(前奏) その4
『もし黙らなかったら?』
小馬鹿にした口調。醒時のこめかみが痙攣した。
「先ほどから、どうも声はこの楽器棚の方からしているような気がする」
『ぎく』
「愚かしい限りだが、このオレを振り回したツケは払ってもらうぞ」
拾い上げたばかりの鞄を床に放り投げる。臨戦態勢に入った醒時に『声』はあからさに動揺を示した。
『い、いくらなんでも弦楽器を全部調べるなんて……っ!』
「なるほど、ヴァイオリンか」
手前の棚に並べてある弦楽器は、ケースに納められたヴァイオリンだけだ。貴重な情報を提供した自称悪魔の間抜けさに感謝しつつ、醒時はガラス戸の鍵を開ける。
『え、いや、ちょっと、やめっ』
制止を無視して醒時が戸棚を開けたのと、倉庫の扉が開かれたのはほぼ同時だった。視線をやれば、音楽科の教師が目を剥いている。立ち入り禁止の音楽科倉庫に普通科の生徒がいるのだから当然と言えば当然の反応ではある。
咄嗟に醒時の頭ではこの状況を理論的に説明できる言い訳を考え始めた。放課後、人気のない生徒立ち入り禁止の音楽科倉庫に鍵を入手して侵入し、あまつさえ楽器に向かって何事かを話している普通科の生徒の事情――気がふれた以外になんと説明できようか。
茫然とする教師の顔を眺めつつ、醒時は深くため息をついた。
最悪だ。
煉は教室の壁時計を確認した。午後五時半。生活指導教員に作文用紙を渡されてから一時間以上経過していた。にもかかわらず『反省文』と題された原稿には一文字も記されていない。
開けっ放しの窓から生ぬるい風と弦楽器の音色が滑り込んできた。今日はパートごとの練習らしい。微妙に揃っていないハンガリア狂詩曲。音楽祭まではまだ日があるものの、メインの協奏曲が控えている。
遊んでいる暇はないはずだがな。煉は肩を竦めた。
演奏が中断する度に、お喋りの声が再開される。話題はもっぱら協奏曲のソリストのこと。もはや練習なのか雑談会なのかわからないくらいだ。
しかしそれも、一人反省文を書く煉には関係のないことだった。一度は放り投げたシャーペンを手にする。手にしただけで止まる。何を書けばいいのかがわからない。そもそも何が悪かったのかが煉には理解できなかった。
シャーペンをくるくる回すこと、しばし。とりあえず煉は音楽の父の名前を書いてみた。「Johan Sebastian Bach」確かこう綴るはず。今日の音楽史で覚えた唯一の事項だった。
なんとなく筆記体で洒落た感じに書くと、気分が乗ってくる。
ルートヴィヒ=ヴァン=ベートーヴェンは「Beethoven」。本当はフルネームにしたかったのだが、綴りがわからないので諦めた。バッハ、ベートーヴェンとくれば次は決まっている。「Brahms」だ。
煉は三人の名前を書いた紙をかざした。まあ悪くはない。放課後の教室に一人。原稿用紙のマス目を無視して、でかでかとドイツ三大B。
教室の扉が開け放たれたのは、ちょうどその時だった。