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あそこから ここまで

掲載日:2026/10/01

 数少ない親友がこの世を去ったと聞いたのは一晩中雪が降り続けた2月上旬の出来事。驚きのあまり声にならない音を喉から絞り出しながら、彼の母親と電話で会話をした。母親も所々言葉にならず、嗚咽(おえつ)混じりだった。


 高速道路を東京方面へ一人で走行中、緩やかなカーブを加速しながら直進を続けて壁に激突。巻き込まれた後続車両はなく、彼が即死だったらしいことは、せめてもの不幸中の幸いと言えるだろうか。


 事故は雪が降る前の時間であり路面は乾燥していた。タイヤとブレーキの状態から警察は居眠り運転と判断したが、母親は疑問を持っていると電話で話した。家を出たのは昼頃で、事故を起こす前の母親との会話からは眠気を感じなかったという。電話で詳しく聞きながら、母親はやるせなくて、自分たちには関係のない何かの責任だと思い込まないと気が狂ってしまいそうなのだと受け取った。僕は否定をせずに、しかし肯定とも受け取られない程度の相槌だけで電話を終えた。


 固定電話の受話器を戻して、僕は漠然とした喪失感と『ああ……あいつは死んでしまったのか』という冷静な納得をするばかりだった。そう納得を繰り返して自分に言い聞かせているというのも間違いではない。だが僕は思ってしまう。もしかしたら彼は……いや、もしそれが正しくても考えるべきではないことだ。


 過去を振り返れば僕らは特別なことを何もしなかった。けれど、ただぼんやりと隣で話すだけの時間がかけがえのない思い出として残っている。ただ思い出そうにも普遍的すぎて、会話の内容も遊びの内容も漠然と霧がかかったようになっていた。


 彼が亡くなってからここまで、彼が日常から消えた事実を理解できないでいた。




 一週間が過ぎて、僕の生活は以前とまったく変わりがない。社会人になってからも高頻度で遊んでいた仲だから日常的なメールや電話のやり取りはほとんどしてこなかった。この日も、よくある休日の遊んでいない日、くらいの考えだった。


 雪はあの日からずっと溶けず、歩みを進める度に小気味良い音を立てて足跡を残す。履き慣れない長靴がだんだんと重くなり、ただでさえ体力を多く使う雪道で足に重りを巻いているのと同然に疲弊する。気温に反して服の中は汗をかき始め、慢性的な運動不足が祟り激しい息切れを起こした。


 やっとの思いでスーパーに到着するとコートの前ボタンを開いて懐の熱気を外へ逃がす。そうして体が寒くなる前に店内に入る。夕飯は鍋にしよう。温まるのはもちろん、雑に作ってもうまいし、作りすぎても翌日の味噌汁の代わりになる。米はまだ家にあるので具材と鍋の素をかごに入れた。


 精肉コーナーからレジに向かう途中でお菓子コーナーを通る。横目にちらっとブラックチョコレートの箱を見た。それを好きなやつがいた。買い物をしている途中、何度もそう考えていた。その思考を無理矢理頭から振り払う毎に早足になっていく自分にも気がついた。思う事を止められるわけでも、思いをなかったことにもできないのに。


 彼の好きな食べ物を知ってからここまで、何度それで機嫌をとろうとしたことか。そしたら彼は毎回怒ったふりして最後は笑い話にして、二人してよく笑って終わっていた。





 帰り道、行きの自分の足跡の上を歩いた。大きな買い物袋を下げて歩く苦労は行きよりはるかに厳しい。おそらく500メートルくらいの距離しかないはずなのだが、なんだか倍くらいの距離に感じ始めて荷物と腰を下ろして休む。半分ほどは進んだはずだ。今は水っぽい雪の下に隠れて境界がはっきりしないが、住宅地に入る砂利道と畑の畔の場所になっているはずで、近所に住んでいる感覚としては座り込んでも通行人の邪魔にはならないだろうと判断した。


 白い煙を吐いてもうじきに夜になる赤橙色の快晴の空を見上げた。浮き上がった白煙がぼうっと揺らめいて、まるで自分の呼気ではないものが混ざったように見えて慌てて周りを見回す。当然に人はおらず、車や自転車の通りすらない。僕は風のいたずらだろうと決めつけたけれど、隠せない動揺の証として動悸が激しくなっていた。昔にあった、ある日の出来事のように横に彼がいた気がしていたのだ。


 あれは学生時代、夜と呼ぶ時間でもないのにすっかり外が暗くなった部活終わりのこと。太陽は前日の豪雪を溶かしきれなくて多くの積雪を残していた。慣れない長靴を履いて、大きく膝を上げて雪の上を歩いて行く。会話はいつもより少なく、僕も彼も果てしなく広がる白い世界にうんざりしていたんだと思う。


 息切れしてきたくらいで彼は立ち止まった。その時僕は、なかなか弱音を吐かない君もいよいよ観念したんだな? と、いやらしくからかおうとした。彼の顔でも覗いてやろうとしたとき、彼は教科書が入ったスクールバッグを思い切り振りかぶって、雪明かりが照らすのを良いことに真っ白い畑へ向かって投げ込んだ。突然、悪魔にでも憑依されたような行動に僕は呆気に取られて、そのまま雪の上へ大の字に倒れ込む姿を少し怖がって見ていた。彼は白い吐息を漏らしながら遥か上空を見つめる。その視線を追って僕もまた同じように動けなくなった。


 澄んだ空気に夜でも見える快晴の空、真っ黒に藍色を滲ませて見える天の敷物が広がって、そこへ粒のような明かりが無造作に散らされていた。昔から花より団子であった僕たちを、この空はどうして惹き付けて離さないのか。上を見たまま彼の横に座り込み、時間を忘れて茫然と白い息を上げた。


 彼と星を見てからここまで、あの空の美しさを説明はできない。それでも、ただ美しいと感想を持つことが僕の思い出の理由になるみたいだ。





 家に帰ってからすぐに厚着を脱ぎ捨てて外気に合わぬ薄着となり、買ってきた食材を片付け始める。


 あらかた終わらせてから料理本に書いてある手順をおさらいした。男の独り暮らし用料理というタイトルの通り内容はかなり大雑把だ。調味料がだいたい適量としか書かれていない。そんなわけあるかと心でツッコミを入れておいて、あまり参考にはしないまま始めるとしよう。


 僕は元々料理が作れる男ではなかった。食えれば何でもいいの精神で、そのくせ好き嫌いは多い。だけど僕が一人暮らしを始めたと知って、なし崩し的に我が家に上がり込んだ彼に作ってみせた料理は何でも旨いと言ってくれた。今料理をし続けているのも、それが嬉しかったからに違いない。料理本を台所まで持っていき、肉じゃがのページを開く。彼によく振る舞った品だ。


 彼に初めて料理を出してからここまで、他の人に作ったことはない。単純に機会に恵まれなかったのが理由だが、それ以上に彼以外の評価が怖かった。いったい僕はどれだけ彼に心を許していたのかな。





 彼が亡くなって二週間。雪は路肩で固まり、道路には車がよく通るようになってきた。仕事から帰宅すると玄関の投函口に大きな茶封筒が投函されている。珍しいなと差出人を確認すると彼の名前が書かれていた。それを見た瞬間、心臓の鼓動が早まり、手が震え出す。彼の死を聞いてからこんなことは無かったのに、葬儀に出ても事実を受け入れたのに。あの時の感覚はどこか夢想していたようで、現実のはずがないと、言葉ではない言葉で僕は僕に言い聞かせていたのだろうか。


 ひとまず荷物を机に置くのにたっぷり5分はかかった。そして理解できた。自分は死を受け入れていたつもりで、実際はドラマや映画を観賞するような感覚で、起こってはいるが現実とは違っていて、実はどこかで放浪でもしているんじゃないかと希望を抱いていたのだ。


 手に異様に力が入り、髪の毛を無茶苦茶に掻きむしった。馬鹿か、何をしてたんだ! 自身を卑下する言葉を怒鳴り散らす。何にも気づけずに二週間も過ごしたなんて、あまりにも酷い話で笑えない。


 A4サイズの茶封筒には2枚のCDと1通の手紙が入っていた。正直、包みの大きさに合わない中身だと思う。しかし、これは彼がよくやる手法だった。包みの大きさで期待させて中身は小さい。そのギャップで笑いを取っていた。それも今や懐かしい。


 さて、中身のCDというのは彼のお気に入りで、僕に何度も勧めてきた物だ。静かなピアノと美しい響きのアコースティックギター、雑踏や話し声を絶妙に加えて、見事生活に溶け込む音楽を作り上げた作品である。そして手紙の方だが




前略、君へ


 突然の贈り物で困惑させたと思うけど、どうか俺への怒りで破く前に読んで欲しい。死者の戯言だけど、君はそれをないがしろにする普通な脳味噌の持ち主ではないと知っている。もちろん褒め言葉さ。


 まず君なら察しているのかもしれないが、俺はそのうち--と言っても、この手紙が届いたなら死んでいるのに間違いないのだが--自ら命を絶つかもしれない。


 俺が自殺を選ぶ理由については・・・これは知らないでいてくれたまえ。この情報は君にほんの少しの利益も与えない。時間の無駄なのだよ。だけど明らかにしておきたいのは、君に負い目は何もないこと。金に困っていなかったこと。だから、本当に身勝手極まりない行動だ。怒られても文句は言えない。


 そして君にお願いがある。どうか、どうか俺を嫌いにならないでくれ。これも身勝手な話だ。この言葉のせいで嫌われることもあるだろうさ。だけど俺は君を最高の親友だと思っていて、君という人間の、生活の大きな部分に影響を与えた自覚がある。


 君を何度も外食に連れていったり。君に何度もチョコレートで機嫌をとらせてしまったり。君に何度も料理を作らせてしまったり。面倒で、金だけ掛かって、俺はどうしようもない友人だったろう? だから、友として、俺を責めてくれないか。そうしてくれて、君だけでも、心で生かしてくれれば本望なんだ。


 ここまで読んでくれてありがとう。CDは聴いてみて欲しい。俺のオススメだ。一回聴いたら後は自由に扱ってくれ。


 自分勝手で傍若無人な友人より




 本当に、よくもまあこんなワガママを書けたものだ。こういう人間だというのはもちろん知っているが、ここまでくると呆れすら通り越して笑えてくる。


 今さら嫌いになれるわけもない。むしろ僕は感謝しているんだ。彼のおかげでおいしい店を知れた。彼のおかげでブラックチョコレートの苦さは慣れた。彼のおかげで料理は微妙に上手くなってる。全て悪いなんてあるものか。 彼と歩くまで肉眼で見る星空を綺麗だと感じたことすらなかったんだから。


 ロングコートを軽く羽織ってボタンを閉めずに外へ飛び出した。車に乗り込んで彼のくれたCDを流し、あの頃みたいに目的地は遠くの方。ほとんど雪の残っていない道路をゆっくりと、隣から文句を言うやつはもういないけど、なんだか聞こえてくる気がして背筋が伸びる。


 彼が生前に精神の不調を抱えていたのを知っている。直接そうとは言われなかったけど、極端に食が細くなっていたり、前触れも無くひと月ほど連絡が取れなくなることがしばしば起こっていて、僕は察するところがあった。


 それでも彼が自殺を選ぶ決定的な原因はわからない。だけどたった一度だけ、夜明けを走るドライブ中にお互いの考え方を話し合ったことがある。僕は自ら命を絶つ理由などまったく想像できなかったが、彼はこう考えた。




 日常にあるいくつもの軋轢がその人の中で複雑に絡まり合って、出口と逃げ道をどんどんふさがれていく。そこで襲ってくるのは伝説のミノタウロスなんかじゃない。他に脱出した人が現れましたよ、というアナウンスだ。それが何度も流れてきて、聞いていくうちに、この迷路から出られないのは自分の方がおかしいのかという気分になってくる。そして自分が周りより上手に出来ていないから出られないのではないかと考える。これが毒だ。


 勘違いの劣等感や無関係な成功例が聞こえたり……現実なら見えたりして、今度はそれで気分が浮き沈みする自分に嫌気が差すようになる。ここまでずっと自分を心で傷つけて、さらには自分を傷つける自分も嫌になる。いよいよ迷路は八方塞がりに見えた。そんな時、地面に奈落へ落ちる穴があったら? もしかしたらどこかに出口はあるのだろう。出口を自力で見つければ成功体験と自己肯定感を得られるのは本人にもわかっているかもしれない。けれどこの穴に落ちれば、自分が誰かと比較したり、自分が自分を傷つけたりして苦しむことを止められる。そう考えてしまうんじゃないかな。


 僕はそう聞いても、自分が奈落へ落ちる決断をしないだろうと思っていた。でも彼の語りはそれを信じ込ませるような緊迫した調子があって、同時に彼自身がその迷路に閉じ込められているんじゃないかとも思った。僕は救えるなら救いたかった。けど彼は救われることを望んでいなかった。彼が事故を起こした瞬間、もしかしたら、彼が衝突した壁に奈落への口が開いて見えたのだろうか。きっと考えても理解できないのは、僕がそれだけ幸せ者ということなんだ。


 彼と過ごした町を彼が好きな曲を聞きながら走る。どこへ行っても彼はいない。彼はもう二度と現れない。探すのではなく、もうこの世にいないことを確かめるように思い出をまわる。


 彼と出会ってからここまで、特別なことは何もなかった。だけど彼が亡くなったことは、僕へ向けた最後の対話だったんだ。皮肉なことにもし生きていたら彼の考え方を思い返すことはしなかっただろう。だから、僕自身が死と向き合うための言葉の無い対話なんだ。

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