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地獄篇 第一歌

 アンドゥスキアスのことを表すのなら「地獄一の落ちこぼれ」の一言で足りる。

 この憂いの国に生まれ堕ちて早十六年。悪魔ならば持って然るべき翼がいまだに生えてこない。童顔で小柄。角も牙も爪も大して伸びず、「まるで人間のようだ」と他の悪魔達から毎日のようにからかわれた。

 問題は見目だけではなかった。アケロンの川を渡ろうとすれば舟から足を滑らせて溺れかけ、嘆きの谷を歩いていれば飄風に煽られて転落し、下でうごめく亡者達の袋叩きに逢う。現世で人間を誘惑すればお悩み相談を延々と聞かされた挙句、生きる希望を勝手に見出されて前向きに生きる力をつけられてしまう。

 あまりの無能さに、ついには師にまで破門を言い渡され、見捨てられた。

 行き場を失ったアンドゥスキアスは、嘆きの谷の第一圏、通称リンボ〈辺獄〉に居を構える。やることもないので木を削ることに精を出した。深淵の縁からは亡者たちの叫喚が雷鳴のように轟いている。悪魔にとって心地いいはずの悲鳴にしかし、アンドゥスキアスは顔をしかめた。

「また玩具作りか。道楽も大概にせよ」

 背中に投げかけられた懐かしい師匠の声――とはいっても破門を言い渡されてからまだ七日しか経っていない。やむなくアンドゥスキアスは作業の手を止めた。立ち上がって振り向く。

「何度も言ってますが、これは玩具ではなく、楽器でぐはぁっ!」

 撞木で衝かれたような一撃が頬にクリーンヒット。アンドゥスキアスはもんどりうって倒れた。削り途中だった部品の一つが手から滑って、地面に落ちる。出会い頭に殴り飛ばしてきた師匠に、アンドゥスキアスは恨みがまし気な視線を向けた。

「い、いきなり何をするんです」

「頭が高い貴様が悪い」

「どちらかというと僕の背は低い「黙れ!」

 反論を理不尽に遮り、師匠は隣にいた者に深く頭を垂れた。

「なにとぞご無礼をお赦しください。自分が何をしているのかわかっていないのです」

「突然押し掛けたのだから無理はない。悪かったな」

 気さくなお言葉。しかしその声を耳にしただけでアンドゥスキアスは、自分がいかに愚かなことをしたのかを察した。地面に付した状態で硬直。身体が動かなかった。太古より定められし悪魔として本能。この存在に決して逆らってはならない。

「あ……うそ、だ」

 地獄の最下層。最も深き第九の圏におわす帝王の申し子。震える唇から無意識にその名が漏れる。

「…………サマエル〈神の毒〉」

「そう呼ばれているな」

 万を超える悪魔を従える王の中の王。いずれは地獄の帝王ルシフェルを継いで地獄に君臨する主君と会うのはこれが初めて。お目通りが叶うとは夢にも思わなかった。

 だが、姿を見なくても、声を聴いただけで――気配で十分だった。その存在は、悪魔の中にあっても一際の威光を放つ。

「楽器を作っていたのか?」

 伏せるアンドゥスキアスの視界の端で、白い手が削り途中の部品を拾い上げるのを捉えた。

「渦を巻いている。面白い形だな」

「申し訳ございません」

「何故謝る?」

「人間から奪うべき〈音色〉を悪魔が自ら生み出そうなどと……愚の骨頂でございます」

 悪魔の本分は人間の魂――〈音色〉を奪うこと。人間と契約を持ち掛け、望みを叶える代わりに〈音色〉をいただくのが一般的だ。〈音色〉が奏でる悪魔固有の〈旋律〉によって、悪魔は力をつけるのだ。より強く、上位の悪魔になるためには、人間の〈音色〉は必要不可欠であり、それはアンドゥスキアスとて同じことだ。

 力を生み出すわけでもない楽器作りに精を出すのは、非常識の極み。悪魔の自覚がないと烙印を押されてもやむを得ない。

 サマエルは「それはどうだろうな」と真意を測りかねる台詞を紡いだ。

「この形はオレにも見覚えがある。大きさから察するにヴァイオリンだな。違うか?」

 やはりこのお方は聡明だ。人間界の物だというのに正確に把握している。アンドゥスキアスは「さようでございます」と言葉を絞り出した。

「なんだ、緊張しているのか」サマエルは薄く笑った「仕方のない奴だな。アンドゥスキアス、面を上げろ。立て」

 言われるがままアンドゥスキアスは立ち上がった。平均的な悪魔よりも低く、みすぼらしい身体を、よりよってサマエルの御目に触れさせてしまうことが、恥ずかしくてたまらなかった。

「よく見ろ」

 アンドゥスキアスは目を見張った。顔を覗き込むサマエルは彼と同じくらい小柄で、幼かった。翼も、角もなければ牙もない。条件だけで見れば、アンドゥスキアスと同じだった。しかし、明らかに違った。存在する次元がまるで違った。

「お前の前にいる悪魔は、お前と同じくらい小さい子供だ。何を恐れることがある?」

 その時の衝撃をどう表せばいいだろう。アンドゥスキアスは声もなく立ち尽くした。

 亡者の呻き、嘆き、悲鳴、そして腐った肉と血の臭い。混沌とした地獄に慄然と君臨する王。崇高で、慈愛と威厳に満ちたサマエル。

 この存在と同じだなんて嘘だ。夢想するだに愚かしい。地獄に君臨する王は、小さな身体でありながら、どこまでも気高く、美しかった。

 ともすればアンドゥスキアスの膝は自然と折れた。

「いいえ、あなたはこの地獄を統べる方です」アンドゥスキアスは最上級の礼をした「いと深き闇の君、拝謁叶いまして恐悦至極に存じます」

 アンドゥスキアスは感激でいっぱいだった。サマエルが、地獄でもっとも尊いお方が、塵に等しい自分なぞのことを目に留めてくださった。なんという幸福、なんという光栄! この場で身を引き裂かれてもアンドゥスキアスは構わなかった。

 だからアンドゥスキアスは気づかなかった。

 一向に伏せたままの自分を、サマエルがどんな表情で見下ろしていたのか。

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