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ウマ貴族

【ウマ貴族】バカにされたメス馬で世界の競馬界を牛耳ります!

作者: 星村 流星
掲載日:2026/03/20

「ハハッ、見ろよあれを。ヤシマの泥馬だとさ」


嘲笑が、馬の息が白く立ち込める競り市の会場に弾けた。


「脚が短い、首が太い、胴が長い……どこをどう見れば競走馬に見えるんだ?荷馬車でも引かせるのがせいぜいだろう」


「それも過大評価じゃないか?こんな鈍重な獣、引かせたら馬車ごと沈むぞ」


笑い声が重なる。一つ、二つ、三つ――波紋のように広がり、やがて周囲の貴族たちを飲み込んでいった。



王立競走馬競り市ロイヤル・タタソールズ・オークション


エウレリア大陸の首都アルビオンにおいて、年に一度開催される馬の一大祭典である。大陸中の名門牧場から選りすぐられた純血飛燕馬(ピュア・エイヴィアン)たちが競り台に立ち、ウマ貴族たちの莫大な資本が動く。


豪奢なシャンデリアが会場を照らし、香水と葡萄酒の匂いが混ざり合い、絹のドレスと金の装飾が視界を埋め尽くす――そういう場所だ。



そこに、その馬はいた。



競り台の端に押しやられるようにして繋がれた、小柄な牝馬(ひんば)

艶のない暗栗毛(あんくりげ)の体には、まだ長旅の泥が乾ききらぬまま張り付いており、前髪は乱れ、鼻先には擦り傷があった。


体高は周囲の純血馬より頭一つ低く、首も胴も確かに競走馬の美的規範とはかけ離れていた。


だが、その瞳だけは――違った。


濡れた黒曜石(こくようせき)のように深く、静かに、しかし消えることのない火を宿した眼。荒波を越え、嵐を潜り抜け、それでも立ち続けた者だけが持つ、あの目つきだった。



「ヤシマ産か。また物好きな商人が持ち込んだのか」

とウィストン・ベルモア侯爵が鼻先でせせら笑った。


今期の競馬界を席巻する新興の「ウマ貴族」であり、父系に最新流行の大種牡馬(だいしゅぼば)〈ゴールデン・サイアー〉の血を引く馬を十数頭抱える男だ。

指には重厚なエメラルドの指輪を幾つも嵌め、腹には飽食の証が滲んでいた。


「ヤシマの在来馬なんぞ、大陸の競走に出せるわけがない。体格差で文字通り踏み潰される」


「牝系の記録もろくにない、父系も不明瞭、おまけにこの体型。競走馬の価値は父の血で決まる――それが常識というものだ。こんな不純物を競り市に出す主催者の見識を疑う」


「まあまあ、ベルモア侯。珍しい見世物として笑っておけばいい。たまにはこういう余興も――」


「余興?」

ベルモア侯は声を上げた。


「俺はな、今期だけで〈ゴールデン・サイアー〉の仔を六頭仕入れた。総額にして金貨六万枚だ。その隣に泥だらけの荷馬を並べるな。汚らわしい」


また笑いが沸く。

牝馬は耳を伏せ、繋留柱(けいりゅうばしら)の陰に寄ろうとした。小さく震えているのは、恐怖か、それとも屈辱か。


誰も答えなかった。



その瞬間、会場の空気が――変わった。



音もなく。予兆もなく。

まるで、真夏の午後に雷雲が地平線の彼方から忍び寄るように。


誰かが階段の上を見た。一人、また一人。

やがて笑い声が、ひとつずつ、ひとつずつ、消えていった。


貴族用の特等観覧席(ロージュ)から、一人の女性が、ゆっくりと降りてきていた。



漆黒、だった。



大陸の貴族女性の正装といえば、肩を大きく開いたバッスルドレス、あるいは薄絹のイブニングガウン――淡い色彩に金糸の刺繍、広がるスカートの裾が常識とされていた。

しかしその女性が纏うのは、全く異質の衣だった。


極東の島国ヤシマで「着物」と呼ばれる正装。


漆黒の地に、夜を切り取ったような光沢を持つ絹。ただし大陸の仕立て職人の手によって、腰の帯は細く長く垂らされ、袂は広く、着丈はごく僅かに裾を引く。


その全体に細密な刺繍が走っていた――深い紫の百合が、幾重にも絡み合い、開き、また閉じる。あれは「家紋」だと後で知る者は言った。


悠久の紫百合(クロノス・リリィ)」――クロノージュ公爵家の、幾百年の歴史を背負う紋章だ、と。


髪は黒く、夜そのもののように艶やかだった。一本の(かんざし)が、月を模した銀細工で留めている。


化粧は最小限――ただ、唇にのみ深紅が引かれていた。その赤だけが、漆黒の衣の中で、ひとつの火のように燃えていた。



彼女は歩く。


階段を降り、砂利の引かれた競り場の床へと足を踏み入れる。

草履(ぞうり)の音が規則正しく響く。


たった一人で、群衆の真ん中へ向かって。



道が、開いた。



意図して開けたわけではない。ベルモア侯も、その取り巻きも、ただ気がつけば後退していた。


押しつけられるような何か――威圧とも違う、もっと根源的な何か――が彼女の一歩一歩から発されていた。それは視覚でも聴覚でもなく、皮膚が、あるいは本能が直接受け取る信号だった。


「あ、あれは……」

と誰かが囁いた。

「クロノージュ公爵家の……」


「令嬢だ」

と別の声が続けた。それ以上の言葉は出なかった。



クロノージュ公爵令嬢。


新国家「聖アルビオン連合王国」の建国にあたり、北方の動乱において決定的な武功を挙げた騎馬武者集団の末裔。


極東ヤシマの名門武士を祖先に持ち、数世代前に大陸へ渡ったその一族は、王家より「クロノージュ公爵位」を賜り、以来、中央の政治にもウマ貴族の世界にも、独自の立場を貫いてきた。


彼女の名を口にする者は多い。しかしその言葉はいつも、微妙な畏れを帯びていた。


令嬢は、ベルモア侯にも、その取り巻きにも、一瞥も与えなかった。

まるで眼中にない、というより――むしろ確認するまでもない、と言わんばかりに。



彼女が向かったのは、端に繋がれた小柄な牝馬のところだった。


「っ……待て、何をする気だ」


ベルモア侯が声を上げた。令嬢が左の袂を、ゆったりと持ち上げたからだ。

漆黒の絹の袖が広がった。その贅沢な布地を、彼女は迷わず牝馬の顔に当てた。


優しく、丁寧に、泥を拭う。


馬の鼻先を、顎を、額を。傷のある場所には、さらに慎重に。


牝馬は最初、反射的に首を引こうとした。


しかし令嬢の手の動きは止まらず、かといって力も加えず――まるで水が形に添うように、その手は馬に寄り添い続けた。

やがて牝馬の耳が、ゆっくりと、前を向いた。


「き、貴様……!」

ベルモア侯の顔が赤くなった。


「高級な着物で、汚い馬の泥を拭うとは何事だ!貴族の恥辱だぞ!」


声は裏返っていた。

令嬢は振り返らなかった。



「恥辱」

と彼女は言った。


声は低く、静かで、しかし会場の端まで届いた。それは音量ではなく、密度の問題だった。


「今の貴方の言葉の中に、私が聞くべき言葉がひとつでもあれば、聞きましょう」


彼女はゆっくりと立ち上がり、振り返った。


左手に、いつの間にか鉄扇が握られていた。

黒塗りに家紋の銀箔。それを半分だけ開き、軽く――たった一度だけ――打ち鳴らした。


パン、と乾いた音が空気を割った。



会場が静まり返った。



「恥辱とは何か」

令嬢は静かに続けた。

「今、あなた方がやっていることを申し上げましょう」


彼女はベルモア侯を見た。正面から。逸らさず。


「一頭の命を、流行の父の名前だけで値踏みし、その血脈の深みを見ようともせず、ゴミと断じる。それを『常識』と呼ぶ。――これを恥辱と言わずして、何と言いますか」


「何を……父系の血こそが競走馬の価値の根幹だ!それが大陸の常識であり、ウマ貴族の叡智だぞ!」


「叡智」

と令嬢は繰り返した。

微かな――本当に微かな――笑みが唇の端に浮かんだ。

しかしその目は笑っていなかった。


「面白い言葉ですね。では伺います。貴方が今期仕入れた〈ゴールデン・サイアー〉の仔六頭。二十年後、その産駒(さんく)の産駒の産駒まで、血統は続いていると思いますか」


「……何?」


父系(サイアーライン)の血は、次代の種牡馬が更新されるたびに『流行』が変わる。今期の覇者も、十年後には旧時代の遺物になる。あなた方はその度に高値で買い替え、古い血を捨てる。それを繰り返してきた」


令嬢はゆっくりと歩き、牝馬の傍らに並んだ。


「しかし」

と彼女は言った。


「家を守り抜き、一族を何度でも再興させるのは、常に『(ブルードメア)』の力です」


その言葉が、会場に落ちた。


牝系(ファミリーライン)は、父の流行とは無関係に連綿と続く。嵐の夜に子を産み、飢えた冬に乳を与え、弱い仔を育て上げた牝馬の歴史は、どんな名声ある種牡馬の血よりも、静かに、深く、確実に受け継がれていく。――私の一族が重んじるのはその力です」


「ヤシマの在来馬に、何の牝系の歴史があるというんだ」

ベルモア侯は声を絞り出した。

「記録もない、実績もない、血統書も怪しい――」


「記録がない?」


令嬢の声が、初めて僅かに鋭さを帯びた。


「記録を作らなかった者が、記録を持てと言う。なるほど、それが大陸の叡智ですか」


彼女はベルモア侯から視線を切った。

完全に。今度こそ、興味を失ったように。


そして牝馬に向き直った。



小柄な暗栗毛の馬は、令嬢の顔を見ていた。

耳を立て、鼻をわずかに動かして、その気配を確かめるように。震えは、いつの間にか止まっていた。


令嬢はその鼻面に、そっと額を寄せた。


「怖かったでしょう」

と彼女は囁いた。周囲には聞こえないほどの声で。


「長い旅だった。知らない土地に来て、言葉もわからない場所で、笑われた」


牝馬が鼻息を吐いた。温かい息が令嬢の頬に触れた。


「でも、あなたはここにいる」


令嬢は顔を上げ、牝馬の目を見た。その黒曜石の瞳を、正面から受け止めた。


「その目を見ればわかります。戦場を生き抜いた者の目だ。嵐を越えてきた者の目だ。――これは私の一族の者と、同じ目をしている」


令嬢は鉄扇を閉じ、懐に収めた。


そして、宣言するように言った。


「今日からあなたの名は、『タイムレス・ドリーマー』」



一瞬の沈黙。



「ヤシマの名で――『夢路ゆめじ』と申します」


牝馬の耳が、ぴくりと動いた。


「夢路」

とその名を覚えるように、令嬢はもう一度、今度はヤシマ語で繰り返した。


「一緒に、大陸を夢見ましょう。長い、長い夢を」



周囲の貴族たちは誰も声を上げなかった。


ベルモア侯でさえ、今は口を噤んでいた。

何か――言葉では説明できない何かが、この場に在った。笑い飛ばすには、その空気はあまりにも重く、あまりにも静かで、あまりにも確かだった。


令嬢はゆっくりと身を起こし、競り会場の係員を呼んだ。


「この馬、いただきます」




――後の歴史家たちは、この日を「クロノージュ年代記の始まり」と記録した。



クロノージュ公爵令嬢がその日の競り市で購入した馬は一頭。価格は出席した貴族の中で最も低い部類に入った。


ベルモア侯爵はその翌月、〈ゴールデン・サイアー〉の血を引く三頭をさらに高値で追加購入している。



しかし二十年後、ベルモア家の馬房に残っていた純血馬は二頭。

クロノージュ家の牧場には、夢路の仔と、その孫と、さらにその子が走っていた。


四十年後、エウレリア大陸最大の競走「クラシック三冠」を制した牝馬の母系を遡れば、すべてヤシマの暗栗毛に行き着いた。


八十年後、百二十年後も同様だった。それは一本の川のように、滔々と、静かに、絶えることなく流れ続けた。



そして三百年後――



大陸中の牧場主が最も欲しがり、最も高値で取引され、最も多くの名馬を産んだ牝系の名前は、世界の誰もが知っていた。



**「ドリーマードリーマー・ライン」**



別名を、大陸の人々はこう呼ぶ。



**「夢路の血」**と。



これは、エウレリア大陸を席巻することになる最強の牝系図『クロノージュ年代記(スタッドブック)』が、その最初の一頁に記した物語である。


泥だらけの競り市の片隅で、一人の女が小柄な馬の顔を拭い、その瞳を見つめた、たった一日の――始まりの物語。

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