同じ空を見ていた
放課後になると、決まって隣を歩く人がいた。名前は、美咲。夕焼けの中でも、彼女だけは不思議と輪郭がはっきりして見えた。誰にでも分け隔てなく話しかけるその横顔を、少し後ろから眺めるのが好きだった。それがどういう気持ちなのか、当時の私は、まだ名前を知らなかった。
それは春の初め、高校に入学して間もない頃のことだった。
「───将来の夢を発表しましょう。」
先生が言う。
教室の空気はまだよそよそしかった。名前と、誕生日と、それから無難な未来が順番に並んでいく。
「学校の先生になりたいです。」
「エンジニアになりたいです。」
拍手はどれも同じ大きさで、同じ速さだった。
私の番が来る。
「私は、宇宙飛行士になりたいです」
小さな笑い声が、教室の端から端へ伝わっていく。小さな声でなにか言われたような気もしたが、なにかはよく聞き取れなかった。
私の口からは、何も言葉が出てこなかった。
ただ、早くこの時間を終わらせたい。それだけだった。
「次」
先生が言う。ホッとしたのか力が抜けたような気がした。
隣の席の子が立ち上がる。少しだけ間を空け、彼女は口を開いた。
「橘 美咲です。」
彼女は泰然自若としながら言った。
「私の夢は、宇宙飛行士です。」
一瞬、教室は静寂に包まれた。
さっきと同じ夢、同じ言葉のはずなのに、今度はだれも笑わなかった。
窓辺に佇むその横顔は、まるで時が止まったかのように、凛としていた。緩やかな輪郭から首筋へ流れる曲線は、どこか切なさを孕んだ詩の一節のようだった。
ホームルールを終え、私はひとり、誰とも目を合わせないまま、校門へ向かう。
すると後ろからピアノの音色のような声がした。
「ねえ」
そこに居たのは美咲だった。
「さっきのってさ、ほんとに思ってるの?」
「……うん」
「そっか、じゃあ同じだね」
その日は、気づけば同じ道を歩いていた。
学年もひとつ上がり、木々も色づいてくる頃、
私たちが帰路を共にするのは当たり前になっていた。帰り道で交わす与太話も、底を尽きることは無かった。時には公園で辺りが暗くなるまで話し込むこともあった。
「ねえ、将来何になりたい?」
私がそう聞くと、彼女は決まってこう答えた。
「私は宇宙飛行士になるんだ。」
その真剣な顔はまるでどこか憂いを帯びた絵画のように思えた。
しかし、宇宙飛行士の夢は私には大きすぎた。
私の能力には限界があった。いつからだったかは覚えていないが、現実に目を向けることに慣れてしまった。私が変わっていく間も、彼女は同じ場所に立っていた。放課後、教室に残って問題集を解く姿も、帰り道で空を見上げる癖も、出会った頃と変わらないままだった。
テストの結果が張り出される日、私は人だかりの隙間から、自分の名前を探した。90位代のところで、目が止まる。隣で美咲が言う
「ねえ、見て」
促されるままもう1度上から順に目を追う。
1番上には、美咲の名前があった。不思議と驚きはなかった。
「はは、すごいね」
ちゃんと笑えていたと思う。
「でも、まだ全然だよ」
悔しそうに笑う。その表情が、どこか遠くにあるように思えた。その顔を見て私は、何も言えなかった。言葉にならなかったものが、私の中には残っていた。
''まだ''なんだ
私にとってはもう届かない場所なのに、彼女にとってはまだ途中でしかない。
「──ねえ」
気づかないうちに、口は動いていた。
「もし、本当に宇宙に行くならさ」
そこまで言って、喉まで出かかった言葉が、砂のように崩れた。
「……なんでもない」
結局、口に出すことはなかった。
美咲は、少しだけ首を傾けて、それ以上は何も聞かなかった。
その日の帰り道、美咲はいつもの公園の前で足を止めた。
「私さ」
少し間を置いて、言う
「本気で目指すことにした」
分かっていたはずなのに、その言葉で呼吸が少しだけ浅くなった。
「そっか」
語彙というちっぽけな網ではこの感情をすくい上げることはできなかった。
「推薦、受けてみようと思ってる。」
夕焼けの中で、美咲の横顔が浮かぶ。
遠くを見ているみたいでだった。
「すごいじゃん」
その言葉は、ちゃんと出た。でも、それ以上は続けられなかった。
最初は、ほんの些細な事だった。
「ごめん、今日は残るから先に帰ってて。」
そう言われ、先に帰る日が増えた。1人の帰道は思ったよりも長い。いつもだったらすぐなのに、どこか他人事のように感じられる。
それでも、一緒に帰ることはあった。
何も変わってないみたいに、いつも通り笑って、話して。
だからこそ、余計に分からなくなった。
「最近さ、忙しそうだよね」
できるだけ、なにもないみたいにそう言った。
「うん、ちょっとね」
そう言って美咲は、淡い微笑を浮かべた。その笑顔を見て私は、言葉が続かなかった。聞こうと思えばいくらでも聞けたはずなのに、どうしてもその先に進めなかった。
ある日、ひとりで帰りの支度をしていると、
教室の隅で彼女が話しているのが見えた。
楽しそうに笑っていた。あの笑顔は見慣れているはずなのに、いつもとは少し違った。何が違うのかを考える前に、私は目を逸らしていた。
次の日の帰り道、久しぶりに美咲と二人になった。風が少し冷たくて、歩く速さが自然と揃った。
「ねえ。」
帰り道の途中で、私は足を止めた。
「なんでさ、」
「そんなに頑張れるの?」
一瞬、静寂に包まれる
「…どういうこと?」
「だってさ、」
視線を落とす。
「そんなに頑張ってもさ、上手くいくとは限らないじゃん。」
すぐに、分かった。私が言いたいのはそんなことでは無いことくらい。
「うん。まあそうだけど。」
美咲が困ったように言う。
「でも、やりたいからやってるだけだよ」
「……そっか。」
平然を装おうとするほど、私の声は震えた。
本当に聞きたかったのはそんなことじゃない。
でも、もう遅かった。
「ごめん、今日用事あるから先に帰るね。」
美咲の背中が遠くなる。それ以上、何も言えなかった。
それ以降、かつての会話は古地図のように思い出の中だけに存在するようになってしまった。
同じ教室にいるはずなのに、目が合うことはなかった。みさきが選抜に受かったと聞いたのは、人づてだった。
少しして、
「ちょっといい?」
そう呼ばれ、顔をあげるとそこには美咲がいた
断る理由は見当たらなかった。
放課後の校舎を並んで歩く。
どちらから話しかけるとかも無く、ただ歩く。
気づけば、あの公園に来ていた。
「懐かしいね。」
美咲がぽつりと言う。
「そうだね。」
そしてまた、沈黙。
夕焼けの色が変わっていく。
前はこの時間が好きだったはずなのに、今はそんな気持ちも忘れてしまった。
「聞いたよ」
私は、空を見たまま言った。
「選抜、通ったんだって」
「うん」
それだけだった。
もっとなにか言うと思っていたのに、美咲はそれ以上何も続けなかった。
「ごめんね」
不意に、美咲が言う。
「なんで?」
「なんか、ちゃんと話せてなかったなって」
「別に、いいよ」
それ以上言えなかった。
「私さ、」
美咲が少しだけ笑う。
「やっぱり、行きたいんだよね。」
その言葉に、頷くしか無かった。
「ちゃんと行ってくる。」
「……応援してる。」
言えたのはそれだけだった。
「じゃあね」
美咲はいつもと同じ顔で笑った。
「うん、またね。」
その背中が見えなくなるまで、私は立ち尽くしていた。
それからしばらくして、美咲は本当に宇宙へ行ってしまった。
テレビの中で見る彼女は、知っているはずなのに、他人のように感じた。
画面越しに見る笑顔は、あの時と同じはずなのに、もう手の届かないところにあった。
しばらくして、ニュースが流れた。
トラブルがあって。帰還が遅れているらしい。
詳しいことは分からなかった。
ただ、「すぐには戻れない」それだけが繰り返されていた。
それから、
どれだけ経ったかは分からない。
知らない番号から電話がかかってきた。
「───もしもし。」
その声を間違えるはずもなかった。
「……美咲?」
ノイズが混じる。
「うん」
「ほんとに……?」
自分でも分かるくらい、声が震えていた。
「急にごめんね」
「いや、そんなのいいから……!」
言葉が、うまくまとまらない。
「今どこ?大丈夫なの?ニュースで——」
「うん、ちょっとね」
軽く返される。
それが、逆に怖かった。
「……ねえ」
ノイズが一瞬強くなる。
「覚えてる?あの公園」
「今それどころじゃなくて……!」
止められなかった。
「そんなのどうでもいいから……ちゃんと帰ってきてよ」
沈黙。
それが、何よりの答えみたいだった。
「……ごめん」
美咲の声は、相変わらず静かだった。
「私さ」
ノイズが揺れる。
「ずっと、言えてなかったことがあって」
「だからいいって、そんなの後でいいから——」
「好きだった」
言葉が、途中で切られる。
時間が、止まる。
「……え」
「ずっと」
理解が追いつかない。
「ちょ、待って……今……」
頭がぐちゃぐちゃになる
「そっちは?」
そんなの、今じゃなくていいのに。
「今それどころじゃ……!」
言いかけて止まる。
ここで伝えなければ、もう二度と言えない気がした。
「……っ、私も」
声が震える。
「私も、ずっと好きだったから……!」
ノイズが大きくなる。
「ねえ、だから──────」
「そっか」
「ねえ待って、まだ──────」
「最後に、言えてよかった」
「やめてよ、そんなの……!」
声が届いてるのかすら分からない。
「さよなら」
「待って!!」
叫んだ瞬間、
音が途切れた。
それから、どれくらい経ったのか分からない。
朝起きて、学校に行って、
いつも通り授業を受けて。
何も変わっていないはずなのに、
どこかだけが、ぽっかりと抜け落ちていた。
帰り道。
一人で歩くのにも、もう慣れてしまった。
あの公園の前を通る。
足を止めることはなかった。
ただ、少しだけ空を見上げる。
遠くに、小さな光があった。
「……好きって、言えてよかった」
返事は、もうないけれど。
それでも、その言葉だけは、
確かにここに残っていた。




