その2
『……音楽以外ですか』
うーむ、とアンドゥスキアスが唸った。ピアノ以外で吉良醒時の心を占めるものがわからないのだろう。眉目秀麗、文武両道なのだから無理もない。だが、人が求めるのは何も能力だけとは限らないのだ。
「アモンから以前聞いたことがある。その昔、悪魔を伴侶に望んだ人間がいたらしい」
『はんりょ? 結婚したってことですか?』
「ああ。死んだ後に〈音色〉を明け渡す約束で、契約書と婚姻届けにサインしたとか」
その悪魔と人間がどうなったのかは煉も知らなかった。おそらくアモンも知らないのだろう。ただ、誘惑方法の一つとして教わった。
『悪魔には肉体がないのにどうやって人間と結婚したんですかねえ?』
「あらかじめ他の人間の身体をもらったんじゃないのか? オレみたいに」
悪魔が契約した人間からもらえるのはその人間の魂〈音色〉と身体だ。かくいうサマエルも以前に入手した『浅野煉』の身体に宿って人間界でも自由に行動している。一度も人間との契約に成功していないアンドゥスキアスのような悪魔は身体がないため、ヴァイオリンなどの無機物に宿るしかない。
『サマエルの仰りたいことはわかります』
アンドゥスキアスはごくりと喉を鳴らした。
『つまり、僕がその……性的な意味で、吉良醒時を、誘惑……すれ、ば』
「いやそれはちょっと無理があるだろ、淫魔ならばまだしも」
吉良醒時に男色の気があれば話は別だが。
そもそもヴァイオリンの身で一体どうやって人間と恋愛するのか。「楽器が恋人」とはあくまでも比喩だ。人間は無機物を愛するようには創造されていない。
「オレも直接会ったのは昨日が初めてだが、あいつは相当自尊心が高くて、優秀な人間と見た。そういう奴は大体孤独だ。友達はおそらく一人もいないだろう」
それでようやくアンドゥスキアスは煉の言わんとしていることを理解した。嬉しそうに『なるほど』と呟いた――と思いきや、すぐさま『でも』と落ち込んだ声を出した。
『本人が必要としていなかったら?』
「そもそも友情というものをわかっていない可能性が高い。なら友達がいかに素晴らしいものかを教えてやればいいんだ。失ったら困るものだと吉良醒時に思い知らせてやれ」
煉の提案に逡巡するヴァイオリン。しかし『そうですねえ……』とぼやくあたり、まんざらでもないようだ。最後のひと押しとばかりに煉はアンドゥスキアスを励ました。
「オレも協力する。二人であの高慢ちきな人間を攻略しよう」
『そうですね。サマエルがいらっしゃるのなら、恐れるものは何もありません』
決意を新たにしたところで、煉は鑑賞室に近づく人の気配を感じ取った。足音ではなく、気配。足音を殺す癖がついている者――と言えばまるで犯罪者のようだが、要するに踵から着地して正しく美しい姿勢で歩いているということだ。演奏者に限定すれば『基本姿勢が身についている者』と判断できる。
「おいでなさったようだぞ」
煉は素知らぬ振りして未分類の楽譜を手に取った。