序章2話 神の子ノアと神メシア
現実世界において、ノーリエスが初めて感じたのは母の温もりではなく、唇と唇が触れ合う感触だった。
ふにふにと、吸い付くような柔らかさと、じんわりと、溶け合うような熱。脳が震えるような蠱惑的な快楽を、唇が味わっている。
一枚の壁でも隔たっているかのように、遠く意識の外から感じていると、その壁をぶち壊すような勢いで舌が侵入してきた。
舌と舌が絡まりあい、水音をたてて唾液が混ざりあう。今度は脳を揺るがすような、暴力的な快感。脳から足のつま先へと、痺れるような衝撃が流れていく。
その熱に動かされるようにして、ようやくノアの意識が現実の世界へと覚醒していった。
「「ん、っん、く」」
息苦しさを覚えるほど長い接吻。互いに呻き声が漏れた時、その人は「ぷはっ」と大きく息を吸いノーリエスから離れた。
「この行為に何の意味があるのか……疑問でしかなかったけど、納得したわぁ。確かにこれは、癖になりそうな快感ねぇ」
甘く魅惑的な声音、少しだけ息を乱しながら彼女は言う。
「目覚めの気分はどうかしら?」
「君は……一体……?」
産まれて初めて目を開け、まずノアの視界を独占したのは、唇を重ねていた彼女の姿。
肌は透き通るように純白で、桃のように朱が混ざっている。流れるように腰まで伸びた銀髪は白煌と輝いており、風になびいている。
人が人を美しいと感じる要素を、極限まで突き詰めたかのような、そんな美しき女性。
だが彼女の美に目を奪われたのは一瞬のこと。「ここは……?」ノーリエスは即座に周囲の光景を、今自分が置かれている状況を観察した。
ここはどうやら、夜の森の中。三百六十度、見上げるほどの木々に囲まれている。開けた場所で自分は、棺の中に眠っていたらしい。彼女は横たわるノーリエスの腰に座っていた。
「すまない、えっと」
ちゃんと話をするためにも、一旦どいてくれないか。頼む前に彼女と視線がぶつかり、ノーリエスは無意識に己の唇に指をあてた。そうして、先ほど彼女としていた行為を思い返し――
「――そんなに顔を真っ赤にして、そんなに気持ちよかったのかしら?」
「――――ッ!」
心の内を見透かされ、驚愕したのも束の間彼女の顔がすぐそこまで。もう一度、唇が触れ合う寸前まで近づいていた。
ピンク色のそれに釘付けになっていると、彼女は蠱惑的に告げる。
「もう一回する?」
「い、いや、大丈夫」
気恥ずかしさと、初対面の人と二度もするなんて……倫理観からも反射的に答えていた。
彼女はニヤニヤと楽しそうに笑いながら立ち上がり、ノーリエスは冷静を取り戻すべく、わざとらしく咳払いをして棺から出る。
(……さっきのは)
そうして考えるのは目の前の女性の正体についてではなく、目覚める前に目の当たりにしていた人類が滅びゆく光景だった。
(夢……?)
結論としては、夢としか考えつかない。しかしただの夢だと割り切るには無理があるほど、現実味がありすぎた。掌と背中には、今もびっしょりと冷や汗が滲んでいる。
「夢じゃ、ないわよ」
「……え?」
「貴方が見ていた光景は、この世界が一度迎えた結末なの。言ってしまえば……一巡目の世界。二巡目の
この世界においては、いずれ来る未来の光景」
「…………」
ノーリエスを揶揄うような笑みはすっかり消え、重々しく放たれる彼女の言葉。
事実だと、即座に受け止めるにはあまりにも唐突すぎた。けれどもどうしてか、異を唱える気にもなれなかった。
きっと、否定しているのは「そんなバカな」という常識や固定概念なのだろう。だがあの地獄絵図を実際に見ていたノーリエスにとって、未来の結末というのは……ストンと胸に落ちるほど、不思議としっくりきていた。
どれぐらい先のことなのかは一度さておいて、いずれ人類は滅びの運命を辿るのだろう。
理解したからこそ、当然疑問が浮かんでくる。
「それを知っている、君は一体何者なんだ……?」
改めての問い。今度は恐れを瞳に宿し、懐疑を声音に乗せて。
「私の名は――メシア。一巡目の滅びゆく世界の中で、助けてという人々の願いから生まれ、そして時を巻き戻した――神」
彼女――メシアは自身の胸に手を当てて、不敵に微笑み名乗りを上げた。
「私も、改めて問うわ」
白魚のように白く華奢な指先が、ノーリエスに向けられる。手首を返し、挑発でもするかのように、ノーリエスを試すかのように、こう告げた。
「目覚めの気分はどうかしら。神の子――ノア」
――神の子、ノア。それが自分を指す言葉なのだと、すぐには理解できなかった。
辺りには誰もいない。ここにはノーリエスとメシアの二人だけ。そしてノーリエス・アリアだから、愛称がノア。何よりも――神の子。その意味を文字通り受け取るなら……、
「……あ、とは言っても、私の子じゃないわよ? 貴方の母親は別にいて……」
「かっこいいな! それ!」
理解が完全に追いつくや否や、気付いた時にはメシアの手を取っていた。
唇を重ねていたことすら忘れ顔を近づけて。今度は、メシアが動転しているかのように目を泳がせている。
「えぇっと? と、突然どうしたのかしら?」
「僕はさっきまで人類が滅ぶ光景を目の当たりにしていた! でもあれは一巡目の世界で本当に起きた出来事で、神である君が! 時間を巻き戻すことによって皆を助けたんだろう!?」
「え、ええ、その通りよ。その通りなんだけど、なんだか急に熱量が凄いのね、ノア」
「当たり前だよ! だって君は、僕が理想とする英雄そのものなんだから!」
滅びゆく人類を眺めることしかできなかったノアは、「助けて」の声を聴き続けていたノアは、いつしかこう考えるようになっていた。
「助けての声に応えること! 助けての声に駆けつけ、助けること! 僕の掲げる理想の英雄像だ!」
ましてや人類そのものを救ったなど、メシアに対して尊敬の念を抱かずにはいられない。理想の英雄を前にして気持ちは昂っていき、極めつけは、
「そんな神が、神の子の前に姿を現した! つまりそれは、二巡目の人類を救うのは僕の役目ってことなんだろう!?」
己の宿命を正しく理解したことにより、興奮が最高潮へと達していたのだ。
「人類を救う役目なんて……いいね! 最高にかっこいいじゃないか!!」
男に産まれたからには、かっこよく生きたい。〝かっこいい〟に憧れるというもの。
英雄になれますがなりたいですか? という質問に、「no」と返す男はあまりいないだろう。
人類を救う英雄になる。そんな自分を夢想し心躍らせる。
「……さて、浮かれるのはここまでだね」
だが、そんな興奮は束の間のことだった。メシアから手を離し、まるで水でも浴びせられたかのように途端に冷静となる。
「知っている範囲でいい、教えてくれメシア……一巡目の世界で何があった?」
心が冷えたわけではない。
ただこれから歩まんとする己の運命を、しっかりと見据えようとしているだけ。
かっこいいから、だけではなく、人類が滅亡するあの光景は、絶対に回避すべき未来としてノアに刻まれている。
「……話が早いわねぇ。ええ、そうよ。まさしくその通りなのよ、神の子ノア」
メシアは急に手を取られた動揺から一転して、輝いている。
ノアから何を感じ取ったのかは分からないが、瞳が、声色が。
「人類滅亡のきっかけは、王冠の王が十か国を統一すること」
ノアの本気に触発されたのだろう。魅惑的な声音は息を潜め、切り付けるような鋭い声色で彼女は告げる。
「最強の王であり最高の王である――ヨハネ・ケトラルヒが十か国を統一した瞬間、一本の巨大な樹が顕現するの……その後起きることは、貴方も見た通りだわ」
「なるほど、つまり僕達がすべきことは」
「王冠の王、ヨハネ・ケトラルヒの十か国統一を阻むこと」
相手は一国の王。神であるメシアが最強かつ最高と評するということは、よほどの強敵なのだろう。
(神の子と王の闘いか……いいね、望むところだよ)
武者震いから全身の毛が逆立つ。同時に身を引き締めていると、メシアが拳を握りしめて心底悔しそうに、
「先に言っておくわ。私はもう……多分、あんまり力になれないの。時を巻き戻す時に力の大半を使ってしまったから。所詮、今の私は、」
神の搾りかすでしかないわ、と、彼女は弱弱しく言う。
「今の世界では、私を信仰する人はいない。だから私は、力を取り戻すこともできない。だから貴方しか……神の子である貴方しかいないの!!」
ひしひしと伝わってくる、悲痛にも似た願いを浴び、ノアは己の内に意識を集中させた。
(――――)
神の子と、彼女は言った。なるほど確かにと、納得するだけの力が秘められているのを感じ取れる。
「だからお願いノア! 私と一緒に」
――もし、もしも。この状況を救えるだけの力が自分にあったのなら。
――必ず皆を助けてみせる。
さあ、あの時たてた誓いを果たす時だ。
「私と一緒に、人類を助けて!!」
差し出された右手。
もしかしたら、断られるかもしれない、とでも思っているのだろうか。その手は不安そうに震えていた。
「――さっきも言った通り、助けての声に駆けつけ、助けるっていうのが僕の掲げる理想の英雄像だよ」
断る理由なんて、あるはずがない。
一も二もなくメシアの手を掴み取る。不安を和らげるように、ぎゅっと力強く握りしめて、
「確かに聞こえたよ。君の、助けての声が」
斯くして、人類を滅亡の運命から救うために出会いを果たした、神メシアと神の子ノーリエス・アリア。
『王冠』の王を倒すべく、十か国の統一を防ぐべく。
かの王の掲げる理想の世界を否定するため動き出したのだった。




