【ウマ貴族】バカにされたメス馬で世界の競馬界を牛耳ります!
「ハハッ、見ろよあれを。ヤシマの泥馬だとさ」
嘲笑が、馬の息が白く立ち込める競り市の会場に弾けた。
「脚が短い、首が太い、胴が長い……どこをどう見れば競走馬に見えるんだ?荷馬車でも引かせるのがせいぜいだろう」
「それも過大評価じゃないか?こんな鈍重な獣、引かせたら馬車ごと沈むぞ」
笑い声が重なる。一つ、二つ、三つ――波紋のように広がり、やがて周囲の貴族たちを飲み込んでいった。
王立競走馬競り市。
エウレリア大陸の首都アルビオンにおいて、年に一度開催される馬の一大祭典である。大陸中の名門牧場から選りすぐられた純血飛燕馬たちが競り台に立ち、ウマ貴族たちの莫大な資本が動く。
豪奢なシャンデリアが会場を照らし、香水と葡萄酒の匂いが混ざり合い、絹のドレスと金の装飾が視界を埋め尽くす――そういう場所だ。
そこに、その馬はいた。
競り台の端に押しやられるようにして繋がれた、小柄な牝馬。
艶のない暗栗毛の体には、まだ長旅の泥が乾ききらぬまま張り付いており、前髪は乱れ、鼻先には擦り傷があった。
体高は周囲の純血馬より頭一つ低く、首も胴も確かに競走馬の美的規範とはかけ離れていた。
だが、その瞳だけは――違った。
濡れた黒曜石のように深く、静かに、しかし消えることのない火を宿した眼。荒波を越え、嵐を潜り抜け、それでも立ち続けた者だけが持つ、あの目つきだった。
「ヤシマ産か。また物好きな商人が持ち込んだのか」
とウィストン・ベルモア侯爵が鼻先でせせら笑った。
今期の競馬界を席巻する新興の「ウマ貴族」であり、父系に最新流行の大種牡馬〈ゴールデン・サイアー〉の血を引く馬を十数頭抱える男だ。
指には重厚なエメラルドの指輪を幾つも嵌め、腹には飽食の証が滲んでいた。
「ヤシマの在来馬なんぞ、大陸の競走に出せるわけがない。体格差で文字通り踏み潰される」
「牝系の記録もろくにない、父系も不明瞭、おまけにこの体型。競走馬の価値は父の血で決まる――それが常識というものだ。こんな不純物を競り市に出す主催者の見識を疑う」
「まあまあ、ベルモア侯。珍しい見世物として笑っておけばいい。たまにはこういう余興も――」
「余興?」
ベルモア侯は声を上げた。
「俺はな、今期だけで〈ゴールデン・サイアー〉の仔を六頭仕入れた。総額にして金貨六万枚だ。その隣に泥だらけの荷馬を並べるな。汚らわしい」
また笑いが沸く。
牝馬は耳を伏せ、繋留柱の陰に寄ろうとした。小さく震えているのは、恐怖か、それとも屈辱か。
誰も答えなかった。
その瞬間、会場の空気が――変わった。
音もなく。予兆もなく。
まるで、真夏の午後に雷雲が地平線の彼方から忍び寄るように。
誰かが階段の上を見た。一人、また一人。
やがて笑い声が、ひとつずつ、ひとつずつ、消えていった。
貴族用の特等観覧席から、一人の女性が、ゆっくりと降りてきていた。
漆黒、だった。
大陸の貴族女性の正装といえば、肩を大きく開いたバッスルドレス、あるいは薄絹のイブニングガウン――淡い色彩に金糸の刺繍、広がるスカートの裾が常識とされていた。
しかしその女性が纏うのは、全く異質の衣だった。
極東の島国ヤシマで「着物」と呼ばれる正装。
漆黒の地に、夜を切り取ったような光沢を持つ絹。ただし大陸の仕立て職人の手によって、腰の帯は細く長く垂らされ、袂は広く、着丈はごく僅かに裾を引く。
その全体に細密な刺繍が走っていた――深い紫の百合が、幾重にも絡み合い、開き、また閉じる。あれは「家紋」だと後で知る者は言った。
「悠久の紫百合」――クロノージュ公爵家の、幾百年の歴史を背負う紋章だ、と。
髪は黒く、夜そのもののように艶やかだった。一本の簪が、月を模した銀細工で留めている。
化粧は最小限――ただ、唇にのみ深紅が引かれていた。その赤だけが、漆黒の衣の中で、ひとつの火のように燃えていた。
彼女は歩く。
階段を降り、砂利の引かれた競り場の床へと足を踏み入れる。
草履の音が規則正しく響く。
たった一人で、群衆の真ん中へ向かって。
道が、開いた。
意図して開けたわけではない。ベルモア侯も、その取り巻きも、ただ気がつけば後退していた。
押しつけられるような何か――威圧とも違う、もっと根源的な何か――が彼女の一歩一歩から発されていた。それは視覚でも聴覚でもなく、皮膚が、あるいは本能が直接受け取る信号だった。
「あ、あれは……」
と誰かが囁いた。
「クロノージュ公爵家の……」
「令嬢だ」
と別の声が続けた。それ以上の言葉は出なかった。
クロノージュ公爵令嬢。
新国家「聖アルビオン連合王国」の建国にあたり、北方の動乱において決定的な武功を挙げた騎馬武者集団の末裔。
極東ヤシマの名門武士を祖先に持ち、数世代前に大陸へ渡ったその一族は、王家より「クロノージュ公爵位」を賜り、以来、中央の政治にもウマ貴族の世界にも、独自の立場を貫いてきた。
彼女の名を口にする者は多い。しかしその言葉はいつも、微妙な畏れを帯びていた。
令嬢は、ベルモア侯にも、その取り巻きにも、一瞥も与えなかった。
まるで眼中にない、というより――むしろ確認するまでもない、と言わんばかりに。
彼女が向かったのは、端に繋がれた小柄な牝馬のところだった。
「っ……待て、何をする気だ」
ベルモア侯が声を上げた。令嬢が左の袂を、ゆったりと持ち上げたからだ。
漆黒の絹の袖が広がった。その贅沢な布地を、彼女は迷わず牝馬の顔に当てた。
優しく、丁寧に、泥を拭う。
馬の鼻先を、顎を、額を。傷のある場所には、さらに慎重に。
牝馬は最初、反射的に首を引こうとした。
しかし令嬢の手の動きは止まらず、かといって力も加えず――まるで水が形に添うように、その手は馬に寄り添い続けた。
やがて牝馬の耳が、ゆっくりと、前を向いた。
「き、貴様……!」
ベルモア侯の顔が赤くなった。
「高級な着物で、汚い馬の泥を拭うとは何事だ!貴族の恥辱だぞ!」
声は裏返っていた。
令嬢は振り返らなかった。
「恥辱」
と彼女は言った。
声は低く、静かで、しかし会場の端まで届いた。それは音量ではなく、密度の問題だった。
「今の貴方の言葉の中に、私が聞くべき言葉がひとつでもあれば、聞きましょう」
彼女はゆっくりと立ち上がり、振り返った。
左手に、いつの間にか鉄扇が握られていた。
黒塗りに家紋の銀箔。それを半分だけ開き、軽く――たった一度だけ――打ち鳴らした。
パン、と乾いた音が空気を割った。
会場が静まり返った。
「恥辱とは何か」
令嬢は静かに続けた。
「今、あなた方がやっていることを申し上げましょう」
彼女はベルモア侯を見た。正面から。逸らさず。
「一頭の命を、流行の父の名前だけで値踏みし、その血脈の深みを見ようともせず、ゴミと断じる。それを『常識』と呼ぶ。――これを恥辱と言わずして、何と言いますか」
「何を……父系の血こそが競走馬の価値の根幹だ!それが大陸の常識であり、ウマ貴族の叡智だぞ!」
「叡智」
と令嬢は繰り返した。
微かな――本当に微かな――笑みが唇の端に浮かんだ。
しかしその目は笑っていなかった。
「面白い言葉ですね。では伺います。貴方が今期仕入れた〈ゴールデン・サイアー〉の仔六頭。二十年後、その産駒の産駒の産駒まで、血統は続いていると思いますか」
「……何?」
「父系の血は、次代の種牡馬が更新されるたびに『流行』が変わる。今期の覇者も、十年後には旧時代の遺物になる。あなた方はその度に高値で買い替え、古い血を捨てる。それを繰り返してきた」
令嬢はゆっくりと歩き、牝馬の傍らに並んだ。
「しかし」
と彼女は言った。
「家を守り抜き、一族を何度でも再興させるのは、常に『母』の力です」
その言葉が、会場に落ちた。
「牝系は、父の流行とは無関係に連綿と続く。嵐の夜に子を産み、飢えた冬に乳を与え、弱い仔を育て上げた牝馬の歴史は、どんな名声ある種牡馬の血よりも、静かに、深く、確実に受け継がれていく。――私の一族が重んじるのはその力です」
「ヤシマの在来馬に、何の牝系の歴史があるというんだ」
ベルモア侯は声を絞り出した。
「記録もない、実績もない、血統書も怪しい――」
「記録がない?」
令嬢の声が、初めて僅かに鋭さを帯びた。
「記録を作らなかった者が、記録を持てと言う。なるほど、それが大陸の叡智ですか」
彼女はベルモア侯から視線を切った。
完全に。今度こそ、興味を失ったように。
そして牝馬に向き直った。
小柄な暗栗毛の馬は、令嬢の顔を見ていた。
耳を立て、鼻をわずかに動かして、その気配を確かめるように。震えは、いつの間にか止まっていた。
令嬢はその鼻面に、そっと額を寄せた。
「怖かったでしょう」
と彼女は囁いた。周囲には聞こえないほどの声で。
「長い旅だった。知らない土地に来て、言葉もわからない場所で、笑われた」
牝馬が鼻息を吐いた。温かい息が令嬢の頬に触れた。
「でも、あなたはここにいる」
令嬢は顔を上げ、牝馬の目を見た。その黒曜石の瞳を、正面から受け止めた。
「その目を見ればわかります。戦場を生き抜いた者の目だ。嵐を越えてきた者の目だ。――これは私の一族の者と、同じ目をしている」
令嬢は鉄扇を閉じ、懐に収めた。
そして、宣言するように言った。
「今日からあなたの名は、『タイムレス・ドリーマー』」
一瞬の沈黙。
「ヤシマの名で――『夢路』と申します」
牝馬の耳が、ぴくりと動いた。
「夢路」
とその名を覚えるように、令嬢はもう一度、今度はヤシマ語で繰り返した。
「一緒に、大陸を夢見ましょう。長い、長い夢を」
周囲の貴族たちは誰も声を上げなかった。
ベルモア侯でさえ、今は口を噤んでいた。
何か――言葉では説明できない何かが、この場に在った。笑い飛ばすには、その空気はあまりにも重く、あまりにも静かで、あまりにも確かだった。
令嬢はゆっくりと身を起こし、競り会場の係員を呼んだ。
「この馬、いただきます」
――後の歴史家たちは、この日を「クロノージュ年代記の始まり」と記録した。
クロノージュ公爵令嬢がその日の競り市で購入した馬は一頭。価格は出席した貴族の中で最も低い部類に入った。
ベルモア侯爵はその翌月、〈ゴールデン・サイアー〉の血を引く三頭をさらに高値で追加購入している。
しかし二十年後、ベルモア家の馬房に残っていた純血馬は二頭。
クロノージュ家の牧場には、夢路の仔と、その孫と、さらにその子が走っていた。
四十年後、エウレリア大陸最大の競走「クラシック三冠」を制した牝馬の母系を遡れば、すべてヤシマの暗栗毛に行き着いた。
八十年後、百二十年後も同様だった。それは一本の川のように、滔々と、静かに、絶えることなく流れ続けた。
そして三百年後――
大陸中の牧場主が最も欲しがり、最も高値で取引され、最も多くの名馬を産んだ牝系の名前は、世界の誰もが知っていた。
**「ドリーマー系」**
別名を、大陸の人々はこう呼ぶ。
**「夢路の血」**と。
これは、エウレリア大陸を席巻することになる最強の牝系図『クロノージュ年代記』が、その最初の一頁に記した物語である。
泥だらけの競り市の片隅で、一人の女が小柄な馬の顔を拭い、その瞳を見つめた、たった一日の――始まりの物語。




