を立てて、ぎこちない動きで少しだけ僕の方に近付いてきた。
「この墓地に、僕の知り合いは一人しかいないはずですが」と言うと、骸骨は「墓の下のやつらじゃないよ。それはね、この方だ」と返してくる。そして今にも外れそうな動きで腕を動かして、自分の右に両手を向けた。しかしそこには誰もいない。骨の姿も見えない。そこはただの空間だった。向こう側には墓地が広がり、丘の向こうの町が見え、空の青い色が霞んで広がっている。見ていると、少しだけ眩暈がした。
「君、失礼なやつだな。彼女が挨拶しているのに、君も挨拶くらいしたらどうだ」
骸骨は怒った様子で骨をガタガタと鳴らしながらそう言った。演技のようには見えなかったが、その時の僕はからかわれているのか、それともこの骸骨の気が触れているのか、そのいずれかであろうとしか思わなかった。
「知人の墓参りが済んだらすぐに帰りますから」
そう言ってそっぽを向くと、骸骨は急におとなしくなって、「まさか――」と声を出した。それはとても静かな声で、呟きのようだった。気になってもう一度骸骨の方を向くと、肩の力を抜いてだらんと腕を垂らしていた。
「おい、君、君には私がどのように見えている?」
骸骨は突然そんなことを聞いてきたので、もしかするとこいつは自分が死んだことに気が付いていないのだろうかとも思ったが、僕は何を躊躇することもなく、ただ「骨」とだけ言ってやった。すると骸骨は、今度は心底驚いた声で「まさか」と言い、小刻みにカタカタと音を鳴らし始めた。その動きの意味を量りかねていると、骸骨に「君は本当に変なやつだ」と言われた。
「まさか! 骨まで見えていて、私を包んでいる光が見えていないなんて」
僕は骸骨の言った光という言葉にはっとした。そして彼女の光を見失ってしまっていることに気が付き、どうすることもできない、広漠な孤独に震え上がった。咽が震えて声が出ず、足には力が入らず、膝が折れて固い地面に当たった。光が底なしの闇に吸いこまれて全て消えた。骸骨の声が聞こえたが、理解はできなかった。耳鳴りが始まり、段々大きくなって全ての音を呑みこんだ。
どれだけ時間が経ったのか、その時の僕には知りようもなかったが、気が付くと、僕はいつの間にか彼女の墓の前に立っていた。見回してみたが、どこにも骸骨はいなかった。イチイの木を見ると、風に葉が揺れていたが、僕はもう何も感じなかった。骨の声ももう聞こえなかった。
なぜ彼女の光を見失ってしまったのだろうかと考えたが、答えは出なかった。もしかすると墓に固執しすぎたのがまずかったのかもしれないと思い、墓参りをやめたが、何も変わらなかった。僕は世界と話すことができなくなり、それ以降の記憶は残っていない。何度も繰り返す僕と彼女の物語のなかで、これは最悪なものだ。彼女が死んでしまうことは、特段悲しいことではない。なぜなら僕は、それ以上に恐ろしいものを知っているのだから。