序章10話 『王冠』の王、ヨハネ・ケトラルヒの勅命
翌朝ノアが目を覚ました時、まず感じたのは全身がヒリつくような悪寒だった。
惰眠を貪るなど許されない。それほどの〝何か〟が起きている、そんな気がする。ノアは勢いよく体を起こすと、都市部の方角を睨みつけていた。
「うそ、寝起きの悪い貴方がこんなに早く起きるなんて」
一足先に起きていたらしいメシアが、目を大きく見開いて驚いている。
「そんな、そんなことって、ありえないわ……大変よ、今日雪が降るかもしれないわ!」
「……君がそんな反応をするほど、僕って寝起き悪いの?」
いいとは自覚していないが、そんなに悪いとも思っていなかった。
力の抜けた彼女の両腕から、木の実がポロポロと零れている。こんなにも驚いているメシアを見るのは初めてだ。
「えっと、僕達のために朝食を用意してくれているんだよね、ありがとうメシア。生活面を任せっきりにしてしまって申し訳ないけど、ちょっと、ノーベン・ヴェルジュに行ってくるね」
「え? ええ、分かったわ。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
形態王国となり翼を生やすと、木々を蹴り大森林を滑空していく。徒歩であれば三十分はかかる下山を、僅か五分まで短縮していた。
近隣の村から一時間馬車に揺られ、再びかの都市へと踏み入れる。
(昨日と変わらない日常、だけど)
つつけば破裂しそうな緊張感が、ノーベン・ヴェルジュには流れていた。
見れば、都市の至る所に漆黒の仮面を付けた神の子ノアの手配書が張られている。
(王冠を敵に回した張本人だから、神経が過敏になってそう感じているだけ……?)
いや、違うと即答する。
(人々の所作や、雑談をしている様子から、その奥底には緊張感が潜んでいる……間違いない)
目線は前に固定したまま、視界に入る全てから情報をくみ取っていく。
足は自然と処刑場へと向かっており、
「――は?」
そこで目にした、一枚の通知書に言葉を失っていた。
命の危機に怯えることなく、ぐっすり眠れたのはいつぶりだろうか。
心地よい鳥のさえずりと、優しく覆い包むような陽の光。自然の目覚ましによってエレノアはゆっくりと目を覚ましていった。
「おはよう、エレノア。朝食の容易にはまだ時間がかかるから、もう少し寝ててもいいのよ?」
「メシア、様……?」
エレノア達価値なき子の、恩人の一人であるメシアが柔らかく微笑んでいる。
彼女はどうやら、火打石を使って火を起こそうとしているらしい。
「す、すみません! すぐ手伝います!」
エレノアは飛び起きると別の火打石を手に取り、メシアの倍の速度で石を擦り始めた。
「あら、手伝ってくれるの? ありがとうね、エレノア」
「当然のことです! 自分たちの食べる分ですし……というよりも、これ以上迷惑はかけられません! メシア様は休んでいてください!」
「あら、そうはいかないわ。これは、私が食べる分でもあるもの」
「で、でも!」
ただでさえ面倒を見てもらっているのに……申し訳ないというよりも、見捨てられるのが怖い。この反論でさえ彼女の気分を悪くしてしまったらどうしよう。とても、彼女の目を見ることはできなかった。
「……そんなに気を使わなくてもいいのよ、エレノア」
不安と怯えに支配されていたエレノアの心を溶かすように、メシアは優しく頭を撫で始める。
「助けての声に駆けつけ、助ける。救済こそがあの人の掲げる理想。そして私は、助けての声から生まれ
た神なの」
エレノアの頭を撫でるその手つき。そして瞳は、ノアと同じく慈愛に満ちていた。
「見捨てないわ、もう、二度とね」
「メシア……さま!」
こんなに幸せでいいのだろうか。
昨日までは王から、国民から、国から、殺されようとしていた自分が。価値なき子である自分が――と、よぎったことで気付く。
どうやらエレノアはいつの間にか、自分自身に〝価値なき子〟という呪いを課してしまっていたらしい。
いいのだ、幸せを享受しても。
無事に朝を迎え、当たり前のように朝食を食べ、仲間達と歓談する。そんな当たり前の平和な毎日を、殺されることとは無縁の日々を送ってもいいのだ。
「よしよし。もう大丈夫よ、大丈夫だからね」
メシアはそっとエレノアの体を抱き締めると、「大丈夫」と「今まで怖かったね」と、愛に溢れた言葉をかけてくれた。
エレノアもまた彼女の体を抱き締める。
その優しさを、温もりを、エレノアは生涯忘れることはないだろう。
子供達を助け、十三人からの信仰心を得たことにより『生命の鍵』は力を増し、今のノアは想像を二つまで具現化できる。
翼を生やし空を飛び、同時に周囲に擬態するマントを羽織り、急いでエジュリヌ大森林へと帰還していた。
形態王国になる、つまりは自分を一度殺してでも急いだ理由は、ヨハネの打ち立てた恐るべき計画の対策を練るため。
メシア達の元へ急いで戻ったノアだったが、そこで描かれていた光景に別の意味で言葉を失っていた。
「あら、ノア。おかえりなさい」
「ただいま……えっと、僕は少し席を外した方がいい?」
子供達が列をなして、順番にメシアの腕に抱かれている。彼女は子供達の頭を撫でつつ、思いやりの言葉を耳元で囁いていた。
なんとも微笑ましい光景だが、当事者でないノアが目の当たりにするのは憚れた。全員の抱擁が終わるまで待機しようかと、踵を返すが、
「気にしなくていいわよ、ノア。エレノアにこうしていたら皆起きて、ぼくもわたしもってこうなっただけだから。ん? なあに、エレノア……恥ずかしい? いいじゃない恥ずかしがらなくたって。貴女はまだ子供なんだから、甘えてもいいのよ?」
「で、でも、メシア様……」
エレノアは顔を真っ赤にして、メシアの裾をつまんで抗議している。何か言おうとしていたが、メシアに頭を撫でられると口をつぐんでいた。
「それよりも、何か大変なことがあった……ううん、これから起きようとしているんじゃない?」
子供達には柔らかい微笑みを向けながらも、声色だけ鋭くしてノアに問う。
「往復で三時間はかかるはずなのに、貴方が出て行ってからまだ二時間も経っていないもの。急いで戻る理由があった。そして現在進行形で起きているのなら、席を外した方がなんて、悠長なことは言わないわよね」
追加で捕捉する必要などない、全くもってその通りだ。説明するまでもなくノアの状況を言い当てたメシアに、ノアは一人嘆息する。
自分のことをよく理解してくれているのか、それとも単に彼女の洞察力が優れているだけなのか。
(個人的には、前者だと嬉しいかな)
薄く笑うが一瞬のことで、すぐに顔ばせに力を入れた。
「王冠の王、ヨハネ・ケトラルヒの勅命により、明後日の正午十二時ちょうど、王冠の都市全てで価値なき子の処刑が行われることになった」
沸き上がる怒りを必死に堪えて告げる。ヨハネに対してのそれが、子供達が感じてしまうことなどあってはならないためだ。
淡々としている様は、ともすれば無感情のように映っただろう。
しかし感情を堪えたただの言葉であっても、メシアと、何よりも子供達の受け取り方は甚大だった。
「そんな……また……」
「なんで、なんで殺されなくちゃいけないの……」
顔面を蒼白にしている子、感情が殺され虚空を見つめる子。反応はそれぞれだったが――絶望。感じているものは同じだった。
「十の都市と一つの王都。王冠全ての都市で同時刻っていうことは、つまり」
「うん。間違いなく、ヨハネから神の子に対する挑戦状だろうね」
いくらノアとて、十一人に分裂し全ての都市に駆けつけるなど……少なくとも、今はできやしない。
「今更だけど、メシア、ヨハネ・ケトラルヒとはどんな人物なんだい?」
「そうね……一言でいえば、この世の誰よりも尊大不遜な男よ」
かの王のことを話すメシアの口調は硬く険しい。
「力も、知恵も、何もかもが、自分こそが最も優れている。自分より秀でている人間など存在するはずがない……現国王のヨハネだけじゃないわ。建国時からこの国の王になる人間は、全員が同じ思想を抱いていたの」
ノアは納得し呟いた。「だから」と。
「ええ。だから王冠の掲げる理想は支配なの。最も優れている自分が国民を支配すれば、それが一番の理想の世界なのだと本気で信じているのよ」
「…………」
「そして歴代の王の中でも、ヨハネ・ケトラルヒはその思想が一番顕著に表れているわ。これまでの王はさすがに、国民の人生全てを支配することはなかったけど……ヨハネは何の躊躇もせず、即位したその日に一線を越えたわ」
「…………」
「一人一人の人生を完全に支配し、そんな自分を信仰するよう支配もしているからこそ、国民からの支持率は十か国で唯一九十パーセントを越えた、九十九パーセント」
メシアはかつてヨハネのことを「最強の王であり、最高の王」だと表現していたが、後者はあくまでも支持率だけを見た話とのこと。
「支配の結果生まれたのが価値なき子と、喪魂病っていう国病――」
「――待って、メシア」
怒りの炎に燃料を投下されつつも、口を閉ざして説明を聞き続けていたノアだったが、さすがに聞き逃せなかった。
「ヨハネの支配が原因で、価値なき子が生まれた……? それは本当なのかい」
「ええ……なぜかは、私も分からない。でもなぜか、価値なき子っていう存在が生まれてしまったのは、
ヨハネ・ケトラルヒが王になってからなの」
「――――。そう」
価値なき子を殺そうとしているのも問題だが、そもそもの元凶がヨハネだった。相槌以外の言葉を言おうものなら、怒りが爆発しそうで。ノアは「そう」としか返せなかった。
まだ、ここじゃない。怒りをぶつけるはヨハネと対峙した時。
ノアは深呼吸をして心を多少落ち着かせると、
「後者の、喪魂病っていうのは? 確か、処刑場の時も言いかけていたよね」
「王冠にしか存在しない、支配という理想が生み出した国病よ……魂の発する悲鳴、って言ったら、イメージしやすいかしら」
「魂の、悲鳴」
魔力を生み出し、魂があるとされている心臓がある位置を、服の上から掴む。メシアは「ええ」と頷いて、
「当たり前の話だけど、誰も本当は支配なんてされたくないの。ああしたかった、もっとこうして生きたかった。本当は叶えたい夢があった……支配に抑圧された願いが悲鳴となって、体を蝕んでいくの」
支配というヨハネの理想を聞いて――聞けば聞くほど、こう思う。
「やがては全身に亀裂が走っていって、亀裂から逃げるように魂が抜けていく様から、喪魂病。この国病によって王冠の平均寿命は、十か国最低の――四十歳なの」
「――。これの」
――これのどこが、理想の国なんだ。
国民を支配して、支持率を得る代わりに平均寿命を著しく下げて。価値なき子という、エレノア達被害者を生み出して。
「ノア……さま?」
声にこそ出しはしなかったが、さすがに、ヨハネに対する怒りが伝播してしまったのだろう。エレノアが心配そうにノアを見つめ、子供達が怯えたように震えていた。
「大丈夫だよ……ごめんね」
怒りで頭がどうにかなりそうだったが、彼女達の顔を見てなんとか冷静さが戻ってくる。
(――ぁ。そういう、こと?)
そして頭が冷えたことにより、価値なき子と喪魂病を結び付け、ノアはある一つの事実に感づいた。
確証はないが、確信めいたものがある。ただもしこれが事実ならと――考え始めたところで、脱線するとノアは首を振った。
「――今考えなければいけないのは、どうやって同時刻に処刑される子供達を助けるか、だね」
『王冠』含むアルカディア大陸に存在する十か国は、全て円を描くように形成されている。端から端まで約百キロ。一番離れている最南の都市に明後日の正午というのは、馬車で駆けつけるだけでもギリギリのタイミングだ。
(形態王国となって、何を具現化すれば……)
ノアの具現化できる想像は二つまで。もっと信仰心を集めていて、ノアを十一人具現化すれば簡単に解決できたのだが……。
(二つだけで、あるのか? 同時刻に十一か所に駆けつけられて、全員を助けられるような、そんな想像が)
〝何を〟具現化すればいいのか。ノアが考え始めたのはこの一点のみ。
思考の海に潜ろうとする。その刹那、
「あ! あの!」
遠慮がちに、しかし力強く、エレノアが手を挙げていた。
声は震えていたが瞳は揺らぐことはなく、意を決したかのように彼女は言う。
恐らくは、全員を助けることのできる、唯一の方法を。
「価値なき子の救出は、価値なき子達に任せてください!」




